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きまぐれ雑記

日常の出来事と私の好きなものを思いつくままにゆっくり記していきます

秋の関西

2011-08-26 20:54:01 | ひとりごと
まだ残暑が続いてますが、秋の予定が色々と入って来ています。

10月には観劇で2度関西へ行く予定になっているのですが、恒例の京都の非公開文化財の特別公開のリストが発表になって、頭を抱えることに。

今回のリストにこの所公開されていなかった三時知恩寺さんの名前が・・・。

行きたい気持ちがムクムクと湧きあがっているのですが、そうなると1ケ月に3度も関西に行く事になる。

財布も微妙だけど、この所の体調不良で自分の体力にも自信が持てない。

平日に行けると身体を休める日ができるんだけど、しばらく平日には休めそうもない。
こんな所で追い込まれるとは・・・。

ギリギリまで迷う私です。
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鷹井

2011-08-25 20:26:09 | 観劇・伝芸
夏のこの時期、薪能のポスターをよく見かけます。

私は狂言会には年に数回でかけるのですが、お能は実はあまり観た事がなくて、薪能で数回観たぐらいです。

そんな少ない観能経験の中でとても印象に残っているのが創作能の鷹井。

私が観たのは再演の時で、浅見真州さん、白石加代子さん、野村萬斎さんが中心となって上演されました。



まだ、伝芸を見始めた頃でお能の事は全くわからなかったのですが、浅見さんの鷹の乙女の舞と白石さん、萬斎さんの存在感は今でも心に残っています。

通常のお能よりは上演時間は短いと思うのですが、又、観てみたい作品です。


そういえば、明日は岐阜の長良川の薪能ですね。
お天気は大丈夫なんでしょうか・・・。
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PLAYZONE 2011

2011-08-24 20:28:55 | 観劇・ミュージカル
21日、中日劇場でプレゾン観劇。

名古屋でプレゾンの公演があるなんて珍しいし、ダンスが観たくて出かける事に。

作品はストーリーがあるわけではなくてダンスと歌で構成された宝塚のショーの男性版という感じ。

出演者の中で顔と名前が一致するのは2~3人という状況で観たのですが結構楽しめました(まあ、裏話的な話題はわかりませんでしたが)。

でも、正直に言うともっとダンスばかりなのかなと思っていたのも事実(私って鬼ですかね)。

もともとプレゾンは少年隊のミュージカルとして始まったものですが、私はほとんど観る機会がなかったので過去のものとの比較はできないのですが、ダンスシーンのあるミュージカルが少ない昨今ですから、ダンスが気軽に楽しめるという点で、名古屋での公演があれば又、観てもいいかなと思いました。

タキシード姿での群舞って宝塚でしか観たことがなかったのですが、本物の男性というのも素敵でした。


この日は名古屋の楽だったので出演者の方が終演後にロビーに並んでお客さんを見送ってくださるというおまけ付き。
伝芸では時折あるのですが、それ以外では初めてだったので驚きました。

ほとんど出演者を知らない私のようなオバサンが見送られて良かったのかな。
ファンの皆さんごめんなさい。
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万葉の人々 7

2011-08-23 20:21:46 | ちょっとお気に入り
大津の姉・大伯の事。

公式な記録では空白の部分が多い大伯だが、この空白を埋めるのが万葉集の歌だ。
万葉集に残された大伯の歌は6首。すべてが大津に関するもの。

最初に登場するのが巻二。大津が伊勢を訪ねた時の歌。

   大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御作歌二首

     わが背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に わが立ちぬれし

    ふたり行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

の二首。

大津はその死の直前、身に迫る危険を感じたのか、伊勢の姉を秘かに訪ねている。
この歌は、その大津が大和へ戻る時に大伯が歌ったものだ。

伊勢へ下ったという事に否定的な意見もあるし、この歌がまるで恋人に対するもののように感じられる事から、二人の間には恋愛関係があったのではないかという見方もある。

でも、私は幼い頃に母を亡くし二人で寄り添って生きてきたであろう姉弟はこれから起きようとしている災いを前にして、自分たちにできる事、許されている事の少なさを実感したのだと思う。その思いを歌に託したのが大伯のこの2首のような気がする。


そして、二人の不安は的中して、大津は死ぬ。
彼女は斎宮の任を解かれて11月16日に帰京する。その時の歌が下記の二首。


   大津皇子薨りまししのち、大伯皇女伊勢の斎宮より京に上る時の御作歌二首

    神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに

     見まく欲ほり わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに

都から遠く離れた伊勢の地で、思い焦がれた都にやっと戻れたのに、彼女は「なにしか来けむ」と歌わなければならなかったのだ。その哀しみはいかばかりだっただろう・・・。


さらに大津の移葬が行われた時の歌が二首残されている。

   大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌二首

     うつそみの 人にあるわれや あすよりは 二上山を 弟とわが見む

     磯の上に おふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに

その後の彼女の人生がどんなものだったのかは全くわからないが、この歌を見る限り、残りの彼女の人生も大津と共にあったような気がする。


大和平野から眺める二上山の姿は美しい。でも、この山をただ美しいというだけでは見られないのはこの歌のためだ。この山を悲しみのまなざしで眺め続けた大伯は41歳でこの世を去る。独身だったという。

