「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」
(「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」)
1946年になると、工事を加速するためにウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送り込まれてきた。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛(りつえ)少尉がいた。ソ連側は若松の能力を見込んで、工事全般の日本側総監督を命じた。
困った若松は永田に相談した。永田は「全体を監督できるのは、あなたしかいない。協力し合ってやろう」と若松の手を握った。さらに、こう続けた。
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むろん、手抜きをしたり、いい加減なやり方で格好をつけた建物にすることもできると思うが、私はソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたいと思っている。
捕虜としてやるのだから別にそこまで力を入れなくても良いだろう、という意見もあるだろう。しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考えている。さすが日本人の建設したものは、“出来が違う”といわれるものにしたいと本気で思っている。・・・
捕虜になって多くの兵隊は生きる張りを失い、先も見えず精神的に弱っている者もみかける。そんな時だけに、自分たちがこれまでに培った技術、技能で世界に引けをとらない建築物をつくるんだという一点を生きる気力の糧にしてくれたらと願っている。
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若松は永田の言葉を聞いて、胸が熱くなった。「この人と協力して歴史に残るような建築物を作るよう全力を尽くそう」と決心した。そんな「日本人の誇りと意地」が劣悪な生活環境で、抑留者たちを支えていた。
(「何のおまじないなのだ」)
日本人の働き方を見て、ロシア人やウズベク人が不思議に思ったのは、皆で重い物を持ち上げたりする時に、「セーノ」とか「ヨイショ」と声を合わせることだった。「何のおまじないなのだ」とウズベク人が聞いてきた。一人の日本人はこう説明した。
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これはね、皆で重いものを持ち上げる時に、“セーノ”と言ったら、一斉に力を出して持ち上げるんだ。日本人はなるべく皆が一緒に力を合わせてやった方が上手くいくと教えられてきた。それが日本独特の“和”の精神さ。
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「“ワ”というのか」と不思議がったが、ウズベク人たちも一斉に「ヨイショ」と声をあげて力を合わせると石が持ち上がり、みんな「なるほど」という顔をしていた。
永田は、そんなエピソードを挙げて、アナポリスキーに“和”を説明した。
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和というのは皆で一つの大きな仕事を完成させる時に最も大事な協力の精神の事です。皆が助け合い足りないところを補いあうから、日本では仕事が早くうまくゆくのです。
二、三人の優れた者がいてもオペラハウスの建設のような大きな仕事はできません。日本人はそのことを知っているので、皆が助け合って仕事を進めているんです。
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さらに食事の平等な配分もこの考え方に基づいている事を説明した。アナポリスキーは「あなたは立派なリーダーだ。日本人の協力の精神の源や仕事のやり方、生き方を知ることができて大変参考になった。ありがとう」と永田の手を強く握りしめた。
(〝日本人は本当によくやってくれた”)
日本人抑留者たちは、こうして建設に励む一方、休みの日には花札やトランプ、果ては麻雀牌まで手作りして、一緒に遊んだ。ソ連兵も面白がって、「教えろ」「教えろ」と麻雀に加わるようになった。収容所内はぐっと明るくなった。
また、ソ連兵が時々、ロシア民謡を合唱しているのを聞いて、日本人の一人がバイオリンを手作りして、伴奏した。こうした動きが盛りあがって、ついには日ソ合同の演芸大会まで開催された。近所のウズベク人も大勢、押しかけた。
他の収容所のように、ソ連の共産主義教育で洗脳された日本兵がかつての将校を吊し上げる、というような陰惨な光景は、この収容所ではついぞ見られなかった。
1947年9月の初め、劇場が完成に近づいたので、永田はソ連側の了承を得て、仮の完成式を行う事とした。無事に立派な建物を作りあげた事を皆で確認し、喜び合いたい、と思ったのである。
9月中旬の日曜日、抑留者たちと、一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちが続々と劇場前に集まった。永田が「皆の前に建っているこの壮麗なナボナ劇場は、私達日本人を中心に一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちとの汗と涙の結晶だ」と挨拶した。
ソ連将校やウズベク人が永田に近づいて握手し、何事か囁いた。永田は大きく頷き、皆に告げた。
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ロシア人もウズベク人も〝日本人は本当によくやってくれた。素晴らしい民族だ〟と言っている。それと後で、私達の作った舞台でロシア人、ウズベク人がバレエを披露するので見て欲しいと言っている。楽しみに見せてもらおう。
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抑留者たちは、出来上がった劇場を見学し、後世に残る建物を作りあげたことに誇りを抱いた。永田は見学後に、隊員たちに、もう一度、声をかけた。
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日本はアメリカの爆撃でそこら中が廃墟のようになっていると聞いている。・・・ ぜひ、諸君らも帰国したら世界から敬意を表されるような日本を再建し、そのような日本人になって欲しい。私たちはここで礎を築くことを学んだし、感じたはずだ。
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永田は胸にこみあげる思いを呑み込んで、一気に話した。思い残すことは、もうなかった。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
---owari---
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