ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

今日を生きる

2022-03-17 | わたしの思い

Beyond The Limits

 

 

 

今朝はかかりつけの医師のもとで、簡単な健康診断。 まず問診リストに答えを書いていく。 進めているうちに、気がついたが「これは老化検査なの?」と思える質問ばかり。 最近突然混乱状態になったか(否)、目が始終霞むか(否)、聴力は劣ったか(否)、それから看護師は、「今お座りの椅子から立ち上がって、2メートルほど先の流し(こちらの医師のオフィスでは大抵ちいさな手洗い用の流しが各診察室にある)までお歩きください」である。 そつなく、すっと立ち上がり、さっさと歩くと、今度は簡単な記憶力テストで、「この住所を覚えていてください、これからまったくこれに関係ない会話をして、それからこの住所をお聞きしますから。 John Brown, 42 East Brunswick。」 

20を逆に数えて、一年の月を12月から逆に言う、今日は何年何月何日?などなど質問され、即座に答えてから、さきほどの住所を聞かれ、John Brown, 42 East Brunswickと答えた。 満点! あたりまえじゃないの、と思いつつも、医師は「あなたはもうすでにPower of Attorney(本人が心身耗弱の際の意志・判断を任せられる人)、成年後見人、はきちんと手配していますか?」と聞く。 

夫と私は遺書を大分前に弁護士に作ってもらっているが、たとえば、蘇生措置拒否や成年後見人などは実際には文書化していないので、考えておいてください、と言われる。 今日のところ健康で精神も健常、と言われて、それでも、そんなこんなでオフィスを出た頃には、すっかり30歳は歳をとってしまった気分で、仕事へ向かった。 

そうだ、9人孫がいれば、私は空中楼閣、砂の城、みたいな存在かもしれない。 つまり真夏日の車の中に置き忘れられたチョコレート。 日本の鉄道やバスで立っていたら、シルバーシートに座ったり、若い方に席を譲られてしまう存在に昇格したわけだ。 日本の姉とのLineのやりとりで、スタンプにいちいちかわいいと嬌声を上げる私は、まだ幼いもんだ、と思っていたが。。。

長男が実家に帰宅している時、大学病院のインターンからの電話で、「喧嘩をして殴り合いになり、眼球が飛び出しそうな患者が、ERに来ているんですが、明日にはXXX先生(つまり長男)に彼の手術執刀お願いできますか?」などと物騒な知らせ。 明日とは言わず、すぐ車に乗って4、5時間運転して戻ったが、そうだった、長男ももう親の私や夫さえ手の届かない(知識も技術も及ばない)医学の世界で人を助けているのだった。 私が「年寄り検診」に招かれるはずだ。 

明日が提出日という前夜その宿題をすっかり忘れていた長男のために夜鍋してコロンバスのサンタマリア号の模型を画用紙と割り箸と糸で製作した母親は、あのままずっと息子はまだ小学5年生というムードだったが、いつの間にか目が飛び出そうなほど殴り合った患者の手術をする子になってしまっていた。

年長の孫とて、今年8歳になる。 その子とはスターワーズのライトセイバーで丁々発止の剣劇をする私でも、年を確実に寄せているのだ。 私がよそ見をしている間に、この孫も明日には「グランマ、僕が大学へ行っている間、元気にしていてよ」と家を離れてしまうのだろう。 昨夜「グランマのカレーはおいしい、お代わりちょうだい」と言った弟孫も、まだ2歳だが、明後日には、「グランマ、7つの海を旅して自分を見つけてくるから、それまで元気にしていてね」と世界へ飛び出していくのだろう。

なんと月日の経つのは放たれた矢と同様なのだろう。 「時は去り、私は残る。」と言ったのは、ギョーム・アポリネールだったか。 けれどマザー・テレサは言った;「昨日は過ぎ去った。明日はまだ来ない。今日があるのみ。さぁ、始めなければ。」 よし、昨日や明日を気にかけず、今日を生きようか。 

 

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信じるということ

2022-03-14 | 人間性

millstonenews.com

 

 

 

「私の父は行商セールスマンでした。ある時は家具を、別の時はハードウェアを、時には革製品を販売しました。彼は毎年行商順路を変えていました。私は父が母に、それが文房具やベッドランプ、あるいはその時売ろうとしていたものがなんであれ、今回の旅で行商は最後になる、と言うのをよく耳にしたものでした。そして来年はすべてが変わり、売り付けようとしなくとも、ひとりでに売れる製品を自分は売るだろうから、生活はもっと楽になるはずだ、と言うのでした。

