このエピローグがこのブログの最終回ではありません
画廊開設45年の舞台の緞帳をこんなに急に降ろすことになるとは予想していなかった。
2010年12月に入って、迫ってきた年始の小品展や10月に手元に来た後藤愛彦画伯の遺作品展などを企画しているときにその日が来た。
げってんさんが体調を崩して5年半、最初は1週間の電話番くらいに思って筆者が代わりを引き受けたが、生活習慣病で簡単に復帰できないと分かってからは、少しづつ画廊に思い入れが増し、次第に画廊企画までするようになったのだ。しかし、眼鏡店のオーナーでもある画廊主は、眼鏡店の経営を奥様に代行させていたが、その奥様も体調を崩し、取り巻き達が経営を続行させようとしたが時機を逸し、閉店することになった。画廊が眼鏡店に支えられていたから同時に画廊も閉じなくてはならなくなった訳である。
泣く泣く私は閉廊の手紙を書いた。
「マルミツ画廊をご愛顧下さった皆様へ
急遽お知らせいたします。
この度、画廊主の光安鐵男より、隠退したいとの申し出があり、2010年末日を以って閉廊することのなりました。
・・・中略・・・
ご存知の通り、光安鐵男は1965年11月の画廊開設以来今日まで、ボランタリー画廊の理念を貫いてきた稀有な人であり、ゲッテンですがそのカリスマ性から、画廊は美術談義のサロンとなり、そこから無形の価値を創り上げて来た人と言えます。しかし、2005年5月に体調を崩してからは、及ばない私が細々とでも繋ぐことで復帰を待ちましたが叶わず、誠に惜しい気持ちでありますが閉廊止む無しと存じます。
ここに画廊主に成り代わり、半世紀に及ぶ長い間、光安鐵男とその画廊にお付き合いくださったことを深く深く感謝申し上げます。
最期に、皆様の今後益々のご活躍とご多幸を祈りあげます。
2010年12月8日 マルミツ画廊オーナー代行 野末育利 」
この手紙が届いたころから電話やメールが入り始め、
「この手紙でおしまいなのか」
といった惜しむ声が寄せられはじめた。
画廊開設45年の舞台の緞帳をこんなに急に降ろすことになるとは予想していなかった。
2010年12月に入って、迫ってきた年始の小品展や10月に手元に来た後藤愛彦画伯の遺作品展などを企画しているときにその日が来た。
げってんさんが体調を崩して5年半、最初は1週間の電話番くらいに思って筆者が代わりを引き受けたが、生活習慣病で簡単に復帰できないと分かってからは、少しづつ画廊に思い入れが増し、次第に画廊企画までするようになったのだ。しかし、眼鏡店のオーナーでもある画廊主は、眼鏡店の経営を奥様に代行させていたが、その奥様も体調を崩し、取り巻き達が経営を続行させようとしたが時機を逸し、閉店することになった。画廊が眼鏡店に支えられていたから同時に画廊も閉じなくてはならなくなった訳である。
泣く泣く私は閉廊の手紙を書いた。
「マルミツ画廊をご愛顧下さった皆様へ
急遽お知らせいたします。
この度、画廊主の光安鐵男より、隠退したいとの申し出があり、2010年末日を以って閉廊することのなりました。
・・・中略・・・
ご存知の通り、光安鐵男は1965年11月の画廊開設以来今日まで、ボランタリー画廊の理念を貫いてきた稀有な人であり、ゲッテンですがそのカリスマ性から、画廊は美術談義のサロンとなり、そこから無形の価値を創り上げて来た人と言えます。しかし、2005年5月に体調を崩してからは、及ばない私が細々とでも繋ぐことで復帰を待ちましたが叶わず、誠に惜しい気持ちでありますが閉廊止む無しと存じます。
ここに画廊主に成り代わり、半世紀に及ぶ長い間、光安鐵男とその画廊にお付き合いくださったことを深く深く感謝申し上げます。
最期に、皆様の今後益々のご活躍とご多幸を祈りあげます。
2010年12月8日 マルミツ画廊オーナー代行 野末育利 」
この手紙が届いたころから電話やメールが入り始め、
「この手紙でおしまいなのか」
といった惜しむ声が寄せられはじめた。