夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

都知事選 田母神は「善戦」したが、「ネトウヨ」に象徴される「保守」勢力に未来はあるか?

2014-02-17 14:25:30 | 日記

 都知事選での田母神は61万票獲得し、新聞各紙によれば予想以上の「善戦」だという。特に20代から30代の若年層に支持が多く、その中核となっているのが、いわゆる「ネトウヨ」の勢力でないかというものだ。たしかに、ネットの世界では、田母神支持の意見が数多く見られたのは間違いない。
 まず、言葉の整理をしておきたい。朝日新聞に掲載された評論家の記事では、「ネトウヨ」が「ネット保守」になっていた。また、この新聞社は以前から、「タカ派」的な言動を「保守論壇」というように使い、単に自民党の支持層をも「保守層」と表現している。自民党の支持者全体が、まさか「タカ派」的というわけではないだろうから、「保守」の意味が二重になっているのは、すぐに分かることだ。つまり、「保守」という言葉を使いたいのなら、「タカ派」的な人々を「超保守」とでも表現しなければおかしいが、そんな言葉はないという判断からか、両者を同じ「保守」というくくりに入れている。言葉の意味から正反対であるはずの、「維新の会」まで「保守」と言っている。日本語では、維新とは変革の意味をもっているのではなかったか。安倍首相の「戦後レジームからの脱却」でさえ、「保守」的傾向だとしているしまつだ。「脱却」がなぜ、「保守」なのか? 言葉は常に正確かつ適切でなければならないだろう。
 これは朝日新聞に限ったことではなく、日本のメディアは国内のある思想的潮流に対して、「保守」という言葉を使いたがる。おそらく、過去の「保守」「革新」(死後となっているが)という対語の名残なのだろう。しかし、そもそも「保守」とは何か? 田母神が保守? これには、保守主義者を自認する西部邁は激怒するだろう。「保守」とメディアは使うが、保守[conservative]とは、変化する社会の中で、過去から良きものは守るという意味の言葉であって、たとえば、英国保守党Conservative Partyの理念の基になっているものであって、決して「タカ派」や、「維新」などを意味するものではないはずだ。
 では、適切で分かりやすい言葉は何か? 使われている文脈から考えて、マスメディアの使用する「保守」とは、「右派」全体のことを指しているのである。海外には、「オランド左派政権」とか「キリスト教民主同盟の中道右派」というように、「右」と「左」を使っているのだから、国内においても使って良さそうだが、国内では「左右」を避けているのである。その理由はいくつか考えられるが、ひとつは、日本で「右翼」というと、街宣車で示威行動を行っている人々を指し、「右」全体を表わす言葉ではなかったからだろう。また、「左右を超えた」と主張する政治勢力は多く、どちらとも判断できないものもあるからだろう(「左右のイデオロギーの終焉」を主張している者もいる)。しかしそういう理由はあったとしても、海外の政治勢力には用いているのだから、国内においても使わないのは整合性がない。そもそも、「左右」という概念は欧州から来たのであるから、右翼[right]を街宣車集団にのみ、使うことがおかしいのだ。キリスト教民主同盟や英国保守党が[right]であり、日本の「右翼」では決してない。ではどうすれば良いか? 、ひとつ目の矛盾を解決するのには、「翼」という語をつけなければよいのだ。[right]英語も[droit]仏語もそれだけで、政治的区別を意味できるのであるから、「翼」をつける必要はないのだ。[far(extreme)right][middle-right]を極右、中道左派と訳しているのだから、それにしたがえば良いのだ。「右翼」は極右の中の行動的な人々とすれば、より分かりやすい。「右派」の「派」には党派の意味合いがあり、党派にまで至っていない勢力には、矛盾があるが、そのときは「右」「左」とすれば良い。朝日新聞の例で言えば、自民党支持層は中道右派(middle-right)から極右(far right)までの広がりを持つ層で、田母神は極右と表現すれば良い。また、民主党は、中道左派から極右までの寄せ合い所帯と表現すれば、実態をより適切に表わすことができる。(私は、右と左という空間的隠喩については、ノベルト・ボッビオの「平等の理想についての見解の相違」(「右と左 政治的区分の理由と意味」お茶の水書房)というものさしを援用して使用している。その有用性につても言及しているので、是非一読されたい。極右、極左はその過激主義による)
