ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(79) 北緯36°51’

2016年01月30日 | 随筆
 最近の私の制作手順は、次の絵にかかろうとする度に、もう少し増しなものを描きたいと思うがために、あまり詰まっていない自分の頭を揺さぶってみるが、いつもの軽い音しかしない。それでも何日か続けているとコロンと音がするようになる。それっとばかりにクロッキー帳に鉛筆を走らせてみるが描いてみると気に入らなくて手が止まる。また数日が経ってやっぱりこれだと新しいページに鉛筆を走らせる。どうも極端でいけない。テーマに沿った資料などを広げているとまたコロンと音がする。どうにか絵になりそうな感じが強まり構図の検討に入る。6、7枚の構図案を描いた末に1枚の構図に落ち着く。色デッサンは大体頭に浮かんでいるのでそれでよしとして、エスキースはせずに一気にM50号の画用紙に描く。とまあこんな感じだ。
 この作品の場合は、今までとはちょっと違うタッチが浮かんできて、その勢いであらかた全体に着彩した。二日目はその調子守って手が進み、一気に完成した。

 NHKのサポートする「明日へブログ」のブロガー,井上淑恵さんの2015.12.22投稿記事、「北緯36°51’行きたくても…行けない海域」からイメージした作品ができた。画題もブログの題から「北緯36°51’」とした。
 「北緯36°51’」M50
 五浦の崖の向こうは行けない海域。繋がっていない海や空気などないのに立ち入り禁止の線引きをする。それはまだ事故の始末ができていない証。現にこうして事故が起こって解決の道ができていないのに、心配ないと言われるとますます不安が募る。再び大事故が起きたらどうするのかと問うたら、大事故は起きないからその問いに答える必要がないと答えるほかに答えようがない。福島から遠い九州でも、大事故が起きたら想定外だったと言うのだろう。
 交通事故死は戦後70年の積算でざっと50万人を超えると思うが、保険制度や、交通法制で車社会を容認している。放射能の存在を容認する社会など考えられない。

ギャラリーNON(78) 吉里吉里人

2015年03月27日 | 随筆
岩手県大槌町吉里吉里地区からの「明日へブログ」は関谷晴夫さんです。3.11震災でインフラが絶滅して孤島のようになった避難所から被災状況を発信し始めた方で、その活動は今も「明日へブログ」への執筆活動に繋がっています。
 2013年8月の「吉里吉里通信・夏号」の記事には、ヤマセ(海面を移動する濃霧)に包まれた吉里吉里港、海水浴で賑わった吉里吉里海岸、お神輿の練り歩く夏祭り、やがて秋になると見られる海からの日の出、を紹介しながらも、これからの嵩上げ工事や防潮提工事で、昔ながらの眺めや音や色、それに吉里吉里人たちの声がなくなる寂しさを綴っています。復興の槌音の頼もしさの裏に、無くなり様変わりする寂しさが心の底にあるのだろうと読んで感じます。
 この記事の中に、吉里吉里海岸で遊ぶ二人の女の子の写真があります。その子らが2014年7月の「ふるさと吉里吉里通信・梅雨号」にも登場しているように見えます。同じ吉里吉里海岸でのスナップと思われますが、鯨山を背景に、今度は傾いた防潮堤で遊んでいます。筆者は、倒壊した防潮堤は、普段穏やかだけれどもひとたび暴れると人間の抗し難い力を表わすモニュメントだと言っておられます。あのカタカタカタ・・・と横倒しの防潮堤を取り壊す音が消えたらそれを忘れてしまうのではなかろうか。そんな気持ちがスナップ写真から感じ取れます。

 その思いを絵にしてみようと取り掛かりましたが、スナップ写真そのものが絵になっており、その写真をM50号の絵にしてみました。


「吉里吉里人」2015.3制作 M50

ギャラリーNON(77) 再会

2015年01月18日 | 随筆
 新しい年を迎えた。一年と3ヶ月ぶりにNHK明日へブログを開いた。

 名取市の高橋久子さんのブログ「ハマボウフウに再会」では、閖上海岸で3年8ヶ月振りにハマボウフウに再会した感動が記されている。あの津波に耐えて生き残り、私達に無言でエールを送ってくれていると。

 ハマボウフウはセリ科の植物で、海岸の砂地に自生し、深く根を下ろして砂浜を守ってくれるそうだ。高橋さんが閖上海岸を訪れたのは11月、写真で見せて下さっているハマボウフウは、開花を終えて黄ばんで朽ちようとしている。どこか悲しいのは、その砂浜に7mの堤防が築かれていることだ。ハマボウフウは自分の役目を知っていて、健気にもその役目を果たそうとして地下から這い上がって来たのに、7mの防潮堤は冷たく立ちはだかっているようだ。
 私なんぞはど素人だから、防潮堤よりも滑走路を高地に向けて走らせて車や飛行機での素早い避難に使ったらどうかと思うのだが。