それを父はいつも繰り返し言っていました。父は『暗闇の中で口笛を吹くような人』(どんな恐ろしい状況でも勇気を呼び起こし、それを維持し、示す、と言う意味)でした。気の毒なことに、父は売れ筋の商品を扱ってはいませんでした。むしろ無能故にやらかす間違いに満ちていた、それでも愛すべき人だったのです。

そんなある日、仲間のセールスマンが父に三行の祈りの写しをくれました。彼は顧客を尋ねる直前にこの祈りを繰り返すといい、と言われました。主を信じていた父がそれを試してみたところ、素晴らしい結果が得られました。

これが祈りというものです。私は常に神聖なお方に導かれていると信じています。いつも正しい道を行くように導かれていると信じています。神は常に道なきところに道を開いてくださると信じています。」

—ノーマン ヴィンセント ピール

 

openlibrary.org

ノーマン・ヴィンセント・ピール博士

(1898年5月31日-1993年12月24日)

ノーマン・ヴィンセント・ピールは作家兼宗教家(特に前向きな思考家の先駆者として知られたが、メンタル・ヘルスの専門家には受け入れられなかった)であった。 彼のその考え方はメンタル・ヘルスの専門家には受け入れられなかったが。メソジスト教徒として育ち、1922年にメソジスト牧師として叙階されたピールは、1932年にアメリカの改革派教会に宗教を変更し、マンハッタンのマーブル協同教会の牧師として52年間の任期を果たした。その間、教会の会員数は600人から5,000人を超え、ニューヨーク市で最も有名な説教者の1人になった。

ピール博士と精神分析医のスマイリー・ブラントンは、教会の隣に宗教精神科外来クリニックを設立した。二人は一緒に共著した本をいくつか出版した。 やがてこの心理療法と宗教のクリニックは、アメリカ宗教精神医学財団に成長した。ブラントンは困難な精神医学的症例を扱い、メンタル・ヘルスの資格を持たないピールは宗教的問題を扱った。

ピールは1935年にラジオ番組を開始し、それは54年間続き、さらにテレビ番組も始め、雑誌「ガイディングポスト』を発行した。

ビリー・グラハム氏同様、ピール博士はケネディ以降の各合衆国大統領と交流があった。

 

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ひまわり

2022-03-12 | 重要なこと
Photo Credit: Pixabay

 

 

 

 

下記は「沼地からの熟考」と題してリチャード・ヴァン・デユヴェンディックというカナダの記者がインターネット誌に記事を寄せたものを訳した。

 

2022年3月2日午後4:30PM

先週、私はウクライナの婦人が勇敢にロシアの兵士に近づくのを見ました。 その映像はたちまち拡散されました。【私自身もネットワーク局のイヴニング・ニュースの最後のセグメントで観た】 婦人はポケットに手を伸ばし、一握りのひまわりの種を取り出し、手渡しながら、兵士たちにこう言ったのです。

「この種を受け取り、あなたのポケットに入れてください。 そうすれば、この地にあなたが倒れる【戦死する】後には、少なくともヒマワリが育ちますから。」

世界中がウクライナ侵略について喧々轟々と渦巻いている今、私はこのウクライナの婦人について考えるのをやめることができませんでした。  彼女は私の頭の中で戦争のアイコンになりました。 婦人の言葉は、抵抗の意味全体を捉えています。 宗教的なアイコンやきれいに色をつけられたり、模様の描かれたイースターエッグのように、ひまわりははるかに深い意味を持っています。

ひまわりはウクライナの国花です。

先週、ロシア軍がウクライナに攻め寄せてきた時に感じた感情の波に目を向けてください。 兄弟、恋人、父親、夫をそうしたくなくとも祖国に置き去りにして国境へと逃げる人々を見てください。 ひまわりの種をポケットに入れているすべてのウクライナ人を想像してみてください。 これらの種はどこに植えるのでしょうか? この種は他の国で成長できるのでしょうか? いつ家に帰れるのでしょうか? 何故これが私たちに起こっているのでしょうか?

