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平穏という幸せ② 岩崎邦子の「日々悠々」(75)

2020-03-27 07:38:27 | 【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」

【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」(75

平穏という幸せ② 

 

 

 我が家の苦境から抜け出すためには、納屋暮らしから抜け出し、何としても以前の家に戻らねばならない。父は製綿業をしていたので、敷地内には小さなプールもあった工場と、かなり大きな家もあった。それもみんな戦火で焼失していた。焼け跡となった工場の土地にようやく買い手がつき、祖母と兄の踏ん張りもあって、元住んでいたところに手狭ではあったが我が家ができた。

 兄は東京の大学に戻ることは、とうに諦めていて、一家の大黒柱となって働きはじめた。きっと公務員試験でも受けたのだろうが、市の税務署勤めをするようになった。長女の姉はまるで口減らしのように、相手から求められたとはいえ、10代で結婚させられた。年子の次女は姉妹一の美人でもあり、字が奇麗に書けることで、地方銀行の頭取の秘書として雇われた。3女の姉と私は小学校の6年生と2年生に。

 当時は、貧しくて生活に困窮していたのは、なにも我が家だけではなかったようだ。私は兄の友人が先生をしている学級に入ったのだが、後にその頃の集合写真を見て驚いた。背が小さかった私は最前列であったが、となりに並ぶ同クラスの子たちの服装とは段違いである。

 裕福であった頃の長女である姉のお下がりだ。チャイナ服のような、胸にはピンタックがびっしりあり、洒落たワンピースを着ている。これまたお下がりのズック靴をきちんと履いていて、どう見ても一番贅沢な身なりだ。隣に並ぶ子たちは、下駄をはいているか、裸足のままなのだから。

 まだ、午前と午後の二部授業をしていた頃で、私は麻疹の後遺症で、右目に眼帯をしての登校であった。黒目に星が入っていることと、右耳が難聴になっていることも判明し、ヒマシ油を飲むように勧められた。が、飲んだことがあったのかどうか、記憶にない。長じてからは星目に関しては跡形もなくなったが、難聴を直す術はないまま年を重ねてきている。

 小学4年生になった頃に、今までの小さな家を離れ、すこし郊外の家に引っ越した。祖母の老人性の結核が疑われたこともあって、敷地内の畑で野菜や花作りが楽しむことが出来る所であった。

「せこちゃん」と呼んでいた次女の姉は銀行員としても評判が良く、誰からも可愛がられていた。銀行の宝くじの抽選会では劇場の華やかな舞台に立つ姿を、姉妹で誇らしく眺めていたものだ。だが、「魔の手が伸びた」ともいえる事態がせこちゃんに起きる。

 せこちゃんが客の接待のために頭取と出かけた先は野外で、養老の滝(滝幅4メートル、落差32メートルの滝で、岐阜県・養老町にある)の傍の店で行われた。そこでせこちゃんは蚊に刺されたという。高熱が続いた後に日本脳炎と診断されてしまったのだ。

 私は5年生で学校にいたが、緊急で自宅に連れ戻された。何が何だか分からないまま家に着くと、家の外も中も消毒液がまかれており、私の頭も体中も消毒された。せこちゃんは、座敷の真ん中で寝かされている。やはり早退させられたすぐ上の姉と、離れたところから眺めるだけで、近寄ることは許されない。

 これから2週間は学校へは行けないこと、せこちゃんの命は2日か3日が山場で、かなり危ないことも告げられた。家族中の必死の願いも空しく、せこちゃんは19歳の若さで逝く。すぐ上の姉とは身もだえして大泣きした。拭いても拭いても涙があふれ、ハンカチを何回も絞った。

 学校に久しぶりに登校できた時は、生徒たちの誰もが私を遠巻きにして眺めている。すると他のクラスの先生方までが、何かと私に言葉をかけてくれた。運動会では進行の指揮をとるアナウンスを任されたり、学芸会では主役に抜擢されたりと、引き立ててもくれた。そのことは、「ひいきされている」として、反感の目で見られ、イジメの対象にもされることにもなったのだが……。

 すぐ上の姉は姉妹の中では成績が抜群であり、中学生になってからは、何かの発表ごとがあると、県の代表にも選ばれていた。だが、我が家の血筋ともいえる、肺浸潤を患うようになって、学校も休みがちとなってしまった。その体質は長く続き大人になっても、入退院を繰り返すことになる。