 では、「ネトウヨ」に象徴される「保守」勢力とはどういう人々か? そこには、ふたつ分けられる人々がいる。それは、「ネトウヨ」のブログなどで見られる、「韓国人(朝鮮人)は出て行け」「靖国に参拝して何が悪い」「こいつらが反日勢力」という言葉が象徴するように、極右排外主義者、歴史修正主義者(英語ではhistorical revisionismであるから歴史見直し主義と訳した方が分かりやすいと思うが)、国家主義者に影響を受けた人々と、インターネットがある前から存在した、上記の三つのイデオローグである。「ネトウヨ」とは、前者が大半で一部に後者も含まれる。
 では、なぜ「ネトウヨ」は増大したのか? それを考えるのには、町の書店がヒントになるだろう。書店に並んでいる政治的書籍のほとんどは右派の立場に立っている。そのほとんどが極右と言っていい。最も目立つ位置に、「反日」の言葉が並んでいる。また、週刊・月刊誌も韓国・中国非難であふれている。なぜかと言えば、当然のように、それらの本が売れるからだ。これは何を物語るのか? それは、ネットの世界だけが特殊なのではない、ということだ。かつて、町の書店には「世界」、「朝日ジャーナル」、「展望」さらには「前衛」を置いている店もあった。それが今では、極右一色といった状況になっている。何が変わったのか? それは、とりもなおさず日本を取り巻く状況とこれらの本を好んで買う人の立場だろう。
 20代30代の世代が置かれている環境は、それよりも上の世代より経済的に厳しい。年をとっても改善する可能性は低い。数10年前なら、左派の主張に耳を傾けたはずだが、、状況は様変わりしている。ソ連は崩壊し、「社会主義」は間違っていたと多くのメディアが報じている。左派など存在しないも同然なのだ。不満はつのるばかりである。そこで、不満解消のひとつとして、誰かを叩くことを思いつく。いじめも、そのひとつだろうが、他人を攻撃することは、かなりの快楽に違いない。そこに、中国、韓国、北朝鮮が格好の攻撃対象となるのは、簡単に思いつく。
 こう書くと、いかにも中国、韓国、北朝鮮が単なる被害者だという誤解が生じるので、重要なことを書かねばならない。攻撃対象となるのには、それなりの理由があるからだ。私見では靖国参拝を批判するのは、きわめて自然なことだと考えているが、それだけではない。北朝鮮は言うに及ばず、特に中国は経済的利権を確保するために、軍事的拡張主義の立場を貫いている。この軍事的拡張主義は、戦争を第一の目的としているものではないが(戦争が、かれらの経済的利益に反することを考えれば分かる)、軍事的プレゼンスによって様々な交渉を有利に進めることができると信じていることは、かれらの行動によって明らかだ。ここで、はっきりとさせなければならないのが、中国の政権党は名前は共産党だが、やっていることは、平等性の観点からは「右」なのであって、中南米等でかつてあった極右の軍事独裁政権とかなりの類似性をもっていることだ。中国資本の利益が中国共産党の利益とイコールで結ばれている。「特色のある社会主義」と言っても、「開発独裁」であり、プロレタリア独裁をもじって表現すれば、プロレタリア(と農民)に対する独裁(この言葉は私のオリジナルではないが)になっているのだ。また、韓国の右派政権は、かれらもまた日本叩きをナショナリズムの高揚をもって、自らの政権支持獲得に利用している。
 (本稿の主旨とは異なるが、軍事的拡張主義の中国とどう向き合うのかは、大きな課題である。それについては、後日述べる)
 そういった状況の中で、排外主義者や歴史修正主義者の言説は、かれらにとって心地よいものだろう。「悪いのはあいつらだ」とこれでもかという具合に書かれているからだ。そういった本が売れるのは当たり前なのだ。昔の西部劇でたびたび目にした、「牛泥棒は殺せ殺せ」、「白人女と通じた黒人野郎は吊るしてしまえ」と叫んでいる民衆と同じことだ。かれらは自分たちを正義と感じている。真相や法律など知ったことではない。自分たちを正義と感じることに喜びを見出しているのであって、そこには理性的な判断は邪魔者である。「それは真実なのか?」などと問うことは、喜びを減少させることになるのである。このような情緒的な存在が、阿部政権を後押しし、田母神を「善戦」させたと想像るのは容易なことだ。
