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ペリリュー島のサクラ(前編)

2023年03月19日 | 日本
ニミッツ提督は「この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕していったか」と語った。

(ニミッツ提督を感銘させた日本将兵の玉砕)
フィリピン南端から東に1千キロほどの太平洋上に浮かぶパラオ諸島の一つ、ペリリュー島では大東亜戦争中、日米の激戦が行われ、1万余の日本将兵が玉砕し、米軍も1万人を超える死傷者を出した。

日本将兵の戦いぶりを、米太平洋艦隊司令長官だったニミッツ提督が次のような詩に詠んでいる。

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Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕していったかを伝えられよ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ニミッツ提督は著書『太平洋海戦史』の中でも、ペリリュー島の激戦について、こう書いている。

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ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40パーセント〉を甘受しなければならなかった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

(護国の英霊のお陰)
ペリリュー島は南北9キロ、東西3キロの珊瑚礁からできた小島である。この島を防衛していた中川州男(くにを)大佐率いる1万2千名の日本将兵は、洞窟・地下壕を利用した持久戦で、昭和19(1944)年9月から73日間も米軍を釘付けにして、1万人を超える死傷者を出させた。

その持久戦法は翌年2月の硫黄島での戦いにも引きつがれ、2万余の日本軍は36日間持ちこたえて、米軍に2万6千人近い死傷者を出させた。続く4月からの沖縄戦でも日本軍は同様の戦法に特攻を加え、米軍に7万5千人もの損害を与えた。

島を一つ取るたびに万単位の死傷者を出していたら、この先、日本本土占領までにどれだけの損害を受けるのか。本土決戦までいったら100万人の死傷者が出ると予測された。

日本が無条件降伏を受け入れるまで侵攻しようとするルーズベルト大統領の過酷な方針に対して、米国内で疑問の声があがったのだろう。無条件降伏では、皇室が滅ぼされても、あるいは日本全土がハワイやフィリピンのように属領とされても文句は言えない。日本は全滅するまで戦いを続けるだろう。

ルーズベルトの急死を機に、その方針が急転換されて、ポツダム宣言で降伏条件が出された。ここでようやく日本は降伏を受け入れることができたのである。

大東亜戦争での日本将兵の強さを認識したアメリカは、戦後、日本を頼れる国と見なして日米同盟を結び、それがソ連・中国との冷戦から日本を守った。同時に戦後の日本国民は英霊の死を無駄にしないよう祖国の復興に力を尽くした。戦後日本の平和と復興・高度成長は、護国の英霊のお陰と考えている。

(ペリリュー島原住民を退避させた中川大佐)
パラオ諸島は第一次大戦後、日本の委任統治領となった。大東亜戦争が始まると、日本はフィリピン防衛の防波堤として、ペリリュー島に東洋最大といわれる飛行場を建設した。

フィリピン奪回を狙う米軍は、まずペリリュー島攻略から始めた。昭和19(1944)年9月15日、ニミッツ提督率いる大機動部隊がペリリュー島沖合に現れた。

空母11隻、戦艦3隻、巡洋艦約25隻、駆逐艦約30隻、その他に多数の水雷艇、掃海艇、輸送船からなる大機動部隊が島全体を十重、二十重に包囲した。島から見れば、水平線がすべて敵船に覆い尽くされているような光景だったろう。

ペリリュー島には899名の原住民が住んでいた。彼らは産業開発や教育普及に尽くしてくれた日本に恩義を感じ、全員一致で日本軍とともに戦おうと決めたが、中川大佐はそれを許さず、乏しい船舶をやりくりして、空襲を避けて夜間に住民全員をパラオ本島に避難させた。

ちなみに、戦いが終わった後、帰島した彼らは多数の日本将兵の遺体を見て泣き、埋葬して、その後も墓地の清掃を続けてくれている。

 
(「攻略完了までに4日間もあれば十分だろう」)
上陸前に、米軍は艦砲射撃と空爆で、徹底的に日本軍を叩こうとした。9月14日までの3日間に米軍機のべ1400機がペリリュー島と隣接するアンガウル島を空襲した。さらに12万発、3490トンの砲弾を艦砲から撃ち込んだ。島の大地は揺れ動き、太陽は黒煙に包まれた。

輸送船から水陸両用装甲車に乗り込もうとしていた海兵隊第一連隊長ルイス・ブラー大佐に、船長が声をかけた。「大佐。今晩は船に帰って豪華な食事でもしようかね」

「どうしてかね」と聞く大佐に、船長は艦砲と爆撃の煙の間に垣間見える、ジャングルも中央高地も崩れた島を指さし、「戦争はなかば終わっていますよ。大佐の仕事は敗残兵狩りくらいのものでしょう。あれだけ完全に叩いたあとですからね。島の軍事施設は全部ふっとんで見えませんよ」

攻略完了までに4日間もあれば十分だろう、という見込みが、第一海兵師団に下された命令書にも書かれていた。

49隻の輸送船から、起重機で20隻の大型舟艇と3百余台の水陸両用装甲車が次々と降ろされ、それらが海岸に向かって接近した。大型舟艇は海岸から2千メートルの地点で停まり、その前部が口を開けて、3百隻にも達する上陸用舟艇が繰り出された。米軍の新兵器である。

(「こりゃ大変だ」)
海岸から6~8百メートルのところには、珊瑚礁が島を巡っていた。上陸用舟艇が珊瑚礁線を乗り越えようとした途端に、無数の水柱があがり、舟艇は折り砕かれ、米兵の身体も飛び散った。またたく間に、海は朱に染まり、死体が海上に漂った。

立ち往生している舟艇から、次々と無線通信が司令部に送られた。「ああ、すごい、ひどい。あそこで5両、そこで10両、その向こうで5両、ジャップの機雷にやられて吹っ飛んでしまった。こりゃ手強い」「どうしたらよい、動けないんだ」

米艦隊は無数の発煙弾を撃って煙幕を張り、それに隠れて残存する上陸用舟艇は、注意深く珊瑚礁線を越えようとした。そこに日本軍の一斉砲撃が襲ってきた。

珊瑚礁線は大小無数の砲弾で大穴だらけになり、その穴に米将兵が折り重なって倒れている。いくつもの水陸両用装甲車が紅蓮の炎と黒煙に包まれている。

米艦隊の一人の砲術士官は双眼鏡でその状況を観測して「こりゃ大変だ」と思ったが、ふと飛行場横の高地の中腹には無数の洞窟を見つけた。その入り口に四角い鉄の扉があり、それが開くと、中から砲身が出て来て、真っ赤な火を吐く。そんな洞窟が数百もあった。

それらの洞窟に砲撃を加えたが、炸裂した砲煙が消えると、何事もなかったように、また鉄扉が開いて、砲身が火を吹く。そのたびに上陸用舟艇や装甲車が餌食になっていく。日本軍の中核は満洲関東軍の中でも精鋭部隊で、砲撃の精度も正確無比だった。

この数時間の初戦だけで、米軍は上陸用舟艇60数隻、水陸両用装甲車30両が撃破され、約千名の死傷者を出した。
 
---owari---
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