 私が6年生の時、兄は見合い結婚をした。祖母と小姑の姉と私がいるところに、兄夫婦が一緒に住むことに。反抗期にも突入していた私だったが、義姉は優しく向き合ってくれた。兄は当初の地元の地方税務署から名古屋の国税局勤務になった。いわゆる「マルサ」と言われる企業の査察にも出向くことになる。そんな企業先から兄に、ジュースやお菓子の詰め合わせ、調味料や酒、様々なものが届くことがあったが、すべて即座に送り返していた。お菓子など、少しくらい貰いたいと言うと、兄に烈火のごとく怒られたものである。

 ある時、学校からの家庭調査票に、家庭状況を書き込まねばならない時があった。名前などの他に、学歴を書く欄があったのだが、兄のことは「大学中退」と書こうとすると「俺は小卒だから」と言って頑なになって聞かない。なるほど、中学は飛び級をしていて、卒業はしていなかったのだ。向学心だけは人一倍あった兄である。まだ新婚だというのに単身で公認会計士の勉強のために、東京の学校に入った。兄の努力もさることながら、義姉の犠牲の心意気と忍耐力を強く感謝してはいた。

 しかし、この頃の私は、反抗期の最たる時期でもあった。末っ子の私に皆で気を使ってくれていたことで、依頼心ばかりが強かった。学校の成績は兄や姉と比べられることで、劣等感にも苛まれていた。兄夫婦は、病弱な姉の面倒を見てくれている。高齢になった祖母の事にも目を向けてくれている。でも、私を高校に行かせてくれるだけで充分だ。一日でも早く働かなくては……。そんな気持ちが強かった。

 私は高校卒業後、名古屋にある電機の会社に就職した。残業の多い会社だったので、帰りが遅くなることに怒った兄によって、会社に掛け合って辞めさせられてしまった。その後は大阪にある叔父の会社での寮生活が始まり、叔母によって、日常生活の常識を厳しくしつけられることになる。やがて縁があって私は結婚をし、最初の所帯は千葉の市川から始まった。

 兄は公認会計士の資格を得てから、しばらくは国税局で働いていたが、名古屋駅前の毎日ビルに事務所を構えることになった。経済的にもずいぶん楽にもなっていたようだが、なにしろ堅物で頑固な兄の性格である。自身の生活は質素で倹約をモットーにしていた。それは身内にも大いに発揮するので、近寄りがたい存在でもあった。が、外面は大変によろしく、柔和な顔つきになり、依頼事や相談には親身になって対処していたようだ。兄の家族は、子供が3人となっていて、最寄り駅には5分のところに、家を構え直した。

 祖母も元気になっており、信心深くお寺の講話を聴きに行くことを楽しみにし、小布で手作りの凜布団を作っては友人たちに渡していた。長生きをしてくれて、私の子供(ひ孫)たちの顔も見てくれた。大阪万博の年に93歳で、呆けることもなく、老衰のため1週間ほど寝込み、自宅で大往生を遂げた。その後何年かして、すぐ上の姉は相変わらず入退院を繰り返し、拒食症となり43歳で亡くなった。

 兄夫婦も仏教徒としてお寺の和尚さんから熱心に仏教の教えを学んでいた。私が知らない祖父を始め、母、父、2番目の姉、祖母、すぐ上の姉、それら故人の法要をきちんと執り行ってくれていた。兄は「母や父の50回忌を、自分が生きているうちに出来る人は少ないのだ」と、小さな自慢もしていた。

 そんな兄であるが、医者嫌いを通していた。大腸に重大な症状が起きても、50歳で逝った父と比較して、「父親より何年も長生きしているから、十分だ」と。88歳、自宅で往生するという初志を貫いた。テレビを見て浮かれることを嫌い、各地の美術館やお寺巡りを趣味として、読書三昧をしていた兄。自分の葬式には、「あちこちに知らせるな、ご仏前や献花等は一切断れ、質素に行え」、と厳命していた。読経の後は、兄の選んだクラシック音楽のCDが静かに流されていた。

 どの家族にも順風満帆とは言えない歴史がある。もっともっと過酷な運命を背負って生きている人も大勢いるだろう。野草を摘むことの懐かしさから、太平洋戦争がもたらした我が家の哀しみを、つらつらと思い出してしまった。その思い出は芋づるのように、次々と出てくる。

 世界を震撼とさせている新型コロナウィルスの感染騒ぎ。憂いてはいるが、ちゃんと心がけることで、我が身を守ることも、防ぐことも可能だろう。今年の桜の開花は早かった。春は野草摘みが楽しみにできる平穏な時代なのだ。


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