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二羽の鳩




英国ロイヤル・バレエが上演中の2本立てを。

Asphodel Meadows
by Liam Scarlett

The Two Pigeons
by Frederick Ashton


『二羽の鳩』
古い。古すぎる。
脚本をそっと閉じて再びお蔵入りさせてもいいと思う。
本物の白い鳩はとても愛らしいが。


『二羽の鳩』は、フレデリック・アシュトンが1961年に制作し、「アンコールの声高く」数年前に再上演された作品だ。

わたしも2016年に初めて鑑賞したときは、フレデリック・アシュトンらしい、上品でコミカルで、他愛のないいい作品だと思ったのだが、あれはひとえに主人公を踊ったローレン・カスバートソン(写真)の優れたコメディエンヌ性と品の良さだけに依拠した結果だったのだ。


バレエのストーリーは古い作品だからといって古くさくなるのではないと思う。
古いのと古くさいのとは違う。

現に三大バレエと呼ばれている作品はどれも古色蒼然としたストーリーのベースを持っている。
しかし、いや、それだからこそ、何度も語り直され、挑戦され続けている。


では『二羽の鳩』はどこがいまひとつなのだろうか。

この話の主人公のカップルの男性が、どうしようもないアーティスト(気取り)の男で、そのようなつまらない男を2人の女が取り合うのは馬鹿げているとか、浮気をして戻って来た男を女が許すのは自己評価が低すぎて見ていられない、そんな男は今すぐ捨てるべきだ、現代の男女の感覚に全くそぐわないなどというのは(実際ある評論はそう書いていた)的外れだと思う。

なぜならクラシックバレエの悲恋はだいたい常にそのような話だからだ。

クラシックバレエの話が古びて駄目になるとき、それは話に語り継がれるべき核心や普遍性がないときだ。

例えば『白鳥の湖』はとても古い作品で、舞台背景も『二羽の鳩』が設定している時代よりもずっと古い。
しかし、話の構造が入れ子状になっており、それ自体がおもしろい。

また、登場人物ひとりひとり、実在する人間のように曖昧で二面性があり、どうにでも解釈できるキャラクターの厚みがある。
それらは人間性の本質への深い洞察に基づいていて、自己同一性の不確かさ、孤独な魂、成熟するということ、罪と罰、愛と許し、死人や神、この世とあの世、そして生と死、人間と世界そのものが語られている。

『白鳥の湖』の王子も、2人の女性の間で失敗するどうしようもない男の一人であるが、こちらが滅びることは決してないだろうと思う。


一方で『二羽の鳩』はキャラクターが紋切り型すぎ、ストーリー自体が薄すぎるのだ。
若いアーティストは気難しく、若い彼女はかわいらしいだけで落ち着きがなく、ジプシー女は奔放でセクシー。彼はジプシー女に惹かれるが、目が覚めて彼女の元に帰ってくる...おもしろいところがひとつもない。

人間の集合知のように幾重にも重なる層で構成されていない薄い話は、おそらくどんなにすぐれた振付家(フレデリック・アシュトンその人)が振付ようと、一過性にしかならないのだと思う。

何度も上演される作品、時間と批評をくぐり抜けてきた作品というのは伊達ではない。

ダンスの技術だけでなく、人間性に対する深い洞察力とそれを表現する能力もある優れたダンサーを薄い話に使うのは才能の無駄遣い...だと素人は思った。
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