 高橋さんは、被災で汚れ傷ついた写真の閲覧会(瓦礫撤去作業中に見つかったものなど)に出掛けておられ、そこで、昔や直近の傷だらけの写真に再会しておられる。

 「再会・ハマボウフウ」M50 2015.3
 高橋さん撮影したハマボウフウの写真を私の中でイメージを膨らませて作品にしてみた。

ギャラリーNON(76) スケッチ展・2014 ドン

2015年01月11日 | 随筆
 今年は個展ができなかった。いい加減な作品で自分に課した毎年個展を維持しても意味がない。12月下旬の珈琲館ドンでの小品展がパネリストになっているので、これだけはなんとか穴を開けまいと10点の作品を展示した。そして、いつも個展には来て下さる方で開場近くの方には案内はがきも出して、復帰して元気でいることだけは伝えたかった。
   
  案内はがきに用いた作品がこの写真。11月下旬に訪ねたあるギャラリーのアプローチの土手に、紅葉が散り始めた錦木があった。小春日和の陽射しに秋の終わりを感じた。

夏のスケッチ。槿(むくげ)の花を見ただけで暑いが、この花は厚苦しくはない。どこか涼しささえ感じる。
   
教室を屋外スケッチにして、熱帯植物館に行った。サボテンは植物の中でも特異な姿をしている。なぜこんな姿をしているのか惹かれる。
   

ギャラリーNON (75) 忙しい日々の再来

2014年12月26日 | 随筆

 2014年の何と短かったことか。そう感じる理由は明白で、初体験の連続だったからだ。次から次へ事態が変わり、取り組んでいるうちに一年が終わってしまったのだ。今年のスタートはこんなふうだった。
 ・1月6日、前月のクリスマスイブを迎える日の午前中、クリニックでの内視鏡検査で胃癌の疑い濃厚との所見が告げられていて、そのときの生検結果が出る日だった。診察室に着席してすぐに、私の顔を正視するわけでもなく、パソコンからちょっと眼を外して、軽く、あっけなく、胃癌と告知された。初体験である。
 ・1月8日、クリニックから病院に移り、病院としてクリニックの診断を追認する検査があり、その際十二指腸にもリンパ腫と見られる病変が見付かった。そのためさらに広範囲の検査が必要となり、その検査は1月14日、15日の両日と決められてその日は帰宅した。帰ってリンパ腫をネット検索してみるが、どうもよく分からない。初体験の眠れない一夜を過ごす。
 ・1月15日、昨日から2日間かけて色々な検査が終わり、消化器内科医からはっきりと胃癌と十二指腸悪性リンパ腫の診断が言い渡された。治療方針については外科医と血液内科医の方で決められるのでその日のうちに二人のDrに会うことになった。外科医からは切除の方針、血液内科医からはR-CHOPと称される化学療法の方針が示された。付け足されてDrから告げられたことは、「セカンド・オピニオン」が必要なら早めに申し出てくれということだった。私は診断された病気について何を質問したらよいか分からないでいるのにセカンド・オピニオンの必要性などにはとても考えが及ばなかった。それよりか、つい先日まで健康でいた筈の私が、急に生死に繋がる病を抱えた人になったことが受け入れられずにいる始末だった。二つの癌の告知という衝撃と「治療をどうしますか」と迫られる事態にまた眠れない夜を過ごした。今度は3日間も。うとうとしているとき以外はパソコンにかじりついていた。こんなことはもちろん初体験である。
 その後の闘病体験を書き綴るのはよすが、こんな調子で次から次へと衝撃と難問が襲い掛かってきた。治療計画に異存がなければ治療スケジュールを決めたいと言うことになって、2月の初めに胃癌、術後が順調であれば4月からリンパ腫の治療に入ることになった。 クラブやカルチャーをどうするか、妻をどうするか、息子たちにはどう対応させるか、この一年放置すると竹薮になってしまう庭をどうするか、切除以外の治療法はどうなのか、R-CHOP以外の治療法ってどんな方法があるのか、5年生存率ってなんだ、治療が長引いたらどうするか、寛解とか完治ってどういうことか、副作用の苦しさはどのくらいか、治療費の準備をしなくては。頭の中は混乱し始める。
 ふと思い出した。研究開発業務に携わっていた現役時代、問題の質こそ違うが次々と問題が発覚して、それを突破しなくてはならない日々があったことを。その頃はたしか「忙しい、忙しい」と連発していたような気がする。仲間には「ここ一番というときに頑張らないでどうする」と、偉そうに言ったものだ。そうだ、私の今のこの事態はその時が再来したのだと思えるようになった。かくして眠れない3日間ですっかり疲れ果てた体に、じんわりと平常心と挑戦心とが生まれてきたようだった。 



  「北九州市立美術館からの眺め」 2014.11スケッチ

 6月下旬、当初の予定通りの治療で寛解に達したことを告げられ、7月から普通の生活に戻った。庭の手入れなど始めるが、刈り込み挟みを30分もカチャカチャやってると腕に力が入らなくなって、すぐ休憩してしまう始末だった。しかし、生きてる実感が湧いてきて嬉しくて嬉しくて眼が潤んだ。