【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」②
修理に出していたパソコンが1週間ぶりにやっと戻ってきた。機械音痴の私なのに、パソコンに向き合ってから、やがて20年にもなろうか。ちょっと当時を振り返ってみよう。ある日、欧米の主婦たちが小型のコンピュータを駆使しながら日々を楽しく暮らしているという新聞記事を読んだ。
アメリカに住んでいる娘に聞くと、姑にあたるナンシーさんも似たようなことをしていて、舅のダンさんに至っては次々と新しいコンピュータを買い替えているとか。ちなみに孫たちも小学生になると、学校の知らせや宿題も自分たち専用のコンピュータ、つまりパソコンを器用に使いこなしているらしい。その頃の日本では、一家に1台あるかないかの時代である。
好奇心旺盛な私だ。「パソコンって奴」が大いなる関心事となった。アメリカに住む娘とは料金が気になって、度々電話を掛けることもはばかれたものである。ところが、パソコンを使ったメールは違う。どんな遠くにいる人とでも、ほとんど料金を気にすることなく、相手と自由にやり取りができ、お互いの近況などを気軽に知ることができるではないか。
そんな思いが契機となって、私もパソコンを手にすることにした。一大決心である。だが、その後が「聞くや涙の物語」である。まずは家電店のパソコン売り場で不愉快な目に遭う。(ふんっ、こんなおばさんに何が分かるの?)といった店員の冷ややかな応対だ。
さて、やっとデスク型のパソコンを購入したはいいが、初期設定がうまくいかない。そこでメーカーに何度も電話をするが、これがなかなかつながらないのだ。仕方なしに分厚い取扱説明書と格闘する。腹が立つことに、なかなか理解できない。そこで夫や息子に相談するが、揃いも揃って役立たず。悲しいかな、彼らはパソコンにまるで興味を示さないのである。情けないったらありゃしない。
泣きたいようなことばかりを繰り返す日々であった。が、パソコンは高価な買い物なので、「やーめた」と投げ出すわけにもいかない。そこでパソコン教室に通うが、自分が使っているパソコンと同じ機種でないとあまり理解できなかった。当然、イライラがつのる。それでも何とかパソコン・ライフを楽しんできたのも確か。娘家族との写真を添付してメールをやり取りしたり、スカイプがテレビ電話のようだと人にもすすめたりもした。
しかし、日進月歩のこの世界である。あの重いデスクトップから持ち運び便利なノート・パソコンに買い替えたのもつかの間、何度となく新しい機種にせざるを得なかった。家電製品の対応寿命は短いが、パソコンはその比ではない。今回、修理に出していたパソコンは、まだ今年の1月に買い替えたばかりだった。
パソコンが新しくなる一方、使う私は「旧式」のまま。新しいことがなかなか覚えられない。使い勝手が良くなった筈のパソコンを上手に使いこなせなくなった。今までと違うことに戸惑ってばかりである。そうした自分を十分に承知しているので、パソコンを買った時点で、家電店とサポート契約をした。お店はすぐ近くなので、困ったことがあれば、すぐにパソコン持参で飛んでいける。
今回サポートを頼んだ理由は、こうだ。電源を入れても立ち上がりが非常に遅い。またニュースを読んだりしていると、いつの間にかフリーズしてしまう。そんなときは強制的にシャットダウンするしかない。要するに、使い勝手がすっかり悪くなってしまった。修理に出して、不具合の原因が分かった。私がキーボードを間違って操作をしていたからだ。言い訳になるが、今までとは違ったソフト画面への私のミスである。ともあれ原因が分かってよかった。
ところで、私は仕事をしているわけでもない。日常生活にパソコンが必需品なのかというと、答えは「ノー」である。でも、手元にパソコンがないのは淋しいものだ。まず私の日常はメール点検から始まる。ほとんどが広告だったりするが、夫のゴルフ日程の案内が添付されたものが来ていると、早速印刷して夫に渡す。グループ・メールにしている同級生からのメールを読んでは返事を出す。また私の所属している趣味の会への連絡事項を発信し、その返事を見る。ま、その程度だ。
あんなに望んだパソコンでの娘や孫たちとのメールのやり取りも、今ではすっかり影を潜めた。もっぱらスマホを使っての無料の通話やビデオ会話にとって代わってしまった。これまではパソコンでニュースを読んだり、YouTubeなどの動画を楽しんでいたが、それもスマホでこと足りるようになった。
ただ、スマホだと早打ちができないので、メールなど文章を書くのには断然パソコンが有利だ。たまに手紙を書くとなると漢字が怪しくて、なかなか書けない。その点パソコンだと、どんどん怪しい字も難なく表示してくれるので有難い。やはり、まだしばらくは「パソコンって奴」との生活は続きそうである。