30日(日)、BOSOの帰り道「旧井上家住宅」を再訪しました。井上家は我孫子市の東端にあり、江戸時代には利根川舟運の主要な港町として栄えた布佐郊外の「相島新田」にあります。
手賀沼開墾に尽くした豪農・名主で、相島新田は井上家が開いたことで知られています。
1.母屋、2.二番土蔵、3.新土蔵、4.旧漉場、5.表門、6.裏門 計6棟が「市指定文化財」です。
【2018年6月25日に「旧井上家住宅」+「紅屋」(我孫子市)「古民家っていいなぁ」(千葉県内)で紹介済】
母屋(安政5年(1858年)築)。木造平屋建て(約76坪)、江戸末期の典型的な上層農家の格式。建てられた当初は茅葺でしたが、戦後屋根の痛みから現在の鉄板で覆われました。
今回は昨年7月末に保存整備工事(H28~H30)が終わった「二番土蔵」(外観のみ)を中心に、視点を変えて観てきました。
二番土蔵:嘉永4年(1851)築。土蔵造2階建、桟瓦葺。倉五番と書かれた「鍵札」も見つかっているため、この他にも4つ蔵があったと考えられています。
洪水からの被害を避けるために「水塚(みづか)」と呼ばれる盛土の上に築かれています。「二番蔵」の下にある石垣部分が「水塚」
「二番土蔵」の二階部分。両側に蔵の補修作業の際、梯子や縄、丸太などを掛けられるようにするための「折れ釘」(半円球:ツブ)があります。二階の観音開戸が中心から右に寄っているのはなぜだろう?
土蔵の入口。黒漆喰塗りの「戸前」(観音開戸)と腰高の格子蔵戸。防火対策から壁の厚さは30cm以上あるでしょうか?中に入ることはできませんでした。
家紋(井筒に三つ星)。左が「折れ釘」と角材、下見板。
井上家で使われていた二つの家紋が母屋土間の入り口に透かし彫りされています。
こちらの「丸に片喰(かたばみ)」の家紋は塀など至る所にあります。
古色塗りの「下見板(したみいた)」を釣り廻しています。
土蔵の外壁板は写真のように、「角折れ釘」を用いて木製の角材で固定します。 これは、近隣で火災が発生した時に、この角材を叩き落として即座に板壁を外し、延焼を防ぐものです。また、角材で外壁板(下見板)を止めるためのものでもあったとのこと。
屋根は切妻屋根。大棟を「青海波(せいかいは)積み」にしている。 樋も「折れ釘」に支持金物で取り付けてあります。
大棟の「青海波積み」の拡大写真。屋根の上部にある棟部分は漆喰と瓦により、青海波を模しています。
母屋は寄棟造りで、軒は出桁造(せがい造)。桁行12間、梁間6間半で、北東の土間の上部に2階を設けています。「式台玄関」は大正から昭和にかけて増築。
「唐破風(からはふ)」。「懸魚(げぎょ)」は破風板の下に装飾を目的として付けられる彫刻(これは鳳凰?)を施した板のこと。屋根の上にある飾りは「唐破風棟鬼飾り」でしょうか?
「蟇股(蛙股)(かえるまた)」下の蟇股の中央にも家紋の片喰紋があります。
式台玄関の「格天井」。大正12年以降に電気が開通していたと考えられています。
明治15年、松平乗長家(美濃岩村藩元城主)から嫁入りの際に持ってこられた葵の家紋の入った「長持」。彫金を施した金具に漆塗り仕上げで豪華な作り。
母屋の土間入口
母屋の土間から見た内部
式台玄関から見た母屋内部。差し鴨居は間口三間あります。残念な天井の化粧合板?。
土間から見た母屋内の「帳場」
南側のガラス戸。何時のものでしょうか?
石の「手水鉢」と縁側の軒先に吊り下げられている「手水器?」or「吊り手水?」。なぜ同じ機能のものが二つあるのでしょうか?
広縁(切縁)。進行方向に対して横張りが武家造りになっていて、板と板の間には若干の隙間がとられてあり、身分の高い方が歩いた時に滑らないように配慮しているという説もあります。
座敷には上がれないので詳しくは判りません。
左は「平書院?」、中央が「床」(畳部)、右側が「床脇」。天袋・地袋の絵も由緒ありそうです?
「透かし彫り欄間」。なんの模様が彫られているのか暗くてよく判りませんでした。機会があれば上がってじっくりと見させて頂ければと思います。
大正~昭和にかけて増築された北側の「釜屋(炊事場)」。鉄筋コンクリート造として貴重な事例。
母屋と中庭(南側)
中庭
中庭から望む「相島新田」
灯篭の名称は判りませんが、全体的に曲線で柔らかな印象です。(中庭)
中庭の入口付近にはこんなに変わった灯篭も。
母屋の南西角にあった巨大な羽釜。油製造に使われていたようです。
「新土蔵」(昭和5年築(1930年))の全景。平屋(桁行六軒、梁間三間)、桟瓦葺、壁は金網+モルタル壁に白漆喰。樋がないせいか、漆喰壁の汚れが目立ってきています。
「新土蔵」正面。元々は米蔵。腰巻部分は「人造石研ぎ出し仕上」。
「新土蔵」。家紋(上:丸に片喰、下:井筒に三つ星)が入った鬼瓦。
「新土蔵」の内壁
敷地の北端の「旧漉場(こしば)」(大正8年築(1919年))。昭和2年の家屋届は「倉庫」。油漉場だった可能性は低く、造りも「せがい造」で作業場としては立派で仕事場や宿舎の可能性もあるとか。
外塀は瓦載せ塀(下見板張り、一部漆喰仕上げ)、大正時代後期
「旧漉場」。「出し桁造(せがい造)」で軒が深い。
「旧漉場」の妻側の「入母屋破風」。破風板の下が「懸魚」、中央が花形(六葉?)の彫刻。
「表門(27年度修復済)」 江戸末期(嘉永4年(1851)の本格的な「薬医門」。木造切妻造桟瓦葺。
内側から見た「表門」。こちらも棟(むね)が「青海波積み」。右側の「羽釜」も漉場で使用されていたもの。金魚が泳いでいました。
「表門」の「反り破風」と破風板の合わせの下に 着く飾り「蕪懸魚(かぶらげぎょ)」
母屋の北側にある「裏門(27年度修復済)」(大正11年築)。「表門」よりやや小振りですが本格的な「薬医門」。
内側から見た「裏門」。かつては公家や武家の正門として使われていたそうです。
表門とは異なり、紐漆喰や目地漆喰は施されていないため、白地が少なく全体的に落ち着いた印象。
「裏門」の両開き戸。「八双金物」で固定されています。丸いものは「釘隠し」で「乳金物」(別名:饅頭金物、乳鋲)と呼ばれています。
駐車場からの入口。左から「母屋」、庭門の両脇に延びる「屋根塀」、「旧漉場」(正面奥)、「井戸」(右手前)
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