ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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宝塚100年に向けて・・・原点に帰れ2

2012-08-06 10:00:00 | 宝塚コラム

 さて・・・現在、資料を熟読中で読んでは書き、読んでは調べ・・みたいな?

一日これをやるわけにはいかないので割愛も多々。

自転車操業です。

 

 宝塚脚本集(宝塚春秋) 昭和11年 11月号 

 

昭和11年といえば1936年。

1936年に何があったかというと・・・・・

 日劇ダンシングチームデビュー(ジャズとダンス)

 松竹大船撮影所開所

 ジョージ5世死去&エドワード8世退位&ジョージ6世即位

    (「月組「エドワード8世」)

 2・26事件

 阿部定事件

 ベルリンオリンピック

 日独防共協定

 スペイン内戦勃発 (宙組「NEVER SAY GOODBYE」

                   「ロバート・キャパ」

                   「誰がために鐘は鳴る」)

この年、あの長島茂雄氏が誕生。

政治的にはナチスの影響が強くなってきて、国内も不況に喘ぎ

2・26事件をきっかけに軍部が台頭していく。

つまり「暗黒の時代」の序章のような年だったんですね。

そんな世相の割には、歌劇がある宝塚ではお花畑状態というか・・・・

もっかの悩みは「レビューの衰退」「マンネリズムをどうするの

こんな感じでしょうか。

今回お届けするのは東郷静男氏という演出家のエッセイです

彼は小夜福子さんの旦那さんで、この年、レビュウ作家としてデビューした

みたいですね。作品は「ゴンドリア」

どんな話なのかよくわかりませんけど・・・・・(脚本がないので)

スペイン物?散々な批評を受けちゃうんですが。

 

 「東郷静男ー僕の行き方」

僕は最近とんでもない所に乗り込んだものだと思っている。

それは作者というあさましい立場に身をさらさねばならなぬ身の不幸を

嘆いているからである。

僕という者の生活意識が内面的な広がりを持てば持つ程、僕は

多くの人から八つ裂きにされねばならぬからである・・・・・(略)

レビュウとい歌劇という。何が人々を引き付けるかといえば、それは

僕には実はわかってない。ただ多くの人々がやってくる。

そしてみている。黙って居る者がおり、自分の事のようにほざく者がいる。

それは勝手である。

しかし、それらの人間達をほっておいていい事はない。

何とか集めて言って聞かせねばならない。

たとえそれが莫迦であろうと阿呆であろうと。

客席に一度入れたら、もうこっちのものにしなければならない。

全部お預かりしたも同然である。

焼いて食おうが煮て食おうが誰も文句を言う者がない。

観客は魂を失った亡者である。その亡者に毎日憑かれなければ

ならぬ作者こそ、まさに地獄の苦しみである・・・・・・・・(略)

 

娯楽は人間の積極的な意欲である。

少女歌劇団の娯楽的価値は最も消極的な意欲の充当にある。

少なくとも従来はそうであったようだ。少女歌劇についての論争の多くは

僕に言わしめれば大人が子供の玩具をいじくって壊して、子供に

きめつけられてテレ隠しに「あとでもっといいものを買ってやる」といって

誤魔化している様に考えられる。積極的論争の不足。

 

少女歌劇は少女歌劇で依然として少女歌劇であり、未完成を

し遂げつつある。行動はすべて積極的をもってよしとする。

緩急をよろしきを得る際においても尚且つ、積極的であるべきである。

従って僕は考える。

毛唐向きの作品もよかろう。しかしまだ僕には未完成の完成へと

進みつつある少女歌劇の積極的な活動の分野は、この世に青年男女の

存在する限り永久に開発されるべきであり、また僕は自己の積極的

活動力のある限り努力せねばならぬと思っている。すなわち

従来の娯楽的価値を自己の生活意識の内面的な広がりによって

積極的に意識的に位置づけることである。

「ゴンドリア」をもってまず僕はスタートした。

あるいは現在までの僕の過程をゴールしたのかもしれない。

この点はまだわからない。

僕は危なっかしい生活意識を、そのままの意識として不安な立場を

守ろうとしている。

作者という立場、これが僕の新たななる良心の出発点だ。

 「作者」=演出家と置き換えるべき?

