ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

母への告発ー彬子女王  3

2015-07-11 19:41:00 | 皇室報道

 彬子女王

母が公務に復帰し始めた時、三笠宮家に何の挨拶もなかったので

祖母がお手紙を書かれました。三笠宮家と仁親王家が一緒になるので

ちょっと話がしたいのだが、この日程ではいかがだろうか。公務に復帰するのは

その後にして頂きたいという内容でした。

ところが、母は『誰から来たのかもわからないのに受け取るわけにはいきません』と

受け取りを拒否したのです」

宮務官が届けても拒否。

最終的には手紙をファックスするという形で送りました。

ところが、その後、母の主治医から『三笠宮家に行くと殿下から受けたDVの

ことが蘇って来て支障をきたすので、お会わせできません』という主旨の手紙が

来たのです

 百合子妃はこのままでは仁殿下が悪者にされると思い、信子妃の

  主治医いに会いたいと希望を伝えた。ところが、医師は

  「患者の同意がなければ会えません」と断られた。

  信子妃はそのままなし崩し的に公務復帰。

 工藤

私のような全くの部外者であっても、信子妃が公務に復帰なさった時は

さすがに驚きを禁じ得なかった。彼女には皇族として公務に出る資格が

あるものなのかという、率直な疑問を感じた。

なぜなら家庭を放棄し、婚家の名誉を傷つけ、家族全員を苦しめたのは

他ならぬ信子妃だからである。

それならばせめて、仁殿下がお隠れになった後は、静かに京都の尼寺の

ご門跡にでもなって余生を過ごされるのがよろしいのではないかと思っていた。

 彬子女王

公務に復帰されるのであれば、今までお見守り下さった三笠宮両殿下に

御無沙汰のお詫びをとご報告をしてほしい。それから私達皇族を支えて

下さっている国民の皆様に、公務に復帰される理由をきとんと説明して

頂きたいのです」

 仁親王殿下の死後

宮内庁 「宮家の当主の問題は宮家の中でお決め下さい」

三笠宮 「それは当然、彬子ちゃんでしょう

彬子女王 「(信子妃に)このたび、持傘の宮両殿下のご意見により、私が仁親王家の

当主になることに決まりましたので、ご報告します」

信子妃 「認めない」

     「自分抜きで話を進めるなんてありえない」

彬子女王 「三笠宮家の4人の意見です。そもそも三笠宮家としての決定に

従われるのは当然のことではないでしょうか」

 彬子女王

「私は一度も自分から『当主になりたい』と申し出た事はありません。それよりも

三笠宮家という大きな傘の中で、祖父母のお力を頂いてやっていきないと

思うようになっておりました。

 工藤

この経緯をたどると、実際に当主の座を虎視眈々と狙っている人物が

誰なのかは、容易に推察できるだろう」

 彬子女王

祖母はよく『三笠宮家は本当に仲の良い家族だったのよ』とおっしゃいます。

母が公務に出始めた時、妹は、御本邸の両殿下も高円宮家も近衛の庸子伯母も

千の容子叔母も、自分の今までの思いと同じ思いを抱いておられたことに

初めてきづいて、ぼそっと「親戚っていいね」と言ったんです。

時間はかかりましたが、そう言えるようになってよかったと思っています」

 信子妃が三笠宮家に対し、非常に恐怖感を持っていた事がわかります。

  何をされるかわからないというものでしょう。

  手紙を「誰のものかわからない・・・・」云々言うのは、そういって騙されかけた

  ことがあったのではと思いますし、医者の対応は至極当然のことです。

 工藤氏の「門跡にでもなって」という文章はルポとしてはいらない一文です。

   ものすごく個人的な感情を感じます。

  「当主の座を虎視眈々」の部分も、悪意を感じるんですけどね。

 通常、宮家は当主が死ねばその配偶者が当主となります。

  高円宮家がそうですし、秩父・高松もそうです。

   当主が誰になるか決める必要はなかったのです。最初から信子妃なのです。

  にも関わらず揉めたのは、一つには仁親王の遺言があったからでしょうし

  彬子女王のプライドのせいだと思います。

  高円宮家のように当主が亡くなった後、妃殿下が精力的に政治活動をして

  財産を形成し、今や高円宮家といえば「久子妃」という程になっていれば

