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参謀副総長も中国スパイだった  台湾軍上層部に今も多数潜伏か

2020-09-14 03:45:52 | アンソニー・トゥー(杜祖健)


参謀副総長も中国スパイだった
台湾軍上層部に今も多数潜伏か

 

 中国人民解放軍の台湾進攻が囁かれる昨今である。もし侵攻するなら台湾軍の正確な情報が欠かせない。そのためにも軍内部に潜伏させる必要がある。過去を振り返ると、国民政府軍の現役幹部や元幹部が「中国のスパイ」として摘発される事件がいくつかあった。その中でも有名ななのが、呉石事件だろう。
 当時、台湾大学の学生だったアンソニー・トゥー(台湾名=杜祖健、Anthony T.Tu、コロラド州立大学名誉教授)博士にとっても、その事件はかなり衝撃的だった。そのスパイというのが、蒋介石の信頼が厚く、参謀副総長まで上り詰めた呉石だったからである。今から70年前の1950年6月、台北市で呉石は銃殺刑に処せられた。連絡役を務めた女スパイ、朱楓とともに。トゥー博士はその事件を振り返り、『榕樹文化』(2020年秋季―21年新年号)に次の一文を寄稿した。非常に興味深いので、本ブログで転載する。(本ブログ編集人・山本徳造)

 

台湾に派遣した
最高の地下工作員 呉石
杜祖健
 
 私が台湾にいた時、新聞で参謀本部の副参謀長、呉石とその連絡員の女性、朱楓の銃殺の報道と写真が載っていた。その写真を最近また見つけ出したので、往時の台湾の恐怖政治を思い出してこの文を書くことにした。
 その時台湾では私は大学生であり、当時の感想は副参謀長のようなえらい国民党の高級軍人が何故中共の地下工作員であったかを不思議に思った。それから女性の朱楓はどうやって呉石と連絡したのかやはり不思議に思い、怖い社会だと身震いがした。
 私は榕樹文化で台湾で最高の共産党幹部、蔡孝乾について書いた。彼の告白で多くの台湾人が共産党に入って銃殺された。当時228事件で国民党に失望した台湾人は多くの人が共産党に入った。今から見るとこれらの人は特に共産党に共鳴したのではなく、国民党があまりにも悪すぎたので、共産党はいいだろうと思ったのである。台湾人は国民党も共産党もみな悪いことは知らなかったのである。
 今呉石と朱楓のことを調べて初めてわかったのは、この二人が捕まって銃殺されたのは蔡孝乾の白状によったのであることがわかって吃驚しているところである。蔡孝乾は白状するか、銃殺されるか、国民党に捕まったときにその二者択一しかなく、結局は命惜しさにほかの共産党員を白状したのであった。それで蔡孝乾は国民党の少将になって優遇された。
 蔡孝乾については以前の榕樹文化で詳しく述べたのでここでは呉石と朱楓二人だけについて述べる。

■呉石について

 呉石は国民党の将軍で、シナ事変の時は情報関係に勤めており、蒋介石に重要視された。しかしシナ事変の時蒋介石は日本と戦わせるのは主に雑軍を使い、自分の兵隊は温存しているのを見て国民党に失望した。それで終戦後自分で軍人になるのをやめた。しかし蒋介石は彼の頭脳がいいのに感心して、福建省の福州の防衛の副軍長
に任命した。その時には呉石はすでに共産党に入っていた。福建省というと台湾のお向かいの州で、台湾を守るためには福建省を守らないといけないと蒋介石は思った。それで福建省を守るために、その首都福州に25万人の兵隊で守ろうとした。呉石はその25万人の軍の副司令官であった。彼は中から崩そうとして、朱軍長に揚子江の南岸に100万の軍隊をもっても、共産軍の渡江を阻止できなかった。それでたった25万の兵力で福州を守れるはずが無いというて、防衛をあまりしなかった。それで共産軍が福州に来ると、国民党の上級幹部はさっさと台湾に逃げ、戦争もろくにせずに福州の防衛軍は瓦解してしまった。突然蒋介石が福州が陥落する前に来て、台湾に行くよう言われた。それで彼は共産のスパイであることは奥さんに言わず、台湾に行くがすぐに福州に戻ってくるからといって妻と別れ、飛行機で台湾に行った。これが家族との最後の別れとなった。台湾で蒋介石は呉石を参謀副総長に任命した。呉石は台湾での防衛の状態を共産党にわたそうとした。

▲参謀副総長の呉石が銃殺される直前に辞世の詩を作って書いている

■朱楓の役割

 その連絡役としてえらばれたのが朱楓であった。選ばれた主な原因は今までの共産党に対して、成績がよく信頼できる党員と見なされていた。その上に重要な点は彼女の娘が台湾に住んでいたことである。それで朱楓が自分の娘を訪ねるのは非常に自然であり、国民党に疑われないという特点があるためであった。こうして朱楓は無事に台湾に入国した。そして呉石との連絡役となった。二人はいつも慎重に行動し、ある時いつも会う場所にその家の人がおらず、書置きが残されていた。もちろんこの書置きも前もって決めていた暗号で「党の組織がばれた。危ないから急いで台湾から出よ」という暗号の文句であった。当時台湾から香港に行くのは国民党が厳重に取り締まっているので、香港行きは危ないからやめて、舟山群島に逃げた、舟山群島は上海のすぐそばである。それで舟山群島から密貿易の船が上海に出るときにそれに乗って逃げようと考えた、それで朱楓は舟山で待ったがなかなかその機会がなかった。

▲呉石の連絡役として逮捕され、銃殺される直前の朱楓

■二人の逮捕

 ある晩呉石の家に国民党の安全保障の人が尋ねに来て、ちょっと一緒に来ませんかと言うた。呉石は不機嫌になり、お前は一体誰だ、俺は参謀副総長で中将であると返事した。つかまえに来た人は逮捕状を見せて逮捕した。調べた結果台湾から離れてもいいという許可証は呉石が出したもので、絶対的な証拠が出てきたので、呉石と朱楓の二人の関係がはっきりした。この二人が台湾に侵入したという事は蔡孝乾の白状でばれていたが、この台湾を離れてもいいという許可証が命取りの証拠になったのであった。朱楓は獄中で自殺しようとしたが、失敗に終わった。呉石は獄中で拷問にかけられ、片目がつぶれた。そして二人は1950年6月10日に台北市の馬場町で死刑を執行された。その数分前呉石は辞世の歌を作り銃殺された。蒋介石は確かに銃殺したことを確かめるため、死体の写真を中央社に命じて撮らせた。その即興で作った詩は

五十七年一夢中
声明志業成空■
凭將一掬丹心在
泉下磋堪対我翁

 呉石は軍人であったが、文学の素養もあった人であった。50年後この二人の遺灰を探し出して、中国に持ち帰り、共産党は丁寧に弔ったとのことである。(原文のママ)


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