かなり前になるが、二上山の雄岳の山頂付近にある大津皇子の墓とされる古墳にお参りしたくて、二上山に登った。実際にここに大津が眠っているのではなくて、ふもとにある鳥谷口古墳が彼のお墓だとする説の方が有力ではあるのだけれど、とにかく1度行きたかったのだ。

その時の私の気持ちは憧れの人に初めて会えるような不思議な気持ちだった。
そして、やっとたどり着いた大津のお墓の周りはとても静かで、別世界だった。
じっと見つめる私の眼差しの向こうには大津の魂が今も生きているような不思議な感覚。
でも、それはすべての運命を受け入れて天に昇った大津の魂の清清しい姿のように思えた。

馬酔木の花言葉は「犠牲」「二人で旅をしよう」「清純な心」だそうだが、どこかこの姉弟と重なる気がする。

奈良公園の馬酔木を見るといつも大伯の歌が心の中でこだまする。私にとってはそれほど印象的な歌なのだ。
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万葉の人々 6

2011-08-22 20:05:07 | ちょっとお気に入り
大津の姉・大伯をめぐって・・・。

斉明天皇七年、百済救援の西征の途中、備前の大伯の海上で生まれたので大伯と名づけられた。

大伯と大津は幼い時に母を亡くしたが、壬申の乱が起こるまでは淋しさはあったと思うが比較的平穏に過ごせたのではないかと思う。

壬申の乱が終わり、天武天皇が誕生すると、大伯は伊勢神宮に奉仕する斎宮として伊勢に下る事になる。
これは壬申の乱の折の伊勢の神の加護に対する感謝を示すためだ。

彼女についての記録はあまり残っておらず、はっきりしているのは26歳まで斎宮を務めたこと、41歳で死去したことぐらいだ。

実はこの斎宮決定は讃良の画策だという説がある。

大伯が成長し、いずれかの皇子と婚姻すれば、草壁にとっての脅威が増えてしまうという理由だ。
なるほど、考えられる事だと思う。でも、斎宮決定が讃良主導で行われたとしたら、天武天皇ってかなりの恐妻家という感じになってしまうけど・・・。

それはせておき、伊勢の彼女の元を訪ねた人物が三人。ひとりは弟の大津だが、もう一組は十市皇女と阿閉皇女。
大津の事は後に譲るとして、十市の事に触れてみたいと思う。

十市は、大友皇子の后だった。

つまり壬申の乱は彼女の父親と夫の戦いだったわけで、どちらが勝っても彼女には辛い思いしか残らないものだったと思う。
結果として夫を失った彼女の浄御原宮での生活がどのようなものであったかは全くわからない。
歌さえ残されていない。額田を母に持っているのにかなり意外な感じだ。

だが、彼女を思って歌を残した人物がいる。高市皇子だ。

   十市皇女の薨りましし時、高市皇子尊の作りませる歌三首

      三諸の神の神杉 巳具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き

      三輪山の山辺真麻木綿短木綿 かくのみゆゑに長しと思ひき 

      山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく


この歌は詞書にもあるように十市皇女が亡くなった時に歌われたもの。
十市が亡くなったのは天武七年四月七日で、天皇が天神地祀を祭るために、多武峰・音羽山に発する倉梯川のほとりに設けた禊のための斎宮に行幸する予定の日だった。

十市の死について書記は

 十市皇女、にはか病おこりて、宮の内に薨せぬ

と記すだけだが、自殺だとする見方が強い。ではその背景は何か。

様々な見方がある中で、比較的多い見方のひとつが十市を斎宮にしようとしたとの説である。
ここには大伯の時と同じように讃良の思惑があると・・・。つまり、十市と高市の仲を警戒したのだという。
もし、斎宮に選任されてしまったら、高市との婚姻はできないどころか会う事もままならなくなる。これを悲観して自殺したというのだ。

高市皇子は天武の第一皇子。母親(尼子娘)の身分が低いため皇位継承の面から見ると大津や草壁には後れを取るが壬申の乱での功績は皇子中ナンバーワンだった。

実は高市皇子の歌は上の三首しか万葉集には残されていないし、十市の死に関する歌もこの三首以外にはない。
この事から考えてもふたりは親密な関係にあったのではないかと見方が強い。もちろん、反対意見もある。

十市はともかく、高市は十市に想いを寄せていたのではないかと私は感じる。

三首のうち最初の歌は、いまだに読み方が確定されていないために、読み込まれた意味を解する事は難しいのだが、二首目は短かった命を惜しんでいる。

三首目の「山吹の~」の歌が個人的にはかなり好きで、哀しみの言葉は使われていないのに「道の知らなく」という言葉には心に響く淋しさが表現されていると感じられて、万葉の中でも特に印象的な歌の一つとなっている。
それにしても斎宮って、伊勢の神様に感謝して遣わすはずなのに、息子の地位の安泰のために送られていたとしたら、なんだか虚しい。

そんな伊勢の地に大津がやって来る・・・。
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