  末端であってもそれなりのプライドが築ける。

  けれど、彬子女王にはその裁量がないのです

 三笠宮両殿下はなぜに信子妃をそこまで嫌うのか。

  「息子が早死にしたのはあなたのせいよ」とでも思っているのかなあと。

  というか、モラハラもあったのではないかと思いますが。

  三笠宮が「それは当然彬子ちゃんでしょう」と言った時点で、もしかして「女性宮家」

  推しなのか?と思ったりしますけど。思惑は別にしてそうとられても仕方ない。

 当主になれば結婚は出来ない・・・・そんな事を願う母がいますか?

 それにしても、母親に対してもどこまでも高飛車な女王だなあと思います。

  彬子女王が騒がなければ表面化しなかった問題。

  つまり、三笠宮家の名誉を傷つけたのは他ならぬ彬子女王であるように見えるのですが。

  (三笠宮家の4人って・・・・信子妃は三笠宮家に入ってないのね)

 実家に戻るわけにもいかず、皇族としての公務に励むも娘達に憎まれて。

   一体、何の因果なんでしょうね。

 

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母への告発ー彬子女王  2

2015-07-11 18:00:00 | 皇室報道

 工藤氏が仁殿下から聞いたという話。

 娘達  「(信子妃に)これだけ父が出て行ってくれと言っているのに、なぜ、出ていかないのですか

  信子妃「それは宮様の事が好きだからに決まってるでしょ」

 娘達 「自分の好きな人が自分のことで思い悩んで、苦しんで、

       自分を痛めつけるように飲んで体を壊しているのを見て何とも思いませんか」

  信子妃 「あなた達が足かせだったのよ」と。

  娘達 「じゃあ、私たちが出ていきます」

  娘達は家出をした。

 彬子女王が学習院大学を卒業した頃の事。

   姉妹で友人の家に数日間滞在。

   宮邸に戻ったタイミングで、信子妃が軽井沢へ行き、現在に至る。

 離婚について

 彬子女王

はい。それはずっとおっしゃっておられましたし、これまでに3回くらい、本当に

 離婚の話が進んでいました」

 殿下の親しい友人

それなのに、毎度毎度、頓挫するのは、麻生家側が太郎が首相になろうとして

 いる時なので医h代えてくれとか、東日本大震災で国民が大変な時期にゴタゴタ

 させるわけにはいかなとか、暗色を示したから。そうこうしているうちに

 仁殿下が亡くなられたのです」

 皇室関係者

仁殿下の遺言には、信子妃を臣籍降下させるようにと書いてあったそうです。

そこで彬子女王が、麻生太郎さんを呼んで話をされたそうです。

こういうことが書いてあるので、何とか母を麻生家で引き取って貰えないか』と。

すると

もう三笠宮家に嫁に出した時点で、血縁はあるかもしれあいけれど、戸籍上は

縁もゆかりもない人間だ』とおっしゃった。

挙句の果てには

親族代表で殿下の葬儀に出ているけれど、本来であれば親族でもなんでもない。

宮内庁がどうしてもいうから出たのだ』などと言われたそうです。

 工藤

結局のところ、10年以上にわたって仁殿下は離婚をしたいと望んでいたが

信子妃と麻生家はその切実な願いを拒否し続けたのだ。

殿下はその為に心労が重なり、アルコールの量も増えて行った。

 仁殿下は何の話から娘達の家出を語ったのでしょうか。

  仁殿下にのって信子妃とは何だったのでしょう?

  結婚した時からやたら上から目線の殿下・・・というイメージがあります。

  信子妃は何も知らずにただ、殿下を慕って結婚したように見えます。

  仁殿下のご性格は・・・・他の人が書いているのを読む限り、ちょっと図々しい

  部分があり、だけどそれが憎まれないというような豪放磊落なものと思っていました。

  娘と妻の関係に悩んでアルコール依存症というのは考えにくいなと。

 じゃあ、何でアルコール依存症になったか。

  原因は「ガン」じゃないでしょうか。

  昭和の皇室は、皇太子一家が栄える中で、高松宮家も三笠宮家も男系男子に恵まれず

  断絶するしかない運命を知っていました。常陸宮家もそうですよね。

  三笠宮殿下は3人の男子を得たけれど、息子達は全然・・・となると、嫌味の一つも

  言いたくなったのでは?

