白井健康元気村

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【新連載】私の台湾物語① 台湾でビジネスを手伝う

2021-08-17 11:48:00 | 【連載】私の台湾物語

《新連載(短期集中/毎週火曜日)

私の台湾物語①

台湾でビジネスを手伝う

 

下高原 洋(漁業コンサルタント)


【下高原洋(しもたかはら ひろし)さんのプロフィール】
 昭和28(1953)年、横浜市生まれ。日本大学付属の中・高校から日本大学入学。大学では、あの強豪のアメフト部(日大フェニックス)に所属した。25歳のとき、川崎市北部中央市場の開場に伴って独立する友人と水産仲卸を起業する。事業所を6市場に拡大して役員に就任、量販店(スーパーマーケツト)、飲食店(寿司・中華・喫茶甘味処等)を手掛けた。また出向でヒラメ養殖場、公園墓地販売、観光歴史館、ホテル・旅館の再生事業に携わる。鮪一船買い(獲れた鮪を全部買う)の会社代表に就任。その後、給食会社や銀行寮の食堂長などを経て、日本遠洋鰹鮪漁業協同組合連合会に就職した。鮪船向けの餌料買い付けと販売、船員派遣などの業務に就いた後、南アフリカのケープタウンに8年間単身赴任するが、同連合会の解散で退職する。退職後は全国漁業協同組合連合会に就職して業界NPOに出向し、水産庁の助成事業と東日本大震災の復興支援事業に従事し、令和元(2019)年に退職。同年、南アフリカのケープタウンに短期移住を決行したが、新型コロナの蔓延により半年で帰国、現在に至る。白井市南山在住。

 

連載のきっかけは「ダーツの会」で
 
 私が毎週参加している「ダーツの会」での出来事から入ろう。
 この会はダーツを楽しみながら飲食を共にするので、酒好きには格好の場である。話題も豊富で、退屈することはない。
 ところが、ある日のことだ。私が思わず声を荒げてしまう場面があった。中国の香港・台湾・東南アジアに対する行為が話題に上ったときである。ある参加者がこんな意見を言った。
「世界が中国に対し説教とか指導をして、その誤りに気付かせなければならないな」
 ごく当たり前の意見だが、なぜか私は激しく反論してしまったのである。断っておくが、反論といっても、その意見を間違いと否定したのではない。あまりにも優等生的な意見であることに、言いようのない不愉快さを感じただけである。
 というのは、日本も含めた多くの国が中国を批判するけど、口だけである。ほとんど何も行動しないのが実情だ。香港や台湾だけでなく、他国のことを報道する日本のマスメディア情報だけを基に評論するのも、無関心と同じではないか。そのことに私は苛立ち、また怒りさえ感じていたのである。
 しかし、楽しいはずの趣味の集まりで激昂してしまったことを深く反省した。後日、会のメンバー宛にお詫びのメールを出すことに。そのメールで「反論」の背景を伝えることにした。私の30年に及ぶ台湾人との関わりや思いである。
 それを読んだメンバーの一人が本ブログの編集人で、フリーライターの山本徳造さんである。「台湾に関する経験やエピソードをブログに書いてみたら」と勧められたのだが、何しろプロの物書きではないので最初は断った。
 しかし、ここ数年の台湾をめぐる動きが気になって仕方がない。強硬な態度をより一層強める中国が台湾に対して、どんな行動に出るのか。私が愛して止まない台湾の将来を危惧するのは当然だろう。
 台湾の過去、現在、そして将来について何か書いてみてもいいかもしれない。自分の気持ちを整理にもなるかも。そんな気持ちになった。そんなわけでパソコンのキーボードを叩き始めた。つたない文章を書き連ねることになるが、しばらく我慢してお付き合い願いたい。

臭豆腐はお好きですか?

 台湾人の食生活だが、自宅で調理して食べることは少ない。多くの人達が沢山ある屋台やレストランを利用することが多く、朝食も仕事前に人気の屋台やレストランで済ます。私も親しい台湾人によく連れて行ってもらったものだ。
 旅行や接待で食べる台湾グルメだけでなく、台湾の人達が毎日食べる料理だが、50年間も日本が統治したためか、私にもほとんど違和感がない。私の口に良く合うのだ。
 そんな台湾では、日本食が大人気である。合弁の日系百貨店のレストランやフードコートはもちろん、街中のあちで「大戸屋」「吉野家」「すがきやラーメン」「とんかつ二葉」といったお馴染みの店に出会う。もちろん、回転寿司もある。
 本当は台湾の伝統料理が食べたい。とはいうものの、薬膳やゲテモノ料理(蛇・ネズミ・ヤギ・昆虫等)は無理である。ゲテモノではないけど、臭豆腐も苦手だ。

