夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

遠い昔となった昭和30年代、『都電』に乗ったささやかな思いでを馳せて、独り微苦笑して・・。

2018-02-18 15:23:29 | ささやかな古稀からの思い

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であり、
昨日の夕方、本の整理をしている中で、ひとつの本に懐かしく、しばらく読んでしまった・・。

私が読んでいる本は、正井泰夫(まさい・やすお)氏が監修された『東京の昭和』(青春出版社)であり、
副題として『図説 地図で暮らしを読む東京の昭和』と題されている。

昭和の銀座、秋葉原、路面電車、東京タワー、皇太子御成婚、東京オリンピックなど
昭和の激動期に首都の東京都心の敗戦後から今日まで急激に変貌してきた実態を
写真と共に、記事が克明に記されている内容であった。

私は定年退職した翌年の2007年(平成17年)の晩秋に、
たまたま本屋で見かけて、懐かしさの余り買い求めた雑誌であった。

        

先ほど何気なしに《路面電車》のページを読んだりしていると、
そうだったよねぇ、あの頃は都心でも盛んに『都電』が走っていたよなぁ・・、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

都心に住む若い世代の人には、都電と綴っても、現在は確か荒川線が走行しているぐらいと思われ、
殆どの御方はお解りにならないと思うが、

東京の都心で昭和30年代は、路面電車として隈(くま)なく走っていた・・。


私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春、
この頃から母に連れられて京王線の金子駅(現在・つつじが丘駅)から新宿駅まで乗車し、
母はデパートなどで、年に数回ぐらい買い物をしたりしていた。

或いは父の妹の叔母に連れられて、親戚が住んでいる高幡不動駅まで電車に乗ったりしていた。


この後、私は小学4年の頃から、映画に魅せられて、
独りで映画館に行ったりしていたが、あくまで近場の布田駅、調布駅、
或いは千歳烏山駅の映画館であった。

私が小学6年の1957年(昭和32年)の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

この当時の私は、電車に乗ってきたが、乗り物に酔いやすい少年であった。

次兄に導かれて、私は京王線で新宿駅まで30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったりした。

そして新宿駅より有楽町までの国電(現在・JR)より、廉(やす)いから都電で行こう、
と次兄から私は言われたりした。

        
        この写真はネットより、拝借させていただきました


まもなく
新宿駅より西口の地下ガートを通り、確か歌舞伎町の前の大通りの中央に、
都電の新宿駅があり、築地駅、月島(通り8丁目)駅方面に行ったりしていた。

そして私たちは数寄屋橋駅まで利用する為に乗車した。

確かこの当時の都電の電車賃は、終点の築地まで乗っても、13円だったと記憶している。

私は初めて乗った都電は、一両編成で大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。

普通の電車のように枕木、砕かれた石などの弛緩材などはなく、

敷石の間に線路を敷いていたので、揺れるのであった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は言った。

『もうちょっとだから・・我慢してよねぇ・・』
と次兄は私に言った。

次兄が私に言った言葉の中には、一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
意味合いの言葉が含まれていたので、私は我慢をしたりしていた。

やがて私はどんよりとした曇り空り中で、皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋駅のひとつ手前の日比谷駅で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
まもなく私たちは、とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋のガートの近くの映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、と判明した。


こうした私は都電で関して苦い体験をしたので、
この後も都電を観るたびに、苦手意識を持っていた。

       

この後、私は1960年(昭和35年)年の春、都心の中野にある私立の高校に入学した。
京王線のつつじが丘駅、或いは仙川駅から新宿駅まで乗車した後、
西口より5分ぐらい歩いた先に青梅街道の大通りがあった。

この当時は、この西口の大きなガード下に近い場所に、
新宿駅から荻窪駅まで青梅街道を走行する都電の路線があった。

私が通った私立の高校は、青梅街道沿いにある中野警察署の近くにあり、
ここから5分ぐらい歩いた先にあったので、
ときおり
中央線の新宿駅から中野駅まで乗車することがあったが、
殆どはこの都電の路線で通学していた。

新宿駅より混雑時には二両連列となり、新宿駅の街並みを離れ、
商店街の情景に変わったが、この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
私は車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られたせいか、乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業した1963年(昭和38年)の春を過ぎて、まもなく地下鉄が開通して、
この区間の都電は廃線となった。

この間、私は青梅街道の都電の新宿駅の近くに『小田急デパート』(現在・小田急ハルク)が
1962年(昭和37年)に開店したりしていたので、
やがて西口、周辺はどのように変わり果てるのか、私は戸惑いを覚えたりしていた。

そして新宿の西口の郊外にあった淀橋浄水場は移転された後、
後年に西口の高層ビル群、そして都庁も移転してきて新宿副都心として大きく変貌した。

                     

このようなことを愛惜感を秘めながら思い馳せて、
昭和30年代・・激動で大きく変貌してしまった・・遠い昔となってしまったよなぁ・・
と思い重ねたりした。


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