  まして桂宮はいじけきっていたし、高円宮に期待をかけるも結果的にダメだったし

  「皇族とは何なんだ」と殿下は悩んだ筈。

  皇太子家には男子が2人生まれましたから、はっきり言って「スペア」は必要なかった。

  「税金で暮らしてさ」と意地悪を言われた過去にトラウマを持っていた場合、

  福祉活動に逃げ、それで自己アピールをして存在感を高め、少しでも自分は価値が

  ある人間だと思いたかったのではないかと。

  だけど「ガン」になった時、殿下はきっと運命から見放されたような気になったのでは?

  もう男子は望めないし、下手したら1年もたないかも。

  そんな仁殿下を支えたのは信子妃です。

   あれ程健康管理に気を遣った信子妃が虚言壁だの理不尽だのって・・・正反対ですよね。

 ただ、信子妃もまた厳しすぎる面はあったのかも。

  「嫁」として完璧を目指せば目指す程、華族出身の百合子妃は煙たかったでしょうし

  チクチク言われたらやっぱり。

  なおも完璧を目指す信子妃を仁殿下が「うざい」と思ったとしてもしょうがないかも。

 仁殿下が工藤氏に家出の件を語ったのは、娘達の苦境を話すというより

  「信子はそれでも俺を愛しているんだぜ」と自慢半分だったのではないかと。

 父の死後、娘が母の実家を呼びつけ「母を引き取って」という。

  上から目線もいい事。麻生さんは情けなかったでしょうね。

  いくら皇族でも女王ごときにこの振舞をされる・・・・・・

  だけど、妹の名誉を守る為には引くわけにはいけなかったという所でしょうか。

  口論の結果「葬儀にでてやった」と言ったのでしょう。

  そこまで言わせた姪、彬子女王の「すごいのよ」度はマックスです。

 遺言に「臣籍降下」が書かれてあったと言いますが、だったらそれを出せば

  話が早かったのでは?

  ぐだぐだと女王が雑誌に語るより、宮内庁を通して遺言状を出せば、信子妃も

  観念して臣籍降下するのではないかと。

 もしかしたら仁殿下は、信子妃をこのような争いから守る為に「臣籍降下」と

   書いたのかもしれませんし。

   娘もまた、自分達の存在意義について悩んでいるとしたら「宮家当主」とする事に

  よって少しでも気が休まるなら、信子妃には引いてもらうしかないと。

 殿下が悩んだとすれば、プライドを高く持ちすぎた娘の存在だったのでは。

 

 

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母への告発ー彬子女王  1

2015-07-11 17:30:00 | 皇室報道

 買わずにおこうと思った週刊新潮。

でも立ち読みしたら頭に来ちゃって。

やっぱりレポします。

 

