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my diary

失敗の教訓

2025年02月11日 | 日記
 昨日は、妻から叱られることをしてしまった。洗濯機の前面のアクリル板の隙間にある物を落とし込んでしまったこと、浴室にある呼び出しボタンを誤って押してしまったこと。それで風呂のスイッチを切ってしまっていて、後から妻が入った時に保温できていなかったことの三つであった。妻は、私に呆けの兆候を感じて怒ったのかもしれない。
 そんな時に、ビル・ゲイツが言ったといわれる「It is fine to celebrate success,but it is more important to heed the lessons of failure.」という言葉を目にした。成功したことは誰もが喜ぶが、失敗した経験はガッカリして恥とさえ思ってしまう。そのような気持ちが、私達に失敗への恐れを抱かして、成長するのを妨げがちになる。しかし、失敗は自分の成長へのチャンスと考えると、最も大切なものは、失敗から学ぶことなのではないか。長年生きていると様々な失敗を経験する。その失敗をどのように処理するか、そして、そこから、どのような教訓を得るかによって、それからの生き方が変わってくることもある。昨日の些細な失敗の話から、少し、大げさなことに思いが及んでしまったが、【失敗は何も恥ではない、それから学ばないことが恥なんだ】と、敢えて言いたい。
 
 このところ、逢坂冬馬の書いた「同志少女よ敵を打て」という小説を読んでいる。第二次世界大戦中に母を殺されて狙撃兵となった少女の話であるが、殺人という行為は、戦争中であれ、決して正当化されて良いものでは無いと思っている。ところが、狙撃兵としては、敵を殺さなければ任務を遂行出来ないし、場合によっては自分も殺されてしまう。仕事として、自らを殺人兵器として行動することを強いられる。
 私は、UFOゲームから始まって、スーパーマリオとか、信長の野望とかを夢中になってしたことがある。私の世代は、「団塊の世代」の後の「しらけ世代」(無気力、無関心、無責任の三無主義の世代とも呼ばれる)であり、ゲームをし始めたのは二十歳代半ばを過ぎた頃からで、今のゲーム世代からすると随分大人になってからでもあるが、それでも夢中になってしていた。ゲームの世界では、リセットが出来ること、相手を殺しても何も感じずに済むことがあり、これは上記の小説で描かれた狙撃兵とか、現代のウクライナ戦争などでドローンのような無人兵器が使われていたりすることと似ている。ある意味では恐ろしいことで、例えば、闇バイトで指示役から指示された素人の実行役が、何も考えずに、ハンマーなどの凶器を使って被害者を平気で殺傷したりすることに通ずるのかもしれないと思う。余りにも短絡的で、複雑な思考を好まないということは、現代に生きる我々の世代の多くの者に共通する特徴なのかもわからない。
 突然、クローズアップされることになった渡邊渚さんは、元フジテレビアナウンサーで、大変なトラブルに巻き込まれ、PTSDを発症して一年余の入院生活を送って回復したとのこと。巨大なメディア企業を相手にして、また、詮索好きなネット住民からの数々の誹謗中傷を浴びながら、それでも発信を続ける勇気には感服しているし、躁鬱病経験者などから彼女の状態に少なからず危惧を抱かれたりしながらも、彼女の毅然とした姿勢には性別を超えて賞嘆せずにはいられない。世の中から疎外されたという意識を持った者が、どのような心理状態となるかと考えたとき、それと対比して、誹謗中傷する者が、ゲーム世代特有の短絡的な思考傾向を持っていると認識したとき、我々人類の将来に怖さを覚えざるを得なくなる。SNSは、自由な言論空間である一方で、詮索好きで無責任に人を貶めようとする人を大量に生み出してしまった。しかし、私は、このトラブルの顛末を強い関心を持ちながら見続けていたいと思っている。それは、私も、世の中に対しての疎外感を一度ならず持った者だからでもある。
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