 発酵させた液に漬けてつくる臭豆腐は、もともと湖南省の郷土料理だったが、大戦後は大陸からやって来た外省人によって広まった。今では台湾のソウルフードともいうべき庶民料理である。
 立ち並ぶ屋台からは、どこからともなくその臭いが漂う。屋台もそうだが、台湾の街には、臭豆腐の店が必ず1軒はある。その臭いは一帯を包み、田舎の臭いと化す。私にはその臭いがどうしても受け入れられない。食べろと勧められても、いつも断る私に、黄志明(仮名)さんが不思議がった。
「こんなに美味しいのに、あんた、何故食べない?」
「臭いが……うっ、もう無理です」
 鼻を抑えながら辟易する私である。それ以来、黄さんは私に臭豆腐を勧めようとはしなかった。私は思った。このままでは引き下がれない。臭豆腐に対抗する臭い日本の食べ物はないだろうか。黄さんにしては、まさか私が臭豆腐への対抗心を燃やしていたとは知る由もなかったことだろう。
 それから数週間後のことである。日本から台湾にとんぼ返りした私は、日本土産を黄さんに持って行った。数日後、黄さんに会ったので、嬉々として私は尋ねた。
「黄さん、美味しかったでしょ?」
「あれは何だ?」と、黄さんは苦虫を噛みつぶしたような表情に。「あんな臭いもの、食べられないよ!」
 私が持っていった日本土産とは、臭いので定評のあるクサヤの干物だった。黄さんに一矢報いたというわけだ。この話は、日本の友人と飲むときの台湾ネタ話になっている。
 さて、臭豆腐を「食べろ、食べろ」と勧めた黄志明さんの話から入ろう。『私の台湾物語』で欠かすことできない人物だからだ。
 
仕事で初めて台湾へ

 私が初めて台湾を訪れたのは、今から30年ほど前のことだった。水産仲卸の顧客接待で訪れた頃は、台湾の歴史も知らず、興味という興味もない。

 ただ日本人の私にも合う旨い台湾料理、為替による優位性で得られる快適な出張旅行を満喫していただけだった。

 しかしその後、出張で訪れた台湾第2の都市、高雄で水産会社を営む台湾人との出会いで、私の台湾観が根底から覆されることになる。
 私は当時、日本鰹鮪遠洋漁業協同組合連合会(略して「日カツ連」)に勤務していた。ちなみに、日カツ連とはどういう組織か、説明しておこう。
 遠洋マグロや遠洋鰹漁業に携わる漁船の船主組合がある。日カツ連は、それらの組合をまとめる中央組織で、国内外の鰹鮪船に関わる多岐にわたる業務を行っていた。その日カツ連の仕事で、私は台湾には毎年1~2カ月間は訪れていただろうか。
 当時、鮪の餌にしたのが、台湾の大型イカ釣り船が獲ったアルゼンチン松イカである。それを日カツ連がニチロ漁業や日商岩井を通じて1万トン以上購入して外国の補給基地に保管し、補給のために台湾に入港する日本の鮪漁船に供給していた。
 例えば、鮪漁船1隻あたりの購入額は年間で千数百万円である。その他にも、船1隻には年間1億円以上の経費維持費(燃料・修繕管理費。人件費等除く)もかかっていた。

 当時の日本の遠洋鮪漁船は約600隻以上だったので、ビジネスとしてはかなり大きいほうである。
 そのため、間に商社が入って、台湾のイカ漁船船主組合から購入していた。さて、購入するには、「検品確認」が欠かせない。コンテナや運搬船、冷凍倉庫に貯蔵されているイカの品質やサイズなどを見極めて購入するのだ。それが私に任された仕事だった。
 ある日のことである。台湾イカ組合の副組合長をしているKさんから「シャァコウエン」と呼び止められた。シャァコウエンとは、下高原の台湾語読みである。
「頼みがあるんだ。私の友人からもイカを購入してくれないか?」
 何しろ、いつもお世話になっているKさんの頼みである。躊躇なく快諾したのは言うまでもない。そのKさんの友人というのが、後日、私の台湾観を大きく変えることになる黄志明さんである。

