それは、二月のある夜のことだった。厳しい寒さが、何日か続いたあと、ふっと寒さが緩んで、春が来たかのような、暖かさだった。私は、池袋の街を歩いていた。とくに用事はなかった。久しぶりの暖かさに浮かれて、ぶらぶらと、散歩した。
交差点で信号を待っていると、ピンクの派手なジャンパーを着た、女の子が近寄ってきた。
「あの、よかったら、飲んでいきませんか」
彼女は、一枚のチラシを差し出した。それは、サラの店だった。
「今だと、最初の一時間、四千円になります。いかがですか?」
サラと別れてから、一年以上が、経っていた。あれから、一度も、店には行かなかった。そして、サラのことも、店のことも、長い間、頭から消えていた。
「んー、いいや。飲む気ないし。お金も、あんまり持ってないから」
「もしですね、四十分までなら、二千円で大丈夫なんですよ。どうでしょうか」
彼女は、食い下がった。まだ、あどけなさが残る、少女のような子だった。その黒い瞳を見ていると、久しく忘れていた、サラの顔が、まざまざと浮かんできた。
「店に行ったとして、君は、付いてくれるの?」
予想外の質問だったのかもしれない。彼女の目が、少し大きくなった気がした。
「いえ、あの、わたしは、あの、ダメなんです」
そして、小さな声で言った。
「ちょっと、歳の関係で」
二年前の今頃、サラも、この子と同じように、路上でビラを配っていた筈だった。
「分かった。行こう。その店」
「わたしは、あの、ダメですけど」
「いいよ、それで」
「ほんとですか?やったー。ありがとうございます」
彼女は、ニコニコしながら、私を店に案内した。呼び込みは、今日が初めてで、お客さんが全然来てくれないので、どうしようか困ってた。彼女は、途中、そんな話をした。
席に着いて、店を見渡してみた。内装など、以前とほとんど変わっていなかった。懐かしい眺めだった。
「いらっしゃいませ。今日、暖かいですよね」
大きなストールを肩に掛けた、女性が席についた。名札を見ると、クミコだった。彼女も、私を、すぐに思い出した。
「お客さん、以前、よくいらしてた。サラちゃん、指名の」
「うん。よく覚えてるね」
「ええ、よくいらしてる方は」
クミコは、女の子とか、黒服とか、メンバーが、前とは、随分変わったと言った。
「サラは、どうしてるの?まだ、やってるの、この店で」
「いいえ、サラちゃんは、辞めました」
クミコは、私の顔をじっと見た。そして、おもむろに話し始めた。
「ジンナイさんも、辞めたんですよ。お客さん、ジンナイさん呼んで、怒ったことあったでしょ。あれから、二ヶ月くらいして」
「なぜ、辞めたの?僕が、怒ったのが関係してるとか」
「いいえ。ジンナイさん、沖縄に帰って、結婚したんです」
「結婚って、相手は?」
「もともと、沖縄に、婚約者がいたみたいですよ」
私は、絶句した。クミコは続けた。
「サラちゃん、すごく悲しんでました。ジンナイさんが辞めてからも、サラちゃんは、半年くらい、店に出てたんですよ。でも、お客さんについているとき以外は、いつも泣いてました。本当に、いつもいつも泣いてるんですよ。色んな想い出があって、この店にいるのは、つらいんでしょうね。それでも、店を辞めないで、サラちゃん、出て来るんです。サラちゃん、ジンナイさんのこと、本気で好きだったんですね」
一時間ほど飲んで、会計をした。クミコは、店の前まで、見送ってくれた。ふと、サラは、今、例のデパートで、働いているんじゃないか、そんな考えが、心に浮かんだ。
「サラが、今、どうしてるか、知ってる?駅前の百貨店で、働いているとか?」
「今のことは、ちょっと分からないです」
「T百貨店で、一時、働いてたでしょ。婦人服売場で。知らない?」
「ああ、それ、サラちゃん、そのデパートの面接受けたんですよ。でも、落ちたって言ってました。だから、そこで働いたことは、ないと思いますよ」
お祝いのプレゼントを貰ったときの、無表情なサラの顔が浮かんだ。
「そうなんだ。ありがとう」
クミコと別れて、駅に向かって歩いた。真冬なのに、空気が生暖かかった。
サラは、色んな嘘をついていた。そして、サラも、大きな嘘をつかれていた。誰かを騙して、誰かに騙されていた。彼女は、あの店で、金儲けの道具にされて、心と、体と、そして、十八、十九という貴重な時間を、すり減らしただけだったのだろうか。
それとも、サラは、あの店から、何かを得たんだろうか?
