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【特集/台湾二二八事件②】 二二八事件の陳儀を「愛国の英雄」にした北京

2022-02-27 16:01:38 | 特集/台湾二二八事件

【特集/台湾二二八事件②】

二二八事件の陳儀を「愛国の英雄」にした北京

中国共産党のスパイだったのか

山本徳造(本ブログ編集人)

▲陳儀

 

 毎年2月28日がやってくると、必ずあの二二八事件を思い出してしまう。1947年に台湾全土を粛清と虐殺の嵐が吹き荒れた事件である。
 その犠牲者の数は定かでないが、1992年に台湾政府が公表した推計によると、1万8000人から二万人が犠牲になったという。この大虐殺を指揮したのが、初代台湾省行政長官兼台湾省警備総司令の陳儀である。
 台湾人から蛇蝎のように嫌われていた陳儀であるが、事件の3年後に亡くなっていた。なんと「共産党のスパイ」として国民党によって銃殺されていたのである。

 陳儀はどんな人物だったのか。
 1883年5月に浙江省紹興市で生まれた陳儀は、19歳になった1902年に日本に渡り、陸軍士官学校の予備校とも言うべき東京鎮武学校(東京・新宿)の第五砲兵科に入学した。同校の卒業生には、陳儀よりも数年遅れて入学した蒋介石をはじめ、陳独秀、閻錫山、張群、何応欽など中国近代史に名を遺す錚々たる軍人・政治家を輩出している。

 陳儀は日本の陸軍大学でも学ぶ。同じ紹興市出身の妻、沈蕙を同伴しての留学だった。帰国してからも軍人・政治家としてもキャリアを積み重ねてきた国民政府のエリートが、なぜ銃殺されたのか。数々の謎が浮かび上がる。
 台湾民衆の反乱を圧倒的な武力で鎮圧した陳儀であるが、3月22日の国民党三中全会で職務を解任された。二二八事件の責任を問われたのだ。

 それから2カ月も経たないうちに陳儀は大陸に戻り、国民政府顧問に就任する。大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が激しい火花を散らしていた。戦況はどうだったのか。
 誰が見ても、国民党不利の様相を呈していた。国民政府顧問で、軍事のエキスパートである陳儀も蒋介石に進言としたと言われている。もはや大陸を維持できないことを検討すべきだ、と。
 翌年6月、蒋介石は陳儀を再び浙江省政府主席に任命する。この年の11月、拘束されていた百人以上の共産党員が、なぜか浙江省の警備責任者によって釈放された。はたして陳儀が命じたのだろうか。

 1949年1月、状況がますます悪化する。陳儀は「もはやこれまで」と悟ったのだろう、共産党への投降を決意する。一人では心細かったのか、陳儀は親しい関係にあった京滬杭(北京・上海・杭州)警備総司令の湯恩伯を誘う。共産党への投降計画を話したのだ。これが運の尽きだった。信用していた湯が裏切って蒋介石に密告したのである。

 間もなくして、陳儀は浙江省政府主席を解任され、自宅軟禁に置かれた。台湾の基隆に護送されたのは、毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利する直前のことである。1949年10月1日、毛沢東が北京の天安門で中華人民共和国の樹立を高らかに宣言した。

 約半年後の1950年4月、基隆から台北・萬華の憲兵第四団看守所に移送されていた陳儀が軍法会議に引きずり出され、審判を受ける。翌月の5月19日、判決が言い渡された。スパイ罪で銃殺刑。この判決は蒋介石直々の指示だったと言われている。

 1カ月後の6月18日午前5時、陳儀は台北市の馬場町の処刑場に立っていた。軍の裁判官から「何か言い残すことはないか」と聞かれた陳は落ち着いてこう言った。
「私は死ぬが、精神は死なない。私が流す血は、北京、上海、杭州の1800万人の同胞のためのものだ」
「家族に残す言葉はあるか?」
「ない」と即答し、死刑執行人に希望を伝えた。「頭部を狙ってもらいたい」
 その直後に銃声が鳴り響く。
 処刑人は蒋介石から「顔を傷つけるな!」と命じられていたので、頭部は狙わなかった。そのため、陳儀はしばらく息をしていたのである。処刑人は別の銃に持ち替えて、もう一度引き金を。陳儀は絶命する。こうして67年の生涯を陳儀は終えた。
 用心深い蒋介石は、処刑されたのが本当に陳儀だったのかどうか確かめるために、国民党べったりの中央通信社記者に、葬儀場で死体の写真を撮るように命じている。陳義の死後、彼の五番目の弟、陳公梁が遺体を火葬のために集め、灰は台北の武宮郷に埋葬された。

 さて、陳儀の私生活はどうだったのか。陳儀の妻は、同じ紹興市出身の沈蕙である。日本の陸軍大学に留学したときも沈蕙を同伴していた。処刑直前の陳儀がエリート軍人らしい潔さを見せたのは、陸軍大学に学んだ誇りがそうさせたのだろうか。

 ところで、あまり知られていないが、陳儀には日本人の「妻」もいたという。有力者になると、複数の「妻」を持っていても、中国社会では不思議ではない。彼女の名は古月好子(善子という説も)。陸軍士官学校時代の教官の娘なのだそうだ。

 その後、好子は陳義と共に中国に渡り、中国名「陳月芳」に改名する。1949年に陳儀が処刑されたので、中国にいた彼女はたちまち生活苦に陥った。20年以上も陳儀と連れ添ったが、二人の間に子供はいない。そんな日本人妻の境遇を見かねた人物がいた。周恩来である。
 周は上海市政府に命じ、志安方にあった陳義邸を処分し、そのお金を旅費として未亡人に手渡したという。こうして彼女は日本に帰国できたというが、その後の消息は不明のままである。

 中国共産党中央統一戦線工作部は1980年6月9日、陳儀について次のような結論に達した。

「陳儀は国民党の京滬杭警備司令官である湯恩伯の命令を受け入れることなく、我党の指示に従って100人以上の愛国者を釈放した」

 こうして、陳儀は「中国人民解放に命を捧げた愛国者」の一人として中央委員会の承認を得たのである。

 国共内戦の末期に共産党への投降を画策したからだろうか、それとも最初から共産党が送り込んだスパイだったからなのか。真相は闇の中である。2006年に陳儀の旧居を記念館に変えることが提案されたらしいが、はたしてどうなったのか。

 それはともかく、この中央統一戦線工作部とは、一体どういう組織なのか。
 簡単に説明すれば、「共産主義の影響力と統制を内外で強化するためのプロパガンダ組織」である。ワシントンのシンクタンク「ジェームズタウン財団」は一昨年9月、気になる報告を行った。統一戦線工作部の運営費が中国外交部(外務省)よりも上回っているという調査結果を明らかにしたのである。

 それだけではない。中国人民政治協商会議、国家宗教委員会、中国外交部、工商連合会などが統一戦線部の指導の下で動いているというではないか。規模も予算も想像以上に大きい。同財団の報告書によると、2019年には最低でも26億ドル以上を支出しているのだ。

 今、こんなことが囁かれている。ロシアのウクライナ侵攻で、習近平の台湾侵攻作戦の時期が早まったのではないか、と。今後の中国、とくに統一戦線工作部と人民解放軍の動きから目が離せない日々が続きそうである。

(本稿は昨年4月に季刊『経綸』に掲載した「二・二八事件の陳儀を英雄視する北京―はたして中国共産党のスパイだったのか」を大幅に加筆・訂正しました。)

 


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