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北のヴェネツイア



1月末、ヴェネツィアから英国の自宅へ戻り、その次の週にはブルージュへ帰省していた。

ヴェネツィアから「北のヴェネツィア」へ。


ところで、ブルージュが「北のヴェネツイア」と呼ばれるのに、ヴェネツィアが「南のブルージュ」と呼ばれないのはなぜだろうか。


実際、ヴェネツィアとブルージュのの街の質・量の規模は全然違う。

面積はヴェネツイアは本島のみが5.17平方キロメートル、ブルージュは旧市街だけで4.1平方キロメートル。

しかし、ヴェネツィア共和国が獲得して運営した植民地の数と総面積(例えばコンスタンティノープルを攻めてラテン帝国を打ち立てたほどだ!)、戦闘の数などは、ブルージュとは比較にすらならない。

歴史的建造物、記念碑、芸術品などの数も桁が全然違う。
ブルージュには現在まで残る教会が22だか23(このサイズの町としては多い方らしく、観光ガイドは強調してアナウンスする)。
ヴェネツイアにはなんと139! 139! これは微差どころの話ではないですね。いや、参りました、さすがです、アドリア海の女王様。


しかし、16世紀後半になるとイタリア経済は衰微し始め、バルト海・北海沿岸諸国が台頭、「ヴェネツィアに変わってヨーロッパ経済の中心都市になったのはブルージュ、ついでアントワープであった」と評されたほどなのに、これほどまでに規模が違うのはなぜなのだろう。


ヴェネツィアもブルージュも同時期に最盛期(14世紀から15世紀)を迎えている。

水が常に侵食してくるこれらの土地では、自給自足がかなわず、かといって特に売るべきものも多くはなく、交易に従事する他なく、貿易、金融、造船業と海運業で栄え、外国人の往来が多く、信教の自由や法の支配が徹底した共同体を作り上げていた。

ヴェネツィアが絢爛たるヴェネツィア・ルネサンスを開花させた一方で、ブルージュもまた北方ルネサンスの地として花開き、イタリア・ルネサンスに影響をさえ与えている。


一番大きな違いは、ヴェネツイアは共和国を作り、自前の軍を持つが、ブルージュはずっとブルゴーニュ公国などの封建君主下に置かれていたことだろうか。
ブルージュも自治を特権として持つ都市ではあったが。



15世紀のスペイン人貴族青年ペロ・タフールは旅行記の中で、ヴェネツイアとブルージュを以下のように比較している。いきいきとした記述だ。


「ブルージュの街は大きく、とても豊かであり、世界で最も大きな市場の一つである。

二つの街が互いにその商業的覇権を競っていると言う。

西のブルージュと東のヴェネツィアである。

しかし多くの人が私の意見に同意すると思うが、ブルージュの方がヴェネツィアより商業活動が盛んである。

理由はこうだ。西の方ではイングランドも商業活動を行なっているとはいえ、全体においてブルージュ以外に大規模な商業センターは存在しない。

ブルージュの港から出航する船は1日に700隻を超えているそうだ。

一方で、ヴェネツィアはどれほど豊かであるにしても、商業に従事する者はヴェネツイアの住民だけなのである。

ブルージュの街はフランダース伯の領地で、その首席にある。

人は多く、家と通りは美しく、そこに労働者が住んでいる。美しい教会、僧院、宿屋もある。
ここは裁判でも他の点でも厳しく統治されている。

物品はイングランドから、ドイツから、そしてブラバント、ホランド、ジーランド、ブルゴーニュ、ピカルディ、フランスの大部分から運び込まれる。ブルージュはあたかもこれら諸国の港湾か市場のようである」(訳はモエ)


これほど謳われたブルージュが、あたかも早々に打ち捨てられ、その地位をあっけなくアントワープに明け渡し、衰退してしまったように見えるのはなぜだろうか。
(実際にはブルージュはあっという間に衰退して消えたわけではなく、16世紀以降も時勢を見ながら生き延びてきたのであるが)