 しかし、かれらが理性的な判断を拒否している重要なことのひとつに、自分たちの立場が世界の中でどういったものなのかを、まったく理解していないことがある。それは、南京大虐殺が真実か否かなどという、矮小化されたものではない。日本がアジア諸国に大量の軍隊を侵攻させたという事実で十分なのだ。今日、欧州の歴史修正主義者の一部(アウシュビッツはなかったという類の)以外では、人種差別主義と同様に、植民地主義は全面的に否定されている現実を理解していない。それは、マスメディアが靖国問題を中国・韓国からの批判としてのみ、報道していることにも原因はあると考えられるが、ドイツ、イタリア、そして日本が他国に対して軍事進攻を行ったという事実、それによって数千万の人間が死んだという事実、この三国がファシズムないしそれに類似する体制であったという事実だけで十分なのだ。中国、韓国がどう言っているかとは関係のない、世界史の中の動かしがたい真実なのだ。それは、アメリカが原爆を落とし、ドレスデンを無差別爆撃したことが批判されるにしても、その批判とは別個のものとして、決して繰り返してはならないと認識されている世界史の一部なのである。その真実をなっかたことにする、あるいは、肯定的に解釈する、そのようなことは、日本を除く世界の主要政党、ジャーナリズム、知識人等の認識とは、かけ離れていると言っていい。
 排外主義者や歴史修正主義者の主張が、第二次大戦後の秩序に対する挑戦であることは、新聞等でも多くの者が述べている。その秩序は、戦勝国の作ったものであろうとなかろうと、日本の極右がどんなにおかしいと叫ぼうと、現に存在しているものである。その秩序を維持している巨大な勢力にアメリカ合衆国政府とアメリカ資本(多国籍資本も含めて)がある。今まで、アメリカ政府は日本の右派の庇護者であった。しかし、それは、反左派として、ソ連・中国の「共産圏」に対抗するという目的があったからである。だが今日、ソ連は崩壊し、中国は最大の貿易相手国、即ち立派な資本主義国家(一党独裁であれなんであれ)なのだ。アメリカ政府にとって、日本に左派政権ができることは好ましくないが、世界秩序に挑戦する極右政権も好ましいものではありえない。軍事的な問題にしても、日本がアメリカの戦争に協力するのは良いことだが、日本がアメリカの意に反して、勝手に戦争を引き起こすこと、東アジアで独自に軍事的緊張を高めることは、アメリカの利益に完全に反することだ。阿部首相の靖国参拝を、アメリカ政府が批判したのは、これらのことの証左である。
 アメリカが日本の右派の庇護者であり続けるのは、「反米」(単に、アメリカ政府に批判的だという意味)左派の敵であり、世界秩序の擁護者の一員であるという条件でのみありうることである。それから、逸脱する極右勢力を決して味方だとは思わないだろう。阿部政権が、このまま極右の主張どおりの政策を続ければ、アメリカ政府からさらなる批判が起こる。アメリカの批判は、アメリカ国内だけでは終わらない。なぜなら、世界の多くの情報の発信元はアメリカにあるからだ。それは政府の機関だけではなく、巨大な民間の通信社、テレビ局といったマスメディアがアメリカには存在するからだ。
 日本でのネットの世界におけるニュースの発信元はどこか? それは、やはりマスメディアなのである。SNSであれなんであれ、元々の情報の源はマスメディアであり、個々の人間ではない。時には誤解され、曲解されるにしても、そこから拡散して行くに過ぎない。
 「ネトウヨ」すなわち、排外主義、歴史修正主義や国家主義に影響された勢力がさらに増大することがあれば、政権もその影響を相互的にを受ける。そうなれば必ず、中国・韓国に限らず、アメリカの批判を浴びることになる。その時が、かれらが、自分自身がなにものであるか知る時だ。世界の中で、自分たちの立場を理解する時がやってくる。自分たちが世界の中で、どう思われているのかを知るときがやってくる。そう、その時になって初めて、かれらは情緒的な存在から、理性的な、合理的な判断力を回復する。同時に、かれらは「ネトウヨ」であることをやめるだろう。

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