プーチンのコメント。 「ウクライナは国などではありません。 それはただの概念です。 国などではありません。」

コンセプト(概念)、ですか? イメージ、ビジョン、またはコンセプトというものは何時現実になるのでしょうか?

ウクライナには、この国以外の国にいる私たちと同じように、色とりどりの血なまぐさい歴史があります。 それは私たちの概念にはなりません。 私たちは主権国家です。 私たちは自分たちの道を決める民主主義です。 私たちは他の国が私たちを支配することを望んでいないし、必要としません。 ウクライナに対する攻撃は、民主主義を信じるすべての人々に対するものです。

4,000万人の人口があり、独特の歴史と文化を持つ国を概念以外のなにものでもない、とすることは、隣人・隣国に対する戦争犯罪を実行するための貧弱な正当化である概念に過ぎません。

カナダ人の36人に1人はウクライナ系です。 すべてではないにしても、ほとんどのウクライナ移民はより良い生活のためにここに来ました。 それらはカナダの「概念」の一部であり、現実の一部です。 カナダは、ウクライナとロシアに次ぐ世界で3番目に大きなウクライナ人の人口を持っています。

カナダ人だけでなく世界中の人は、はるかに大きなロシア軍に立ち向かっていくウクライナの人々を称賛します。 ロシアはそれほど多くの抵抗に会うことを期待していなかったことを世界は知っています。彼らが一国で立ちむかっているのを見るのは私にとって苦しいことです。 私は彼らの命が信じられないほどの高い確率で飲み込まれてしまうことを恐れています。 カナダ政府(あるいは多くの国々)は、現時点では、世界大戦に突入する危険性が大きすぎて、我々の軍隊を参戦させられないと言っています。 私たちがロシアにノーと言うこととそれを本気で意味することの境界線、まるで砂で書いた境界線はどこにあるのでしょうか?

ウクライナの侵略は、第二次世界大戦以来のヨーロッパで起こった最大の戦争です。

春が近づくと、庭にひまわりを植えます。ひまわりは多くの人々のお気に入りの花であり、私たちは一貫してさまざまなひまわりを育ててきました。

今年はひまわりが新しい意味を帯びます。 ひまわりはポケットに入れたひまわりの種をロシア兵に渡していたウクライナ婦人になるのです。 ひまわりは平和と自由への希望になるのです。ひまわりは嵐の最中でも立ちあがり、太陽を求め、その花の色の美しさを世界に示します。ひまわりは、新しい種子が平和に成長するための肥沃な環境を持つことへの希望に満ちているのです。

ひまわりを植えてください。 それらは概念などではありません。 良い土と日光で、それらはあなたの庭にいる場所を持ち、育っていきます。 ひまわりとウクライナはこの世界を美しい場所にしているのです。

 

Shutterstock

果敢なウクライナの兵士たち

 

 

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日は暮れて

2022-03-10 | わたしの思い

anglicancompass.com

 

 

かなり更新の間が長かったが、その間に世界の情勢は途方もなく変わってしまった。時折自分がテニスンの「イノック・アーデン」やワシントン・アーヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」の世界に足を踏み入れたかのようにさえ感じる。

それもたったのひと月、ふた月という短いうちに。それはブログの更新が長引き、長いといえば長く、短いといえば短いことなのだが。

Covid-19に関していえば、夫も私もここまで無事にやり過ごしてきて、今更マスクをかけなくとも良い、と言われても、人前に出るたびに、つい装着するのが癖になっている。加州知事の、マスク装着は義務ではない、という声明をかなり以前に聞いても、自分の健康は自分で守りたいものだ、というスタンスであり、第一州立大学の職場でも、学生、教授陣、スタッフはみな義務付けられている。(それも今週末には緩和される。ただし、感染事態は決して好転はしていない。)

ブログを更新しなかったのは、少なくとも健康に関してではなく、ブログを書くことに使う時間を本来使っていた別のこと、それは系図探究・調査や、じっくりと家事をしたい、という単純な理由からである。いつのまにかブログを始めて5年目に入り、いささか驚き、5年という節目を迎えて、続けるべきかはたまた辞めるべきか、ハムレットのごとく悩んでみたが、結局ブログは日記のようなものかもしれない、とあまりきっぱりとした結論を出さないことにした。