まず、周知の事実として、ブルージュの港湾ズウィンが土砂の堆積によって航行困難になったことがあげられる。

次に、羊毛の取引に関する失策である。

12世紀には、イングランド王権とフランス王権の対立と、イングランド王権とフランダース諸都市の対立が目立った(これらの対立は百年戦争にまで続いていく)。
その結果、ブルージュが相対的に安価なイングランド羊毛の輸入港として独占の地位を占めた。

が、15世紀前半になると、ブルージュを含めたフランドルの諸都市は、安価なイングランド産毛織物の流入に危機を感じるようになる。イングランド羊毛に市場を奪われることを恐れ、ブルゴーニュ公にイングランド羊毛輸入禁止の措置を求めたのだ。

このような手段に訴えたことこそ、ブルージュ経済が陰り始めていたことの証明だろう。歴史が証明するように、覇権を手中にする強い国は自由貿易を求めるのが常だからだ。

一方、アントワープは引き続き安価なイングランドの毛織物を受け入れたため、こちらにイングランド産毛織物が流入するようになった。
この毛織物をケルン商人が購入し、南ドイツなどへ供給。15世紀半ばには、南ドイツ商人が直接にアントワープに取引に訪れるようになっている。

この南ドイツ人の活動範囲の拡大により、他の交易品もブルージュ経由の必然性がなくなり、アントワープの重要性が高まる。

興味深いのは、この時点で、品質維持を主眼においた高級イタリア毛織物は高価になりすぎ、すでに国際的競争力を失っていたようである。


わたしが悪い頭で調べて考えた仮説はこうである。

タフール氏も書いているが、ヴェネツィアで商業に従事したのはヴェネツィア人だけだった。

一方で、ブルージュを繁栄させた交易や金融、海運業に従事した主要なプレイヤーは、割合として外国人が多かったのではないか。

支配階級からしてブルゴーニュというフランス系の移動する宮廷だった。

実際の数字を見てみると、15世紀半ばに、ブルージュには最大400人の外国人がいたという。
ドイツ、イングランド、スコットランド、スペイン、ポルトガル、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ルッカ、フィレンツェ...
ブルージュには確かに今でも「フィレンツェ館」があり、「東方の人広場」があり、「スペイン通り」が今も残っている。


つまり、現在の世界でまさに起こっている、「グローバル資本」的な何かががあの時代にすでにブルージュで起こっていたのではないか。

どういうことかというと、外国人はブルージュが交易地として利益を上げる間は使うだけ使い、ブルージュの港としての機能が衰え、保守化し、近郊のアントワープが代わりに台頭してくると、ブルージュを捨てるのに躊躇がなかったのではないか。

その土地のインフラ整備や補修・修繕、人材育成などに投資したり、還元するよりも、焼畑農業的に、ここで利益が上がらなくなったら次の場所へ移ればいい的な意識を持っていたのではないだろうか。

彼ら外国人がいくら儲けたとしても富を蓄積したのは本国にであり、記念碑を建て、芸術品を奉納したのも本国、だったのではないか。

もし、ブルージュにおいて、交易、金融業などに従事する主要なプレイヤー陣がほとんどブルージュ人で、支配階級のトップもブルージュ人ならば、これほど簡単にブルージュを見捨ててアントワープに移ることはなかったのではないか。

逆に、ヴェネツィア共和国ではこれらはすべてヴェネツィア人が担っていたのである。

これが今に残る街の質的、量的規模の違いなのではないか。


勉強不足でこれが今のところはわたしの限界...

もちろん、これが正解だとは思わないし、他の要因もあるのだろう。
でもなぜか現代と同じような病理を見てしまうのである。


参考図書一部
フィリップ・ドランジェ 高橋 理監修『ハンザ 12ー17世紀』
河原温『ブルージュ フランドルの輝ける宝石』
玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』
玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』
塩野七生『海の都の物語』
THE TRAVELS OF PERO TAFUR
どの本もとてもおもしろいです! おすすめです!

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