中さん

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日記(12.8)

2021-12-08 10:44:51 | 日常
12月8日(水曜日)雨
夜中酷い雨降りであった。眼が覚めた2時頃はザーザー音も凄かった。
土曜日に見舞った旅仲間のKさんが月曜日6日夕刻亡くなった。
会っておいてよかった、葬儀の日程も決まったので、いろいろ準備をしておく。
身近にお付き合いをしていた方が亡くなるのは辛い。
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彼は、いつもドライバー兼案内もしてくれた。運転が大好きであった。
思い出すときりがない程、出かけた場面が浮かぶ。
能登島・和倉・金沢近辺と島の民宿で新鮮魚貝の巨大船盛、珠洲市のうどん
毎年の新潟山菜獲りで独活「ウド」やこごみ、フキノトウを雪を避けながらの楽しい日々。
日光の黄葉 照葉狭 尾瀬 吹き割の滝の本当に近くに身内がいてそこから歩いての滝巡り。
沼田城の周辺巡り 何回も行った八ッ場ダム・八木沢ダム 野尻湖 野反湖など
リンゴ狩りやBQQなど・・明治神宮・奉納相撲国技館 は毎年行っていたなあ~!
新潟のあつみ温泉や瀬波温泉・松本城近隣 御前崎周辺と袋田の滝や五浦海岸・・次々と思い出す。
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今朝の新聞に開戦80年とある。

毎日新聞 余禄に当時のその日に感じた著名人の感慨を書いてある。
「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」。
「智恵子抄」の詩人、高村光太郎は対米英戦開戦の日の感慨をこう書いた。
 日中戦争の泥沼化で鬱屈した空気を吹き飛ばすような強大国への挑戦だった
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▲もちろんまったく異なる受け止め方をした人々もいる。
 当時、米映画の配給会社にいた淀川長治は号外を見て、
「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している。
▲名高いのは後に東大学長となる南原繁(なんばら・しげる)が開戦の報に詠んだ歌、
 「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。
 では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか!
▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿(このえ・ふみまろ)だった。
 それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、
 前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である。
開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。
 同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右(まつおか・ようすけ)である。
 米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。
 腹心に語り、落涙したという。
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●緒戦の大勝に熱狂する世論、
 ●米映画通が予感した敗戦、
 ●知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、
 ●そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言……。

        学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。
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私の年代は戦後生まれて70数年経た、
全く平和だ。これでいいのかと思う日々だ。
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★多くの方の話は聞いたり、学ぶべき歴史の本も読み報道番組も沢山観ているが
やっぱり歴史の生き証人から聞いた話は鮮烈だ。
訳も分からず226事件に参加させられ南方前線送り戦車長で2台潰された戦車でも
生き残り、ダルカナル島に行く寸前で死をも覚悟したら終戦。
戦場の地獄はとても想像つかないであろう。と語ってくれたことが記憶に
強く残っている。早死にであったがとても怖い顔の人だが良き伯父であった。
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コメント
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