  「生活意識」とは何なのか?「普通の感覚」って事なのかなあと・・とにかく

  難しくてよくわからない文章ですが、批判の的にさらされる職業について

  しまった自分は耐えていけるかとっても不安だーーという話?

  ファンの批判は甘んじてうけるのが義務だけど、レベルの低い論争するな。

  って話。でも彼なりの自分への鼓舞というかエールというか

  そういう一般大衆をひきつけてやろうじゃないかという意欲はかなり伺えます。

  そういう作家・・・今は少ないのでは?

 

 「ゴンドリア」批評

月組公演「ゴンドリア」についての批評です。

当時、紙面で「匿名ファンの座談会」なるものがあり(今じゃ考えられません)

みんなが好き勝手な事を言ってたんですね。

「よくここまでいうなあ・・・」という文章も多々あります。

「ゴンドリア」については小夜福子・櫻緋沙子ら出演者に頼りすぎているのでは

ないかという話から始まり「あてがきをすべきではないか」との意見が。

C;ゴンドリアは全体にみて今までの宝塚にみなかったものを感じる様な気がする。

  一級高級な、何か澄み切ったようものがあるようだね。

D;それレビュウとして全体を見た場合じゃありませんか。

C;そうです。しかし作自身についても台詞など文学的な

  匂いがあるような気がするが。

B;全く台詞はいい。しかし一般の観客にはわからないね。

C;それは難しいからだろう。

B;難しい故も多分にあるし、第一客席の中央から後にいたらさっぱりわからない。

B;大体、内容的に考えすぎた台詞が多い。もっと普通に使っているような

  使いやすいものにして欲しいね。たとえば詠嘆的な台詞にしてもこれなどは

  非常に文学的な要素が多く、一般に平時使っている言葉とはかけ離れた

  ものになっている。

C;舞台を非常に狭めて使っているね。どの場だったかカーテンなんかで

  狭めて使うとしたところもあったよ。その点が東郷氏の失敗じゃないかね。

D;あれは小劇場のテクニックだ。

H;理屈に落ちすぎてはいけません。もっと自分らは「ゴンドリア」というから

  ベニスの運河なんかも出て来てゴンドラなんかもうんと使って、位に相当

  楽しみにして見にきたんですけど。

B;それにしてもだ。筋のある以上もっと筋をわかるようにしてくれなくちゃ

  作者としてえ不親切だよ。大学生が二人トイレに入って問答したんだが。

  一方が「おもろいか」というと一方が「ちっともわからへん」と言ってた。

  それではいかん。判らんレビュウなんて面白くない、面白くなければ結局

  滅びるからね。

 理屈っぽいわけわからんという所に荻田浩一の「螺旋のオルフェ」を

  思い出してしまったんですが、それ以上に舞台を狭く使っているとか

  小劇場的とか・・・まるでこれは正塚先生か?と思う部分多々あり。

  東郷先生の「生活意識」は正塚先生の「ナチュラル」に繋がるのでは?

 この座談会は10ページ近くにも及んでおりまして、脚本についてだけでは

  なく個々の生徒についても細かく分析。さらに装置や衣装や照明についても

  「何回見てるんだろう」という程細かく批評しているんですね。

  これらの意見を全部聞けとはいわないけど、雑誌に載せるという事は

  「みんなで宝塚をよりよいものにしていこう」という歌劇団の意欲の現われでは

  ないかと思い、微笑ましく感じます。

 それに比べると21世紀の宝塚は「見せてやってる」感がありすぎ。

  「乙女心が傷つくから何も言わないで」と言った植田先生の台詞に象徴

  されてますよね。

 

 

 

 

コメント
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