黄志明さんとの出会い

 その黄さんと初めて会ったのは、高雄市内のレストランだった。
 黄さんは日本統治時代に育ち、日本の教育を受けていたので日本語も流暢である。最初から不思議だったのは、「この人との付き合いは長くなるかも」と瞬時に思ったことだ。もう何十年も前からの知り合いであるかのように錯覚したほどである。
 そんな私の直感が当たった。家族のように接してくれるようになるまで、時間はかからなかったからである。この黄さんと知り合わなかったら、私が台湾にのめり込むこともなかったに違いない。
 さて、黄さんの頼み事とは何だったのか―。
 黄さんの次男は、台湾の鮪漁船会社に勤務しており、夫婦でパナマに駐在していた。その次男が近々台湾に戻って来ることになったので、自分の会社を継がせることにしたらしい。しかし、いかんせん、黄さんの会社は零細である。
 次男夫婦の生活を何とかしたいと思って、親友のKさんに相談したところ、「だったらイカの商売をやってみたら」と勧められた。しかし、イカを扱ったことがない黄さんは不安だった。そんなわけで、Kさんが私を紹介したというわけである。
 この黄さんとは何かと話が合い、瞬く間に懇意になった。私が台湾にのめり込むきっかけとなった人物である。
 黄さんの次男、グレッグ(仮名)は、日本と台湾という国の違いこそあれ、私とよく似た仕事をしていた。だから、鮪船の餌に最適なイカを買って、日カツ連に供給することは容易だった。それだけではない。
 夫人のエイミー(仮名)は、デンマークの大手海運会社に勤務したことがあり、貿易書類の作成経験が豊富にあったので、輸出入の書類作成を任せると完璧な仕事ぶりである。とは言っても、なにしろスタートしたばかりの小規模な会社だったから、何かと苦しい状況が続く。
 私は、購入数量を調整するなど前金で応援し、日本人相手のビジネス・スタイルを教えた。さらに黄さんが経営するカラスミ加工工場も高級品生産に特化させ、国産ボラだけを扱って操業期間と生産量を減らすこともアドバイスしたものである。
 黄さん夫妻も、自分たちの会社を可能な限り僅かな人数で運営することにし、若い社員をイカ事業の積み込み要員に配置転換するなど、次男の仕事を全面的にサポートした。親心に国境はない。
 新たに立ち上げる新会社の営業方針も決定される。イカは価格競争をせず、品質管理を徹底し、クレームへの完全対応、インコータムズ(貿易条件の国際規約)などの厳守による遅延の撲滅を目標に掲げたのだ。

 ちなみに、鮪船を操業した場合、どれだけの漁獲高があるのか。一回で1日数十万円から場合によっては数百万円の水揚げ額が見込まれる。また、3カ月毎の補給入港経費もかかる。燃料費、人件費などの経費も馬鹿にならない。

 鮪船の補給時に餌の遅延などの問題が発生すると、出港が延びて宿泊費の増加、操業日数の減少など莫大な損出を被ってしまう。

 日カツ連にはクレームが寄せられ、補償問題に発展する場合もある。だから、品質はもちろん、貿易書類のミスによる遅延の撲滅と真摯なクレーム対応を目指すことを進言した。

「台湾万葉集」にも入選した黄さん

 経営方針を決めるに際して、私も黄さんからいろいろ相談された。ちなみに、黄さんと私のやりとりは、すべて日本語である。その頃の黄さんは、「私の思考は今でも日本語」と言うくらい、日本語ばかりを話していた。台湾語はともかく、「北京語は忘れて出てこないよ」と笑っていたほどだから、私の日本語を100パーセント理解していたと言ってもよい。

 こんなことも言っていた。
「人は歳をとると、嫌々話す言葉は忘れるものだ」
 つまり、戦後に進駐した国民党の政府が強要した「普通語」と呼ぶ北京語を話すのが嫌いということだ。
 その後、グレッグのビジネスもどうにか軌道に乗る。日カツ連が中国大陸やベトナム、インドネシアとの間でも取引を行うようになった。いつの間にか、グレッグは私のコーディネーター兼エージェントバイヤーとして助けてくれる存在になる。
 ところで、黄さんは生まれてから成人を過ぎるまでの20年以上も日本統治時代を過ごす。日本の高等教育を受けたので、台湾の新聞に俳句や短歌を投稿し、何度も入選した。俳句や短歌に至っては『台湾万葉集』にも載るほどの実力である。
 先の大戦中は日本軍に従軍もした。戦局が悪化した頃には、南方戦線からシンガポールに送られる。いよいよ日本の敗戦が濃厚になってきたので、黄さんたち台湾出身者を台湾に戻す命令が下った。驚くことに、台湾に戻るまでの間、日本軍は黄さんら台湾人に戦後に備えた職業訓練を施したというではないか。黄さんが話を続ける
「薬品化学(香料)やカラスミの加工技術、それに溶接や機械整備など、いろいろ教えてもらった。軍費もほとんどなくなっているに、何とか鶏を入手して養鶏と鶏卵生産などの技術訓練もしてくれたので助かったよ」
 こうして黄さんたちを乗せた船が台湾の基隆(キールン)の港に接岸する。母国に上陸するとき、ちょうど台湾は旱魃に見舞われていた。
「日本人は優しく親切だった。台湾では食料が逼迫しているからと言って、船倉に残った米を2足の軍足に一杯詰めて持たせてくれたんだ」
 この話を黄さんから聞いたとき、私の中にあった疑問と贖罪の意識が変わっていくことを感じた。
(日本は「侵略戦争」でアジアの国々に極悪非道な行いをした。その罪は未来永劫許されることはない)
 と学校でも聞かされ、それを受け入れてきた私だった。
 しかし、心の片隅に「祖父、父、叔父たちが、本当にそのようなことをしたのだろうか?」という疑問もあった。あの優しい祖父、父、叔父たちを、そのような人間だとは思えなかったからである。

 一体、日本人は台湾で、そして台湾人にどんなことをしてきたのか。そんな疑問から「私の台湾物語」が始まった。(つづく)


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