サラの言葉を思い出した。
自分は、恋愛ロボットだ。ひとを好きになるために、生まれてきたんだ。だから、好きになったら、とことんいっちゃうんだ。
私を、追い払いたかったのは、ジンナイではなく、サラだった気がしてきた。ジンナイとの関係を、私にしゃべってしまったことが、彼女の心の負担になっていた。そのことをジンナイが知れば、自分は、嫌われるかもしれない。それが、怖かった。
だとすれば、最後の日、私は、サラの最も嫌がることを、してしまったことになる。
あの時は、ジンナイに遊ばれているサラを、助けるつもりだった。しかし、実のところは、私には目もくれない、サラに対する苛立ちが、爆発したのかもしれない。
「結局、嫉妬じゃないか」
ほろ苦い味が、心の中に広がった。
池袋駅の地下構内は、家路を急ぐひとで、あふれていた。一人の若い女性とすれ違ったとき、ふっと、青林檎のような甘い香りがした。
サラだ。サラとすれ違った。
はっとして、振り返った。人の群の中に、サラを探した。しかし、雑踏に紛れて、その女性がどこに行ったのかさえ、分からなかった。ただ、ひとびとが、無表情に行き交っているだけだった。
おわり
「池袋のサラ」、いかがだったでしょうか。最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます。
最初から読みたい方は、ここから、第一話へジャンプできます。
交差点で信号を待っていると、ピンクの派手なジャンパーを着た、女の子が近寄ってきた。
「あの、よかったら、飲んでいきませんか」
彼女は、一枚のチラシを差し出した。それは、サラの店だった。
「今だと、最初の一時間、四千円になります。いかがですか?」
サラと別れてから、一年以上が、経っていた。あれから、一度も、店には行かなかった。そして、サラのことも、店のことも、長い間、頭から消えていた。
「んー、いいや。飲む気ないし。お金も、あんまり持ってないから」
「もしですね、四十分までなら、二千円で大丈夫なんですよ。どうでしょうか」
彼女は、食い下がった。まだ、あどけなさが残る、少女のような子だった。その黒い瞳を見ていると、久しく忘れていた、サラの顔が、まざまざと浮かんできた。
「店に行ったとして、君は、付いてくれるの?」
予想外の質問だったのかもしれない。彼女の目が、少し大きくなった気がした。
「いえ、あの、わたしは、あの、ダメなんです」
そして、小さな声で言った。
「ちょっと、歳の関係で」
二年前の今頃、サラも、この子と同じように、路上でビラを配っていた筈だった。
「分かった。行こう。その店」
「わたしは、あの、ダメですけど」
「いいよ、それで」
「ほんとですか?やったー。ありがとうございます」
彼女は、ニコニコしながら、私を店に案内した。呼び込みは、今日が初めてで、お客さんが全然来てくれないので、どうしようか困ってた。彼女は、途中、そんな話をした。
席に着いて、店を見渡してみた。内装など、以前とほとんど変わっていなかった。懐かしい眺めだった。
「いらっしゃいませ。今日、暖かいですよね」
大きなストールを肩に掛けた、女性が席についた。名札を見ると、クミコだった。彼女も、私を、すぐに思い出した。
「お客さん、以前、よくいらしてた。サラちゃん、指名の」
「うん。よく覚えてるね」
「ええ、よくいらしてる方は」
クミコは、女の子とか、黒服とか、メンバーが、前とは、随分変わったと言った。
「サラは、どうしてるの?まだ、やってるの、この店で」
