大津皇子についての続きです。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_yoka.gif)
686年、9月9日、大津の父、天武天皇が崩御する。
その死後1ケ月もたたない10月2日、大津は謀反の罪で捕らえられ、翌日には死を賜っている。時に24歳。
この時代の謀反といえば、そのほとんどが無実だったと言ってもよい。古人大兄皇子しかり、有馬皇子しかり、蘇我倉山田石川麻呂しかり。大津も例外ではない。
彼はその出自から、本人が望むと望まざるとに関係なく、皇位継承の有力候補者の一人だった。
しかも才気煥発で人気があったのだから、自分の息子を皇位に付けたい皇后にとっては大津は邪魔な存在でしかなかったのだろう。
この謀反について「懐風藻」には
新羅の僧行心というものあり、天文卜筮を解る。皇子に詔げて曰はく、「太子の骨法、是れ人臣の相にあらず 此れを以って久
しく下位に在らば、恐るらくは身を全くせざらむ」といふ。因りて逆謀を進む。此の詿誤に迷ひ、遂に不軌を図らす。
とある。
だが、この謀反劇、かなり疑問だらけなのだ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_cry.gif)
まず、書記には9月24日に謀反が発覚したとあるが、実際に捕らえられたのは10月2日。この間、放置されていたにもかかわらず、処刑は翌日の3日に断行されている。
しかも、一緒に拘束された30余人の人たちの中で罪を問われたのは僅な人だけであったし、大津が3日に処刑されているのに、同調者に対する処分が決まったのは29日だった。
この事からみても、明らかに大津をターゲットにして処分を急いだと考えざるをえないのだ。その中心人物は息子の安泰を願う讃良皇女だ。
では、大津は皇位を望んでいたのだろうか。私はそうは思わない。
何故なら彼が皇位を望めば、それを手中にするのは案外簡単にできたのではないかと思う。
それに、保身のために、讃良の心象を良くすることだって出来たはずだ。彼を裏切ったとされる川島皇子のように・・・。
でも、彼はそれをしなかった。しなかったというより、彼の生き方の中に、阿諛追従をしたり、自分の利益のために画策をするという選択は存在しなかったと感じる。
それが彼の皇子としてのプライドであり、美学だと思う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hikari_blue.gif)
だから、その死に臨んで無念の思いはあったと思うが、心は晴れやかだったのではないだろうか。
「万葉集」と「懐風藻」に辞世の歌が残されている。
ただ、当時、辞世の歌を残すという事があまり例がないので、後世の人の挿入ではないかという説が有力視されている。事実はどうであれ私はこの2つの歌を大津の心情を描いたものとして心の中に抱き続けてきた。
大津皇子、死を被はりし時に 磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を けふのみ見てや 雲隠りなむ
臨終
金烏臨西舎
鼓声催短命
泉路無賓主
此夕離家向
死に臨んで彼の中に去来したものは何だったのだろうか・・・。
あまりにも凛とした歌に私は涙を禁じえない。
黒岩重吾さんの小説「天翔る白日」のタイトル通り、彼はまさに天翔る皇子。これらの歌からもそんな印象を受けるのだ。
歴史にもしもはありえないのだけれど、彼の人生にはもしもの局面があまりにも多い。
母の大田が早世しなければ、父の死があと数年後だったら・・・。
時の流れはこの優秀な若者の味方にならなかった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_setsunai.gif)
讃良が大津を抹殺してまで皇位につけたかった草壁は3年後に死去するのだから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_yoka.gif)
686年、9月9日、大津の父、天武天皇が崩御する。
その死後1ケ月もたたない10月2日、大津は謀反の罪で捕らえられ、翌日には死を賜っている。時に24歳。
この時代の謀反といえば、そのほとんどが無実だったと言ってもよい。古人大兄皇子しかり、有馬皇子しかり、蘇我倉山田石川麻呂しかり。大津も例外ではない。
彼はその出自から、本人が望むと望まざるとに関係なく、皇位継承の有力候補者の一人だった。
しかも才気煥発で人気があったのだから、自分の息子を皇位に付けたい皇后にとっては大津は邪魔な存在でしかなかったのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_setsunai.gif)
この謀反について「懐風藻」には
新羅の僧行心というものあり、天文卜筮を解る。皇子に詔げて曰はく、「太子の骨法、是れ人臣の相にあらず 此れを以って久
しく下位に在らば、恐るらくは身を全くせざらむ」といふ。因りて逆謀を進む。此の詿誤に迷ひ、遂に不軌を図らす。
とある。
だが、この謀反劇、かなり疑問だらけなのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_cry.gif)
まず、書記には9月24日に謀反が発覚したとあるが、実際に捕らえられたのは10月2日。この間、放置されていたにもかかわらず、処刑は翌日の3日に断行されている。
しかも、一緒に拘束された30余人の人たちの中で罪を問われたのは僅な人だけであったし、大津が3日に処刑されているのに、同調者に対する処分が決まったのは29日だった。
この事からみても、明らかに大津をターゲットにして処分を急いだと考えざるをえないのだ。その中心人物は息子の安泰を願う讃良皇女だ。
では、大津は皇位を望んでいたのだろうか。私はそうは思わない。
何故なら彼が皇位を望めば、それを手中にするのは案外簡単にできたのではないかと思う。
それに、保身のために、讃良の心象を良くすることだって出来たはずだ。彼を裏切ったとされる川島皇子のように・・・。
でも、彼はそれをしなかった。しなかったというより、彼の生き方の中に、阿諛追従をしたり、自分の利益のために画策をするという選択は存在しなかったと感じる。
それが彼の皇子としてのプライドであり、美学だと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hikari_blue.gif)
だから、その死に臨んで無念の思いはあったと思うが、心は晴れやかだったのではないだろうか。
「万葉集」と「懐風藻」に辞世の歌が残されている。
ただ、当時、辞世の歌を残すという事があまり例がないので、後世の人の挿入ではないかという説が有力視されている。事実はどうであれ私はこの2つの歌を大津の心情を描いたものとして心の中に抱き続けてきた。
大津皇子、死を被はりし時に 磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を けふのみ見てや 雲隠りなむ
臨終
金烏臨西舎
鼓声催短命
泉路無賓主
此夕離家向
死に臨んで彼の中に去来したものは何だったのだろうか・・・。
あまりにも凛とした歌に私は涙を禁じえない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_uru.gif)
黒岩重吾さんの小説「天翔る白日」のタイトル通り、彼はまさに天翔る皇子。これらの歌からもそんな印象を受けるのだ。
歴史にもしもはありえないのだけれど、彼の人生にはもしもの局面があまりにも多い。
母の大田が早世しなければ、父の死があと数年後だったら・・・。
時の流れはこの優秀な若者の味方にならなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_setsunai.gif)
讃良が大津を抹殺してまで皇位につけたかった草壁は3年後に死去するのだから。