「桑野郁司さんの絵」を読んで行動を起こして下さった方がいた。桑野さんの絵の手掛りを求めて志徳公民館へ足を運んだのだ。志徳公民館は今は企救丘市民センターとなっているが、センターの方々は亡き父の作品に会いたいといっている娘さんの気持ちを汲み取り、動いてくださった。
数日後、ブログの読者の手から私に一点の小さな愛らしい絵が手渡された。そして、その絵は小倉の喫茶店で娘さんに渡った。想像したよりお若く、想像した通りの働く女性だった。ちょっと控えめに
「私も絵を描くのが好きでした」と。
「この額縁は父が自分で作ったものだと思います。」
と言って、私に感情の全てを晒さないようにしておられたが、目はその絵をしっかりと見つめて、
「父の絵に会うだけでよかったのに、作品を譲って下さってありがとうございます。」
と礼を述べられる声が少し詰まっていた様に聞えた。
知っている限りのお父さんの話をしなければいけなかったのに、私自身が娘さんと同じように絵の好きな子だったから、絆されていつの間にか絵の話をしていた。絵は人と人の間に入って何かを通わせるものらしい。
この一件について有り難い配慮をしてくださった方々に、娘さんのお気持ちも合わせて心からお礼を申し上げます。
数日後、ブログの読者の手から私に一点の小さな愛らしい絵が手渡された。そして、その絵は小倉の喫茶店で娘さんに渡った。想像したよりお若く、想像した通りの働く女性だった。ちょっと控えめに
「私も絵を描くのが好きでした」と。
「この額縁は父が自分で作ったものだと思います。」
と言って、私に感情の全てを晒さないようにしておられたが、目はその絵をしっかりと見つめて、
「父の絵に会うだけでよかったのに、作品を譲って下さってありがとうございます。」
と礼を述べられる声が少し詰まっていた様に聞えた。
知っている限りのお父さんの話をしなければいけなかったのに、私自身が娘さんと同じように絵の好きな子だったから、絆されていつの間にか絵の話をしていた。絵は人と人の間に入って何かを通わせるものらしい。
この一件について有り難い配慮をしてくださった方々に、娘さんのお気持ちも合わせて心からお礼を申し上げます。