 「仁殿下」が「信子妃」に家庭内暴力というひどい嘘 

BY 工藤美代子

  仁殿下のDVについて。

彬子女王

私が見ていた限り、父が母に対して手を挙げたことは一度もありませんでした。

また母とは子供のことから一緒にお風呂に入っていましたが、痣やこぶを作って

いたことなど一度もありませんでした。あの記事の内容は

事実と全く異なるものです。

本来であれば、このようなお話はすべきではないと思っておりましたが

父が母に対して暴力をふるっていたという話が何の検証もなく、さも事実のように

さまざまな雑誌で書かれてしまい、そのことだけは否定したいと思いまして」

 工藤

実は私は10年以上前からDVの噂を耳にしていた。

しかし、実際に仁殿下の人柄を知るものとしては、にわかには信じられない思いだった。

宮家の関係者の方たちに聞いても「妃殿下が殴られたなんて、見たことも聞いたことも

ありません」と答える。

彬子女王

「以前、麻生家の伯母とその点についてお話したことがあります。「DVがあったでしょう」と

その伯母に言われた私は

私が見ていた限りではそんなことはありません」と申し上げたのですが

「でも、尾てい骨を折ったことがあったでしょう」と言われました。そう言われたので

仁親王家の事務所に確認したところ「あれはクロスカントリーに行かれた時に

しりもちをついて、後ろにいた人の板に乗っかってしまって折れたのです」という回答

でした。父が暴力を振るったという事ではありません。

再度、「暴力が原因で尾てい骨を折られたと、向こうの方たちは聞いているみたいですよ

と事務所に聞くと

「絶対にそんなことはありません。クロスカントリーの場面は自分も見ていたし、証言できますよ

という返事でした」

 工藤

ああ、やっぱりと私は心の中で頷いた。幼い頃から信子妃は、自分が作った

ストーリーを真実だと信じ込んでしまう癖があったと聞いていた」

 皇室関係者

やはり、DVの話もあまりにも大きな話なので、妃殿下の中で繰り返しおっしゃって

いるうちに真実になってしまったのではないでしょうか。

最初に口にされた時は、そうではないとご自身でも知ってらっしゃっるのですが

いつの間にか「本当にそうだ」となってしまう。

それをまともに信じてしまう方々がたくさんおられるのです」

 二人の女王が父に対し「家族会議を開いて欲しい」と要望。

彬子女王

私が19か20歳の時です。あまりにも母の言動が理不尽だと感じられまして。

それまで父にはそのことを伝えておりませんでしたが、もう限界だと感じて「家族会議を

開いて欲しい」とお願いしました。

ー何が限界だったのか。

秋篠宮の結婚が決まった時のこと。彬子女王が学習院初等科の頃の話。

信子妃いわく

皇太子殿下が「礼宮は大変勿体ない事をした。自分は彬子ちゃんや瑶子ちゃんが

大きくなるまで待とうと思う」とおっしゃっていたのわよ」と囁いた。

その4年後、皇太子のご婚約が発表された事で「虚言」は白日のもとに

さらされた。

 母と距離をとってみると、彬子女王に見えてきた真実があった。

今まで御本邸、つまり三笠宮両殿下は怖い人達だと聞かされ続けてきた。

高円宮も近衛庸子氏も怖い人と教えられてきた。

彬子女王

家族会議を開いてもらい、父にすべてを話しました。

父はそれまでずっと自分が母とうまくいっていなくても、母と子供達が

うまくいっていればそれで良いと思っておられました。

自分さえ我慢すればすむのだと思っていたのに、結局、自分が抱いていた不満と

私達が抱いていた不満が一緒だったという事を知ったのです。

父は、20年間、自分がそれに気づいていなかったという事に、大変ショックを

うけられて、その頃から一旦やめられていたお酒を再び飲まれるように

なりました。自分を責め続けてお酒を飲まれるのを見ているのは痛々しくて」

 これらの文章を読んで、皆様はどう感じますか?

   何が真実なのかわからないなあ・・・と思いますよね。

   私にもわからないです。

   工藤美代子氏は少なくとも友納尚子とは違う、ちゃんとしたジャーナリストだと

   思っていたし、そんな彼女が友納のような事を書くはずがないし。

   でも、一方で彬子女王の言い分も変だなと思いつつ。

 母親が尾てい骨を折った話を、仁殿下の事務所に問い合わせるという話。

   どんなに小さくても、母の不調は娘にはわかるものです。

   問い合わせなければ怪我をsていた事も気づかなかったのでしょうか。

 皇太子が「礼宮は大変勿体ない事をした・・・・」の件。

   頭からそれを信じて、4年後に「あれは嘘だったの?」っていう方が変でしょ。

   だって親戚ですよ

   今時、親戚同士じゃ結婚しないって 冗談に決まってるじゃない?

 仁殿下が娘の苦しみに気づかなかった事に傷ついてアルコール依存症に

   なったという話。

   個人的な経験でいうと、そんな事はないと思います。

   「自分さえ我慢すれば・・・」なんて思う人はアルコール依存症にはならないでしょう。

   父親を美化しすぎているのでは?と感じます。

 仮に母親が舅・姑を「怖い人たち」と教え込んでも、父親がそれを否定すれば

   それほど大事にはならないのです。

   信じ込む程「怖い人」と思っていたなら、それは仁殿下自身が、三笠宮家に

   抱いていた感情ではないのでしょうか。

   (また個人的ですけど、私もそっくりな体験をした事があるので)

 

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