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きまぐれ雑記

日常の出来事と私の好きなものを思いつくままにゆっくり記していきます

万葉の人々 5

2011-08-21 21:09:38 | ちょっとお気に入り
大津の死に絡んで・・・。

大津の処刑にはもうひとつの悲劇が重なった。
妃の山辺皇女が殉死する。

書記の記述は

 妃皇女山辺、髪を被し徒跣にして、奔赴きて殉ぬ。

つまり、彼女は髪を振り乱し裸足で駆けてきて、大津の死に殉じたのである。
初冬の冷たい風が吹く夕暮れだった。

山辺は蘇我赤兄の娘常陸娘と天智帝の間の娘。この事実は私にはとても不思議な因縁のように思えた。
何故なら、赤兄と天智は有間皇子を陥れて処刑した中心人物だからだ。

大津の刑死を遡る事30年程。「万葉集」にはもうひとりの悲劇の皇子、有間皇子の歌が残されている。

有間は大化の改新の後、即位した孝徳天皇の皇子。
この孝徳天皇の誕生には色々は説があるのだけれど、大化の改新後に中大兄が即位しなかった、あるいはできなかったために、有間の悲劇が生まれる事になる。

彼も又、本人の意思とは関係なく皇位継承の資格を持つ皇子だった。

この事が猜疑心の強い中大兄に疑惑の目で見られる事になってしまう。
彼は過去に中大兄よって、死に追いやれた古人大兄や石川麻呂の例からみても、自分の立場の危うさを肌で感じていたのだろう。狂人を装うという行動までとっていたのだから・・・。
しかし、中大兄の罠から逃れられる事はできなかった。

彼が19歳になった658年、斉明天皇らが紀温泉への保養に出かけ飛鳥を留守にしていた時、有間のもとへ中大兄の意を受けた赤兄がやってきて、「天皇の政治には三つの失敗がある。兵をあげるべきだ」と進めた。

しかし、数日後、その赤兄が天皇のもとへ「有間謀反」を奏上した。
捕らえられた有間は紀温泉へ護送され、尋問の際「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず」と答えたという。

紀温泉から大和へ護送される途中の磐代で彼が歌った歌。

 有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
   磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらば また還り見む

   家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

彼も又、自分の運命を客観的に見つめているように感じる。そして、彼は大和に戻る事なく藤白の坂で絞首刑に処せられている。この時19歳。

この有間の悲劇に加担した赤兄の孫が、中大兄の娘の讃良の画策によって、死ななければならない運命を迎えた事に私は人の世の不思議を感じる。

だが、山辺は不幸だったのかと問われたら、私はNOと答えるだろう。むしろ讃良の方が孤独で不幸だった気がする。
何故なら、大津と山辺の婚姻は政治がらみの要素が強いと思われるけれど、彼女は大津を愛する事ができたから・・・。


ところで永井路子さんの短編小説に「裸足の皇女」がある。
地元の図書館の書架でこのタイトルを見た時、「山辺だ!」と心の中で叫んでいた。
そして、小説を読んでみて驚いた。
この小説は山辺を通して赤兄を描いているのだが、この中にはなんと有間に女童としてつかえていた女性が登場し、あたかも有間の怨みを晴らしたかのような結びになっているのだ。

そして、大津が皇位に就くことはもちろん、その事によって山辺が立后することは讃良には絶対に許せない事だ(彼女の祖父、石川麻呂の死に赤兄が絡むため)と永井先生は見ておられます。ここまでくると讃良はちょっと怖すぎですが、やはり、有間と赤兄、そして山辺とつながるこの流れには何かを感じるということなのでしょうか・・・。

余談ですが、いま岐阜の歴史博物館で行われている薬師寺展で展示されている聖観音像は有間の姿を映したものだといわれていました。最近は大津の姿を映したものという説もあるようですが、この薬師寺には大津皇子坐像といわれる像も伝わっています。

こんな所でも2人の悲劇の皇子はつながっているのかも・・・。
コメント
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