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ペリリュー島のサクラ(後編)

2023年03月20日 | 日本
ニミッツ提督は「この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕していったか」と語った。

(山地に立て籠もる持久戦)
しかし米軍の猛攻は止まなかった。砲撃によって珊瑚礁線を打ち砕き、島の10メートルもの断崖を崩して、その上に鉄板を敷きつめ、その上で次々と装甲車が押し寄せた。この辺りを守る守備隊はこれに対しても精密な砲撃を行い、17台を撃破して押し戻したが、ついに砲弾が尽きて、最後は敵に斬り込んでいった。

9月15日、11時間の激戦で、米軍は2千名以上の犠牲を出したが、なんとか飛行場の一角を占領した。米軍は日本軍の夜襲にも耐え、陸続(りくぞく)と3万人近い大軍を上陸させた。

9月19日に島南部平地の飛行場が制圧されると、日本軍は北の山地に立て籠もる持久戦に変えた。山の斜面には無数の陣地が作ってあり、そこで米軍を待ち構えたのである。

米軍は5、6両の戦車を先頭に、5、60人の歩兵がついてくるという態勢をとったが、坂の上から精密な射撃を受けたり、地面の中から手榴弾が飛んできたりした。地雷を抱いて、戦車に飛び込んで爆破する日本兵もいた。

山地でのゲリラ戦となると、米軍の物量作戦も効かず、陣地を一つ一つ潰していくしかなかった。日本軍の将兵も次々と倒れていったが、米軍の被害も拡大していった。

(「勇敢な日本軍の皆さん、夜間の斬り込みは止めて下さい」)
島北部に追い詰められつつあるペリリュー島守備隊に加勢せんと、パラオ本島から、夜陰に乗じて、9月22日から25日にかけて780名の援軍が逆上陸をした。ペリリュー島を取り巻く敵艦隊の間を縫い、敵砲撃で150名の犠牲を出しながらも、死地に飛び込んできたのである。

守備隊は「よく来てくれた」と涙を流し、志気はいやがうえにも高まった。昼間は寄せ来る米軍を狙撃し、夜は切り込み隊を繰り出した。拡大し続ける損害に、米軍は日系二世兵に日本語でスピーカーから放送させた。

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勇敢な日本軍の皆さん、夜間の斬り込みは止めて下さい。あなた方が斬り込みを中止するなら、我々も艦砲射撃と飛行機の銃爆撃は即座に中止します。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

(放送を聞いた守備隊は、逆に喜んだ)
「米軍の腰抜け目、自分の弱さを認めて宣伝してやがる。ざまあ見ろ!」「もっとやろう、死ぬまでやり抜くぞ!」

しかし、米軍も闘志では負けていない。一部の部隊は、日本軍陣地に夜襲をやり返した。

(「ここを渡せば米軍は祖国に一歩近づくのだ」)
じわじわと包囲網を狭める米軍に対し、中川大佐は最後の戦法に出た。ペリリュー島北部の山地の頂上部分には、南北約800メートル、東西約350メートルに渡ってトンネル上の地下陣地が作られており、日本軍はあちこちから地上に出て、登ってくる米軍を攻撃するのである。

米軍は爆撃機から500キロ爆弾を500個以上投下したが、硬い岩肌に守られた洞窟陣地は激しく揺れ動くのみで、崩れはしなかった。

登ってくる大軍を恐れもせず、守備隊は鍛えた射撃の腕で、米兵の一人一人の頭部を狙って狙撃する。高地から打ち下ろす銃弾は、米兵の鉄帽を貫通して即死させる。夜は毎夜、斬り込みを繰り出した。

かつて1万2千人いた守備隊は1ヶ月の攻防の後、10月13日時点で1150名しか残っていなかったが、なおも「ペリリュー島を米軍に渡すな。ここを渡せば米軍は祖国に一歩近づくのだ」という決意を緩めなかった。守備隊はこの戦いをさらに1ヶ月以上も続けた。

(「サクラ、サクラ」)
11月24日、すでに食料も手榴弾も尽き、小銃とわずかな弾薬のみが残る状況となった。兵員も健在者50名、重軽傷者70名のみとなっていた。中川大佐は洞窟内の指揮所で、軍旗と機密書類を焼き、午後4時、パラオ宛に電文を打たせた。

「サクラ、サクラ」

玉砕を告げる暗号である。中川大佐と2名の幹部は、最後の攻撃へのはなむけとして、従容として古式に則った割腹自決を遂げた。
見事な最期を見届けた将兵は、嗚咽をこらえかね、その慟哭が洞窟内にこだました。重傷者たちは、もはやこれまでと大佐に続いて自決した。

その後、56名からなる最期の決死隊が組織され、米軍と激しく交戦し、全員玉砕した。

日本軍の組織的戦闘はこれで終わったが、各地で孤立した生存兵34名はその後もゲリラ戦を続け、昭和22年4月の投降まで、さらに2年半も戦い続けるのである。

ニミッツ提督の「この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕していったか」という感銘は、このような戦いからもたらされた。それは敵味方の別を超えた武人としての共感であった。

この戦いで戦死したある日本軍将兵は、次のような最期の言葉を残している。

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われらここに祖国を遙かなる南海の孤島に英霊となり、祖国の繁栄と平和、同胞家族の幸福を見守る。願わくば我等のこの殉国の精神、永遠に銘感されん事を。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 (文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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