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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

罪から逃れる道 第2回

2015年03月04日 | 日記

  

   罪から逃れる道 第2回

聖書は、イエス様は、明らかに「もう罪を犯してはならない」と宣言されました。これが私たちのクリスチャン人生における目標であり、追い求めるものであり、希望であり、願いなのです。そして、本当に心から悔い改めて新しく生まれ変わった人は、もう二度と罪を犯したくないという心を持つのです。また永遠の命を心から期待し、イエス様が再び来られることを心から待ち望む人も、罪に対していやになっているのです。もう罪を終わらせたいと切に思っている人たちなのです。

もし私たちが、同じ罪を毎回毎回犯すのであれば、私たちはそのような罪に対してうんざりしますね。ではどうすればそのような問題を解決することが出来るでしょうか、どのようにすれば、私たちの人生で罪を終わらせる、罪を止める、罪から逃れることが出来るでしょうか。そのことについて聖書の御言葉から見てみたいと思います。

第1ペテロ4章の1節から2節を読みましょう。

「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである」(4:1、2)。

こここには驚くべき御言葉が書かれています。私たちは、本当にこのような御言葉をしっかりととらえる必要があります。

このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである」。日本語の聖書では、「罪からのがれたのである」とありますが、韓国語ですと、「罪が終わる」、とそのように書いてあるのですね。肉によって苦しんだ人は、それによって罪が終わるのであると、そのように書いてあります。

皆さん、2節の「肉において苦しんだ人」とは誰のことを言っていますか。ここで肉において苦しんだ人とは、それによって罪が終わった人というのは、ほかでもない、皆さんと私たちなんです。なぜかと言いますと、イエスさまはこの地上におられた時、罪のない人生を送られたので、罪が終わる必要がなかったからです。イエス様はこの地上で、生まれつきの肉の性質において苦しまれました。しかしイエス様は、その肉の苦しみの中で常に勝利し続けていかれたので、罪が終わる必要はありませんでした。ですからここで言う罪が終わるというのは、イエス様ではなく、私たちなのです。

 



罪から逃れる道 第2回

2015年03月04日 | 日記

  

   罪から逃れる道 第2回

聖書は、イエス様は、明らかに「もう罪を犯してはならない」と宣言されました。これが私たちのクリスチャン人生における目標であり、追い求めるものであり、希望であり、願いなのです。そして、本当に心から悔い改めて新しく生まれ変わった人は、もう二度と罪を犯したくないという心を持つのです。また永遠の命を心から期待し、イエス様が再び来られることを心から待ち望む人も、罪に対していやになっているのです。もう罪を終わらせたいと切に思っている人たちなのです。

もし私たちが、同じ罪を毎回毎回犯すのであれば、私たちはそのような罪に対してうんざりしますね。ではどうすればそのような問題を解決することが出来るでしょうか、どのようにすれば、私たちの人生で罪を終わらせる、罪を止める、罪から逃れることが出来るでしょうか。そのことについて聖書の御言葉から見てみたいと思います。

第1ペテロ4章の1節から2節を読みましょう。

「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである」(4:1、2)。

こここには驚くべき御言葉が書かれています。私たちは、本当にこのような御言葉をしっかりととらえる必要があります。

このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである」。日本語の聖書では、「罪からのがれたのである」とありますが、韓国語ですと、「罪が終わる」、とそのように書いてあるのですね。肉によって苦しんだ人は、それによって罪が終わるのであると、そのように書いてあります。

皆さん、2節の「肉において苦しんだ人」とは誰のことを言っていますか。ここで肉において苦しんだ人とは、それによって罪が終わった人というのは、ほかでもない、皆さんと私たちなんです。なぜかと言いますと、イエスさまはこの地上におられた時、罪のない人生を送られたので、罪が終わる必要がなかったからです。イエス様はこの地上で、生まれつきの肉の性質において苦しまれました。しかしイエス様は、その肉の苦しみの中で常に勝利し続けていかれたので、罪が終わる必要はありませんでした。ですからここで言う罪が終わるというのは、イエス様ではなく、私たちなのです。