「いいえ、サラちゃんは、辞めました」
クミコは、私の顔をじっと見た。そして、おもむろに話し始めた。
「ジンナイさんも、辞めたんですよ。お客さん、ジンナイさん呼んで、怒ったことあったでしょ。あれから、二ヶ月くらいして」
「なぜ、辞めたの?僕が、怒ったのが関係してるとか」
「いいえ。ジンナイさん、沖縄に帰って、結婚したんです」
「結婚って、相手は?」
「もともと、沖縄に、婚約者がいたみたいですよ」
私は、絶句した。クミコは続けた。
「サラちゃん、すごく悲しんでました。ジンナイさんが辞めてからも、サラちゃんは、半年くらい、店に出てたんですよ。でも、お客さんについているとき以外は、いつも泣いてました。本当に、いつもいつも泣いてるんですよ。色んな想い出があって、この店にいるのは、つらいんでしょうね。それでも、店を辞めないで、サラちゃん、出て来るんです。サラちゃん、ジンナイさんのこと、本気で好きだったんですね」
一時間ほど飲んで、会計をした。クミコは、店の前まで、見送ってくれた。ふと、サラは、今、例のデパートで、働いているんじゃないか、そんな考えが、心に浮かんだ。
「サラが、今、どうしてるか、知ってる?駅前の百貨店で、働いているとか?」
「今のことは、ちょっと分からないです」
「T百貨店で、一時、働いてたでしょ。婦人服売場で。知らない?」
「ああ、それ、サラちゃん、そのデパートの面接受けたんですよ。でも、落ちたって言ってました。だから、そこで働いたことは、ないと思いますよ」
お祝いのプレゼントを貰ったときの、無表情なサラの顔が浮かんだ。
「そうなんだ。ありがとう」
クミコと別れて、駅に向かって歩いた。真冬なのに、空気が生暖かかった。
サラは、色んな嘘をついていた。そして、サラも、大きな嘘をつかれていた。誰かを騙して、誰かに騙されていた。彼女は、あの店で、金儲けの道具にされて、心と、体と、そして、十八、十九という貴重な時間を、すり減らしただけだったのだろうか。
それとも、サラは、あの店から、何かを得たんだろうか?
サラの言葉を思い出した。
自分は、恋愛ロボットだ。ひとを好きになるために、生まれてきたんだ。だから、好きになったら、とことんいっちゃうんだ。
私を、追い払いたかったのは、ジンナイではなく、サラだった気がしてきた。ジンナイとの関係を、私にしゃべってしまったことが、彼女の心の負担になっていた。そのことをジンナイが知れば、自分は、嫌われるかもしれない。それが、怖かった。
だとすれば、最後の日、私は、サラの最も嫌がることを、してしまったことになる。
あの時は、ジンナイに遊ばれているサラを、助けるつもりだった。しかし、実のところは、私には目もくれない、サラに対する苛立ちが、爆発したのかもしれない。
「結局、嫉妬じゃないか」
ほろ苦い味が、心の中に広がった。
池袋駅の地下構内は、家路を急ぐひとで、あふれていた。一人の若い女性とすれ違ったとき、ふっと、青林檎のような甘い香りがした。
サラだ。サラとすれ違った。
はっとして、振り返った。人の群の中に、サラを探した。しかし、雑踏に紛れて、その女性がどこに行ったのかさえ、分からなかった。ただ、ひとびとが、無表情に行き交っているだけだった。
おわり
「池袋のサラ」、いかがだったでしょうか。最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます。
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