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国史百景: 職人たちの新宮殿造営(前編)

2023年03月21日 | 日本
「国民の手で後世に残す宮殿をつくりあげたい」という思いで職人たちが作りあげた「真っ正直な、ごまかしのない姿」

(「真っ正直な、ごまかしのない姿」)
 新年や天皇誕生日の一般参賀で両陛下を中心として皇族方がご挨拶されるベランダのある建物が「長和殿」である。




その他に、外国大使の信任状捧呈式や歌会始めの儀など主要行事に使われる「正殿」、海外からの賓客との晩餐会などが開かれる「豊明殿」、両陛下の執務室のある「表御座所」など合計7つの棟からなるのが新宮殿だ。



この新宮殿が昭和43(1968)年に完成した時、拝観した文芸評論家・小林秀雄は皇居造営部長・高尾亮一にこう語っている。

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ぼくはあの建築を見ていて、すぐピーンと来ましたね。この真っ正直な、ごまかしのない姿は、現代のインテリの議論なぞとはまったく関係がない、ということがね。

あなたの指揮のもので宮殿をだまってつくった人たちはみんな本当の意味の職人でしょう。インテリなんていうつまらん人種は一人もいなかったでしょう。新宮殿の造営は戦後の大事件です。インテリが何の興味も持たなかった大事件ですよ。・・・

腕に自信のある人だけがあつまって、腕によりを掛けて作ったという静かな感銘を受けたな。・・・職人さんたちが、これほど存分に腕がふるえたことはなかったでしょう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

現実を見ずに机上の空論を振り回すインテリを軽蔑し、自らの腕で現実と格闘する職人を敬愛した小林秀雄は、新宮殿の「真っ正直な、ごまかしのない姿」に職人たちの思いと腕を見たのである。

(「国民自身の手で宮殿を再建しよう」という運動)
明治21(1888)年に創建されたかつての宮殿は、昭和20(1945)年5月26日未明の大空襲によって、霞ヶ関一帯の火災から飛び火して、炎上消失した。

そのため、宮内庁庁舎の事務室の一部を仮の宮殿とする一方、両陛下は吹上御苑の中にある「お文庫」と呼ばれた地上地下各一階の建物に仮住まいされた。

防弾のための分厚いコンクリート屋根に覆われ、周囲は爆風を避けるための太い柱に囲まれていたため、採光や風通しが悪く、冬は底冷えがひどく、夏には壁一面に湿気で水滴がつく、という有様だった。

見かねた宮内庁の役人が、陛下のご健康に障りがあるのでご新居建設を、と奏上したが、国民の住宅建設が立ち後れている時期に、自分のみが新居を構えられようか、と昭和天皇は頑として受け付けられなかった。

しかし、終戦後10年以上も経って、経済も急速に復興しつつある中で、宮殿の再建を、という声が各方面から寄せられ、国庫から費用が出せないのなら自分たちでと、国民の中から募金運動が起きた。こうした声が政府を動かし、昭和35年から国費に国民からの寄付金も加えて、造営が始まった。

(国民の手で後世に残す宮殿をつくりあげたい)
宮内庁内に皇居造営部が設置され、部長として高尾亮一が就任した。皇居造営部で新宮殿の略設計試案が作成され、これを丹下健三など当代一流の建築家10名に検討して貰って、その結果をもとに詳細設計が進められた。

また施工業者の選定では、大蔵省は会計法の定める競争入札をすべきと主張したが、高尾は「この国の代表的建設業者が共同して事に当たることが望ましい」として、最終的には大林、鹿島、清水、大成、竹中の五社が「新宮殿造営工事共同企業体」を結成して、工事を担当することとなった。

現場には共同企業体事務所が設立され、各社は競うように腕の立つ人材を送り込んだ。高尾は「やはり、国民の手で後世に残す宮殿をつくりあげたいという願望が、このような<一つの旗の下に>を実現させたのだと思う」と述懐している。

また、工事施工にも、共同企業体がそれぞれの分野での一流業者を選んだ。「宮殿工事の各部門に有数の業者が綺羅星(きらぼし)のように参加しているのは、このような背景があるためである」と高尾は述べている。

時まさに高度経済成長期、各社が激烈な競争をしている最中だったが、こと新宮殿建設にかけては、日本を代表する建設会社、施工業者が心を一つにして、取り組んでいたのである。

(「あっしですか、あっしは目頭がジーンとしました」)
起工式は昭和39(1964)年6月29日に行われた。工事期間中、高尾はしばしば昭和天皇に進捗状況を奏上したが、そのたびに「工事上の災害、ことに人身事故を起こさないように」とのお言葉を賜った。このご指示に高尾と工事関係者は万全の対策を講じた。

たとえば大屋根での作業の際は軒周りに通路を巡らせ、さらにその外側に鉄柵をとりつけた。これなら大屋根での作業中に足を滑らせても、転落は防げる。こうした努力のお陰で、4年4ヶ月、延べ72万人におよぶ工事期間に事故は一件もなかった。

昭和天皇はご自身でも、たびたび工事現場を視察された。それも作業の邪魔をしないよう、日曜日を選ばれて。その度にお供をした高尾はこう語る。

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人気(ひとけ)のない現場で、蜘蛛の巣のような障害物の下をくぐり、ぐらぐら揺れる足場を渡られながら、こまかく工事の進行状況や詳細な説明をお求めになる。それはじつにご熱心なものだった。
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こうした昭和天皇のご視察は次第に工事関係者にも知られて、現場で作業者が働いている姿もぜひご覧賜りたいとの熱心な希望が寄せられた。作業の迷惑になっては、と遠慮されていた陛下も、職人たちの願いに応えてお出ましになった。

当時27歳で、鳶(とび)職世話役をしていた野竹辰弥は、昭和天皇が鳶職人たちのもとに来られて、「作業には十分に気をつけるように」というお言葉を賜った時のことをこう回想している。

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トビの男は感激家ぞろいですから、・・・政さん、信さんなど、それで水っぱななどすすっちゃいましてね・・・。あっしですか、あっしは目頭がジーンとしました。

これまでいろいろな工事やりましたが、注文主の社長がでてきて作業員に声をかけたことなんて一度もありませんや。それが天皇陛下が、われわれみたいな職人のことを心配して、お言葉をかけてくださったんですから、、、
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世話役として年上の職人たちを束ねるのは、若い野竹には気が重い仕事だった。しかし、陛下のお言葉が雰囲気を一変させた。

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それもこれも、“お言葉”でみなの気持がひとつになりましてね。・・・事故ひとつなく工事をおえたのは、私の腕というよりこの“お言葉”のためです。
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---owari---
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