台湾の彭明敏氏が逝去
親交のあった野口一さんが本ブログに追悼文
台湾独立と民主化運動を長年にわたって主導し、陳水扁政権で総統府顧問を務めた彭明敏氏が4月8日、98歳で旅立たれました。一昨年死去した李登輝元総統と同い年。二人は1996年に初の総統直接選挙を争ったので、不仲説も流れていました。しかし、実際はどうだったのか。長年親交のあった大阪日台交流協会の野口一会長が本ブログに寄せた追悼文でそのことにも触れています。
彭明敏先生を偲んで
野口一(大阪日台交流協会会長)
歴史上、好敵手は多数います。宮本武蔵と佐々木小次郎。もっと古くは西行法師と平清盛でしょう。西行法師は、一心に仏教を学びました。一方、同い年で、しかも同じ僧侶だった平清盛は、ひたすら権力を求めたと言われています。
さて、台湾での好敵手はというと、誰と誰なのでしょうか。台湾と関わり始めて間もない頃の私には、彭明敏先生と李登輝元総統しか思い浮かびませんでした。
私利私欲がなく、清貧に甘んじながら台湾のために尽くしたのが、彭明敏先生でした。蒋経国が中華民国総統だった頃、次期総統の最有力候補と言われていたのですが、暗殺される危険を感じて国外に脱出、アメリカでの亡命生活を送りました。
アメリカでの彭先生は1979年、在米台湾人の蔡同栄らとエドワード・ケネディ上院議員らに働きかけて「台湾関係法」をつくらせています。カーター政権のときでした。
彭先生のライバルとも言われてきたのが、1988年に蒋経国の後を継いた李登輝総統です。この台湾関係法が施行されたことで、それまで台湾とアメリカとの間で結ばれた条約や外交上の協定を維持することが可能になったのです。台湾関係法を担保に、李総統は台湾の民主化を実現することができたのではないでしょうか。じつに鮮やかな体制内改革でした。
前置きが長くなりましたが、私と彭先生の関係にも触れておきたいと思います。20年ほど前、大阪日台交流協会の定例講演会に彭先生を講師としてお招きしました。日本で初めて「日台」を冠した会名にしたことを高く評価して頂いたことを今でも鮮明に憶えています。
それ以来、彭先生には大変懇意にしていただきました。新型コロナ騒ぎが起きる前まで毎年のように台湾に出かけていた私です。多いときは年に数回は台湾を訪れたでしょうか。
その度に彭先生にお目にかかりましたが、威厳があるのに、私には優しく接してくれました。自分の父や祖父よりも話しやすかったような気がします。こんな言い方をしたら失礼かもしれませんが、私にとっては「いいお爺ちゃん」でした。ですから、不躾な質問もできたのかもしれません。
あるとき、私の胸の中でくすぶり続けていた疑問を彭先生にぶつけました。不仲説が流れていた李登輝総統との関係です。彭先生はにこやかな笑みを浮かべてこう言いました。
「君ねえ、彼の中には『中華民国の李登輝』と『台湾の李登輝』が存在してたんだよ」
つまり、個人的には仲が良いというわけです。この一言で私のモヤモヤが吹っ切れました。二人の偉人は、李登輝総統が亡くなる直前まで、しばしば電話で話し合っていたそうです。天国で彭明敏と李登輝の二人は台湾の未来を語っていることでしょう。
余談ですが、先生は健啖家です。よく食べる人でした。中でもリンゴと奈良漬けが大好物。だから、毎年のように先生におおくりしました。とくに奈良漬けは、「お粥と一緒に食べると美味しい」と大変喜んでいただきました。
ところで、今年の8月15日は某先生の99歳の誕生日なので、8月9日に「白寿を祝う会」を開催することになっていたのです。新型コロナ下なので、先生の御自宅と大阪の会場をオンラインで結んでお祝いをしようと思っていた矢先に訃報が飛び込んできました。
そんなわけで、当日は「彭先生を偲ぶ会」にすることにして、今準備に取り掛かっているところです。いずれにしても、コロナ禍が収まり次第、台湾にお伺いして手を合わせたいと熱望しています。彭先生、有難うございました。
▲彭氏の自宅で話を聞く野口さん(左)
▲野口さんには優しくて、「いいお爺ちゃん」だった
▲昨年夏に送られてきた彭氏から野口さんへの礼状。リンゴと奈良漬けが大好物だった彭氏に、野口さんは毎年欠かさずおくっていたという。
【彭明敏氏のプロフィール】
1923年8月15日、客家の家系に生まれた。建成小学校、高雄中学、関西学院中学部、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学。東京帝大在学中、徴兵されて船で長崎に向かう途中、米軍機の爆撃を受け左腕を失う。長崎で療養中、今度は原爆投下に遭遇する。日本の敗戦から3年後、台湾に戻って台湾大学へ。卒業後、カナダ・マギル大学(カナダ)を経て、パリ大学に留学した。パリ大学で法学博士号を取得。台湾大学教授だった1964年に発表した「台湾自救運動宣言」が国民党政権の逆鱗に触れ、8年の実刑判決を受ける。1970年に幽閉中の台湾を日本人の協力者、宗像隆幸さんの手引きで国外に脱出し、アメリカでの亡命生活を余儀なくされる。李登輝政権誕生後の1992年、22年ぶりに帰国。4年後の96年、台湾初の総統直接選挙に立候補するが、現職の李登輝に敗れた。2000年の総統選挙で民進党候補の陳水扁が勝利し、2期8年にわたった陳政権で総統府資政(上級顧問)を務めた。
彭明敏伝出版に野口さんも関わった
毎日新聞台北支局長だった近藤伸二氏(ジャーナリスト、関西学院大学非常勤講師)を彭明敏氏に紹介したのが野口さんでした。近藤さんは何度もインタビューし、貴重な証言を引き出します。そのインタビューに毎回付き添ったのが野口さんでした。近藤さんは民主化運動のシンボルと言われた彭明敏の波瀾万丈の人生を一冊の本『彭明敏 蒋介石と闘った台湾人』(白水社)にまとめ、昨年5月に出版しています。
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●《注目の新刊》彭明敏 蔣介石と闘った台湾人
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4月24日には宗像さんの「偲ぶ会」が
台湾独立運動を語るとき、宗像隆幸さんに触れないわけにはいかないでしょう。鹿児島生まれの宗像さんは明治大学を卒業後、25歳のときに台湾青年社に入会、同会の機関誌『台湾青年』の編集長を2002年に停刊になるまで担当しました。1970年に台北市内に幽閉されていた彭明敏を、まるでスパイ映画のように別人に変装させて国外に逃がせたのです。この功績から「台湾の恩人」と呼ぶ台湾人は少なくありません。その後も台湾独立運動に関わっていた宗像さんでしたが、一昨年7月9日に84歳で他界しました。その宗像さんを偲ぶ会が4月24日に都内で行われる予定です。