閑話休題、かつて我が家の隣人にウクライナからのウクライナ人一家がいた。父親は大陸横断をするトラック運転手で、母親は母親をフルタイムでしていた。何人かの子供たちは上が中学生ほどで、下の子供は乳児だったと思う。きちんと英語を読み書きし、子供たちはしつけが行き届いていた。クリスマスの挨拶にご近所に配るクッキーを季節にあわせたプレイトに盛って届けたらとても喜んでくれたのを覚えている。何故ならすぐ翌日家族の釣果のマスを自宅で薫製にしたものを何匹かお裾分けしてくれたのだ。ウクライナから移ってきたのだから、いつかゆっくりお話してみたいものだと思っていたが、間も無く一家は、近くの別の戸建てに移った。それまでの家は貸家で、持ち主が売却することにしたのでウクライナ人家族は越したのだった。

ウクライナの刻々と変化する状況を目の当たりにして、夫と私は、あのご家族はいったいどうなさっているだろうか、と話す。すでにこちらへ一家で移住していたとは言え、両親や祖父母や親戚や友人たちのことに気持ちもそぞろになり、やるせなさをお持ちではなかろうかと、ふとそんなことまで気を馳せる。普通に暮らしていたのに、ある日隣の大国が、この国とて以前は「うちのもの」だった、と侵攻してくるなど、この21世紀のご時世に本当に起こるなんて、と世界中が驚き呆れるばかりだ。

ふと思えば、まだ幼い学び舎にあった私でも1968年のチェコ侵攻、1979年のアフガニスタン侵攻、8年前のクリミア侵攻、と思い出されるロシアの無理やりが4件も脳裏に浮かぶ。第一、いまだ日本の北方領土は、”Backward”(後進、逆戻りなどの意味)と1600年代からヨーロッパに呼ばれる国によって侵攻略奪されたままである。

両親の世代は、世界大戦を超えてきたが、末娘である私がパンデミックを経験し、テロリストによる世界貿易センター二つのタワーへの攻撃・破壊、ペンタゴンへ攻撃・破壊、二回のアメリカ大統領への暗殺行為(レーガン氏は危うく命を取り留めたが、ケネディ氏は帰らぬ人となった)、輝かしかったスペースシャトルの2度の大事故による悲劇、さらにソ連崩壊後のロシアの他国への侵攻戦争を目にしてきている。両親よりもひどい時代を経験しているわけである。

一切の憂える世界情勢に蓋をするかのように、家の中では現実逃避をしたい私である。1日の仕事を終えて夫とふたりカウチに座って、ジェロー(ゼラチン)デザートを楽しみながら、古い古い映画チャンネルを楽しむ。そして私は、毎晩寝付く前のリチュアル(儀式)のようなことがある。それはAbide With Me!をある大学の男子学生合唱が歌うのを聞くことである。その歌詞のごとく、私は今の誰もが願う安寧が「導き手」にあるのを知っている。

この讃美歌はスコットランド人の英国教会(聖公会)の信徒ヘンリー・フランシス・ライトが作った詞を、ウィリアム・ヘンリー・モンクの『Eventide』(夕暮れ) という曲にあわせて歌われる。結核で死の床にあったライトはこれを1847年詩作した。彼の亡くなる3週間前にメロディーが完成し、この曲は、1847年11月20日に亡くなったライトの葬儀にて最初に歌われた。

この詩の冒頭は、ルカによる福音書第24章29節"Abide with us: for it is toward evening, and the day is far spent"(日は暮れ,闇は深く 慰さめも助けなきその時に主よ,神よ われと共に居りたまえ)から引用されている。

 

 

Abide with me! fast falls the eventide, The darkness deepens. Lord, with me abide! When other helpers fail and comforts flee, Help of the helpless, oh, abide with me!

Swift to its close ebbs out life’s little day. Earth’s joys grow dim; its glories pass away. Change and decay in all around I see; O thou who changest not, abide with me!

I need thy presence ev’ry passing hour. What but thy grace can foil the tempter’s pow’r? Who, like thyself, my guide and stay can be? Thru cloud and sunshine, Lord, abide with me!”

日は暮れ,闇は深く めも助けなき

その時に主よ,神よ われと共にりたまえ

 

暗き迫り来て   喜びも消えきぬ

物,みな移り変わる 夕べも共にりたまえ

 

常にわが求むるは  力強きみ神よ

主のみわが導き手  われと共にりたまえ

 

コメント (8)
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