国家人民のために尽くすことを職務とする武士たちの自立的・主体的な生き方。
(武士道と企業犯罪)
「武士道とは死ぬことと見つけたり」 山本常朝の「葉隠れ」のあまりにも有名な一節であるが、これが武士道とは主君のためにはいつでもおのれの生命を投げ出す、という時代遅れのファナティックな生き方、という誤解を招いたようである。この一節のあとには、すぐこう続く。
武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり
それは生死を超えた自由を得て、一生、落ち度なく家職、すなわち、奉公の勤めを成し遂げるという、武士としての理想の「生き方」を述べたものなのである。最近、食品業界やテーマパークなどで、上司の命令にやむなく従って企業犯罪に加担した、などという事件が相継いでいるが、これなどは武士道から見れば、もっとも軽蔑(けいべつ)すべき生き方だ。武士としての理想の生き方とは、どういうものか、我が父祖らの考えに耳を傾けてみよう。
(真の「忠節」とは)
「葉隠れ」は、主君の命令に対する恭順(きょうじゅん)を説いたのち、「さて気にかなはざることは、いつ迄もいつ迄も訴訟すべし」、すなわち主君の命令が自己の信念から見て理不尽だと思ったら、どこまでも「諫言(かんげん)」して再考を求めるべきである、とする。
企業犯罪を命ずるような上司には、その理不尽さを訴えなければならない。そして「主君の御心入を直し、御国家を固め申すが大忠節」、上司の誤った心構えを正して、組織をまっとうにすることこそが、大忠節である、という。かつて組織犯罪を犯した食品会社が解散の憂(う)き目にあって、多くの罪もない従業員が路頭に迷うことがあったが、そういう事態を未然に防ぐことこそ、組織に対する「大忠節」というのは、よく理解できよう。
「直諫(ちょっかん)は一番槍よりも難し」ということわざがある。敵陣に向けて一番槍を入れるのは、討ち死にの覚悟がいるが、その高名はのちのちまで語り伝えられるし、手柄をたてれば子孫に恩賞を残すことが出来る。
しかし、主君に向かって直接、諫言を行う「直諫」では、手討ちにあう危険があり、さらには不忠者、反逆者の汚名を着せられて、子々孫々にまで不利益を及ぼす恐れもある。そんな危険を冒してまで主君に逆らうよりも、大人しくご機嫌取りしているほうが身の安全である。しかし、そういう生き方こそが「不忠者」の生き方だと、武士道では考える。一身の危険、不利益を顧みずして、藩全体のために「主君の御心入を直す」ことこそ、忠節の士のなすべき事なのである。
(わが身の災難を顧みず)
名君と呼ばれた徳川吉宗の享保改革が軌道に乗り始めた頃、吉宗自身の始めた目安箱(現在の投書箱)に、山下幸内という浪人者が一通の投書を行った。その上書は、全文、吉宗の改革の諸政策を徹底的に批判する内容のものであった。
その倹約政策を「しみったれたもので、天下を治める為政者のなすことにあらず」と断じ、吉宗の鷹狩り好きに対しては「いたずらに民を酷使するのみで無益である」と指弾した。
吉宗が老中以下の主だった役人を集めて、この上書を見せると、彼らは「無礼きわまる」と怒りの色をあらわにした。ところが、吉宗本人は「今の世にもなかなか面白いことを言う者がおるではないか」と言った。そして、この書を評して、
「この書面のごときは、いかにも無礼の極みではあろうが、わが身の災難を顧みず、政治の是非得失を直言してくれるのは、天下の政道のためには貴重なことだ。もしこのような者を無礼であるという理由で処罰するならば、世人はもはや物を言わなくなってしまうであろう。それこそが、幕府の政治にとって取り返しのつかない損失となってしまうのである」
吉宗はこう述べて、山内幸内に褒美銀を与えて、その直諫の志を褒め称えたのである。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは、一部のアトラクションで、大阪市が許可した以上の火薬量を使用していたことが問題となった。米国人スタッフがショーの効果を上げるために火薬の増量を指示したのに対し、日本人の担当責任者は「違法性は認識していたが、降格もあると思って意見を通せなかった」と述べていた。この例に比べれば、一身の災難を顧みずに将軍に直諫を行った山内幸内、自らの攻撃を甘受する吉宗の人間としての器の違いは歴然としている。
(主君「押込」の義)
しかし諫言しても、主君が聞き入れない場合は、どうなるのか? 現代のサラリーマンでは、諫言が最高度の抵抗であろうが、武士道ではもっと過激な手段があった。藩主が放蕩や暴虐だった場合、あるいは過激な改革で藩政を混乱させた場合などに、家臣団が合意をして、主君を「押込(おしこめ)」と称して拘禁し、時には隠居させてしまうのである。
押込の手順も概ね、決まっていた。まず藩主に対して、家臣が諫言を行い、それが聞き入れられない場合に、家老や重臣を中心に「押込」が議される。そして一同、藩主の前に列座して、「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」といった定型の文言を発して、「押込」の執行を宣言する。それとともに、家老の指揮のもとに、目付や物頭など中堅の武士が藩主の刀を取り上げて、藩主を座敷牢などに監禁する。
興味深いことに、藩主は数ヶ月監禁されている間に、家臣側との面談が断続的に行われ、改心の程度がチェックされる。十分改心して、旧来の悪政を改めるだろうという見通しがついたら、藩主は解放されて、もとの地位に戻る。その際に、行状を改めて善政を行うこと、そして「押込」を執行した家臣団に報復を行わない事を誓う誓詞を提出する事が義務づけられていた。
もし藩主に改心の情が見られない時には、そのまま強制的に隠居させられ、代わりに嫡子が藩主の地位につく。
(公共のための忠義)
諫言や押込は、武士の忠義の対象が藩主個人ではなく、藩というより「公」的な共同体に向かっていたことを示している。そして一身の危険、災難という私的な利害を顧みずに、公のために尽くす、というのが立派な武士のあり方であった。
その背景には、江戸時代を通じて発展した公共性の理念があった。徳川幕府に抱えられて、家康から四代家綱まで仕えて、儒書や史書を講じた林羅山(はやし らざん )(1583―1657)は、「天下は一人の天下にあらず。天下は天下の天下なり」と唱えた。
熊沢蕃山(くまざわばんざん)(1619―91)は、武士は藩主から人馬を預かり、藩主は領国を将軍から預かり、将軍は天下を天から預かったものゆえに、主君の天職は「仁政を行ふ」ことであり、臣下の天職は「君を助けて仁政を行はしむる」ことであるとした。
山鹿素行(やまがそこう )((1622―85)は、人君は天下万民の平和と幸福を保障するための政治的機関であり、「忠」とは主君個人に尽くすことではなく、「国家天下のために」心を尽くすことである、とした。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666―1728)は「御政務の事柄というものは上(君主、藩主)の私事にあらず、天より仰せ付けられた御職分なのである。下(家臣)たる人にても御政務の事柄に関係することに携わる限りは、その時だけは上(君主、藩主)と同役なのである。家臣として藩主に少しも遠慮する必要はないのである。」とした。
ここまでくると、藩主も家臣も、武士はすべて治国安民を使命とする統治機構の一員であって、身分の上下は単に職制上の上下に過ぎない事になる。したがって暗愚な藩主が悪政を行っていたら、諫言、押込によってそれを正すことこそ、武士の責務である、ということになる。すなわち、武士道とは公共のために忠義を尽くす道であった。
---owari---
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