「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」(「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」)1946年になると、工事を加速するためにウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送り込まれてきた。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛(りつえ)少尉がいた。ソ連側は若松の能力を見込んで、工事全般の日本側総監督を命じた。困った若松は永田に相談した。永田は「全体を監督できるのは、あなたしかいない . . . 本文を読む
「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」(「大きな地震が起こったら、、、」)1966年4月26日、中央アジアのタシケント市が直下型の大地震に襲われた。ソーヤは「みんな外に出て!」と子供たちに向かって叫んだ。子供らの手を掴んで外に飛び出しながら、「近くのナボイ劇場の建っている公園に行って! 噴水の周りに集まりましょう」と叫んだ。あちこちの家が崩れている。ソーヤがナボイ公園に逃げることを咄嗟 . . . 本文を読む
ソ連に抑留され、ウズベキスタンで強制労働に従事して亡くなった日本人の墓を、地元の人々は大切に護ってきた。(「父はここで眠るのが一番幸せだと思いました」)中山大使は「誰もがお参りにいけるようにお墓を整備したい」と思ったが、作業に取りかかる前に、まず埋葬者の遺族の意思を確認することとした。日本に遺骨を持って帰りたい、という人もいるのではないか、と思ったからだ。遺族を探し出すのは難儀したが、「父の遺骨を . . . 本文を読む
ソ連に抑留され、ウズベキスタンで強制労働に従事して亡くなった日本人の墓を、地元の人々は大切に護ってきた。(ウズベキスタンの桜)中央アジアの内陸部にあるウズベキスタンの首都・タシケントに、1500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の2/3が倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となった . . . 本文を読む
「私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです」(「尊皇攘夷」)松陰が志していた「尊皇攘夷」とは、よく誤解されているように「鎖国を維持して天皇制を守ろう」などというイデオロギーではなかった。「尊皇」とは皇室を中心に日本国が一つにまとまる事であり、「攘夷」とは、それによって欧米諸国の侵略から国を守ろう、ということであった。20年ほど前に、清帝 . . . 本文を読む