ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

永遠の乙女 華子妃殿下の肖像 1

2021-06-12 07:00:00 | つれづれ日記

 1935年(昭和10年)11月28日 義宮正仁親王誕生

 1940年(昭和15年)7月19日 津軽伯爵家の令嬢として華子姫誕生

 1940年2月20日 義宮着袴の儀

 1943年 3歳頃の華子姫

 1945年10月 疎開先の金谷ホテルでの義見

 1945年12月頃の笑顔で食事をとる天皇ご一家

 1945年12月頃 久邇宮茂子妃がお子様を抱いている天皇一家

 

 1962年 振袖にショールを羽織った華子姫

 1962年夏の華子姫

 1963年頃、津軽家の華子姫は婿をとらないという情報が高松宮グループから香淳皇后に流れる。

 1963年12月25日 津軽家に正式な申し込み。しかし津軽家は辞退。

  華子姫を説得し、希望に沿ってお見合いを設定

 1964年2月20日 義宮と華子姫のお見合い。場所は義寛侍従邸。

  徳川侍従は北白川祥子さんの兄で華子姫の伯父。

お見合い後、徒歩で帰宅する華子姫

 

 毎日新聞1964年2月21日号外

義宮の婚約者に津軽華子さん内定。昨日の午後お見合い 両陛下もご内諾か」

 1964年2月22日 華子姫婚約を承諾

 1964年2月28日 宮内庁で記者会見

ご家族と

 アサヒグラフ 1964年3月6日号 

特集 義宮さま婚約へ」

 女性自身 1964年3月9日号

 1964年4月14日 納采の儀

納采の儀を終えて家族で。

 

納采の儀を終え皇居に挨拶にいく義宮

掲載紙不明

 

 1964年4月21日 お妃教育

 1964年4月~5月頃 秩父宮妃と「ミロのビーナス展」に

 1964年5月28日 常盤会総会にて。まだ結婚前なのに妃殿下方のすぐそばに席をあたえられている。

 1964年 茶の湯をたしなむ華子さん

津軽華子さんは、お父様が徳川家出身で津軽藩に養子に出た方。

お母さまも藩主の家柄出身。

双方とも伯爵家。

秩父宮妃・高松宮妃からみて親戚筋。

多分、「お妃」にどうかと言われた時、華子さんの気持ち云々じゃなくて決まってしまった事だったのだと思います。

華子さんとしてはせめてもの抵抗が「お見合い」だったのかもしれません。

ぽつんと一人で帰宅する姿は「夢見た結婚とは全然違う現実」を受け入れようと思っている姿に見えます。

徳川家に連なる宮妃からお勧め、皇后陛下からのお勧めでは嫌というわけにはいかない。

でも義宮は背も低いし、ポリオを患っているし、悪いけど決して男性としての魅力があった人とは思えないんですよね。

最初からお子様も望めないとわかっていての結婚であったと言われているし。

そういう結婚を承諾している津軽家のお母様。久子さんの目力の強さに圧倒されます。

 

西洋風の建物に靴を履いてリビングで家族写真の正田家。富美さんは目を伏せて不本意そう。

それに比べると津軽家は、久子さんの「うちの娘はそこらそんじょの娘じゃないわ。世が世ならばお姫様よ」といわんばかりの目。

服装も普通。一人で帰宅する姿。さらに婚約記者会見のスーツも普通。ゆえに手袋云々と言われない。

だけど着物には伝統美が一杯。

自然で前向きな笑顔に「淑女らしさ」が目一杯です。

妃殿下方と並んでも臆することなく、自然体でいられる。

それが「同族同士」の自然体な婚姻の在り方だったんですよね。

散々テニスコートでデートを重ねた皇太子と比べると、義宮の場合、お見合いは出来レースで最初から「お妃になること」が定められているお相手でした。

派手ではない奥ゆかしさを感じる・・・それが常陸宮家ですね。

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする