知-権力の新しいあり方からすれば、精神はもはや宗教やその教義によって形成されるものではなくなる。もっとも、近代社会成立以後もなお宗教は言ってきた。人間の肉体は不潔なものであって、だから罪があり罰を与えられなければならないと。しかしそういう論理は、十七世紀半ばから十九世紀いっぱいを通して、日常の監禁社会の中で無効化される。刷新され得る精神は、刷新されるべき精神として、「処罰・監視・懲罰・束縛などの手続から生まれ出て」くるとともに刷新された精神として出現するようになり、実際に出現した。
「精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこう言わねばならないだろう、精神は実在する、それは一つの実在性をもっていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々にーーーより一般的には、監視され訓練され矯正される人々に、狂人・幼児・小学生・被植民者に、ある生産装置にしばりつけられて生存中ずっと監督される人々に行使されるのだと。この精神の歴史的実在性がある、と言うのも、この精神は、キリスト教神学によって表象される意味での精神と異なり、生まれつき罪を犯していて罰せられるべきだと言うわけではなく、むしろ、処罰・監視・懲罰・束縛などの手続から生まれ出ているからである。実在的な、だが身体不関与のこの精神はまったく実質的ではない。ある種の型の権力の成果と、ある知の指示関連とが有機的に結びついている構成要素こそが、しかも、権力の諸関連が在りうるべき知をさそい出す場合の、また、知が権力の諸成果を導いて強化する場合の装置こそが、実は精神の姿である」(フーコー「監獄の誕生・P.33」新潮社)
罪の意識。それは始めからあったわけではない。原始的共同体では罪というものがそもそもなかった。共同体の一員が何か理解しがたい自己破壊的行為を行ったような場合、それは神々の失敗として捉えられていた。だから原始的共同体内部で何か失敗が発生するといつも、それぞれの共同体によりけりで形式は異なっていても、或る種の儀式を開催することで失敗を犯した神々を再建すると同時に再建され修理された神々の実在を再確認することにしていた。
「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)
ひるがえって、近代社会は徹底的に合理性を目指す社会である。具体性を追求する社会である。だが、具体的なものという《言葉》は同じでも、具体的なものの《意味》はすでに転倒している。さらに具体的なものの《意味》は同じでも具体的なものを指し示す《言葉》は様々に異なっている場合が大量発生してきた。近代になって始めて言葉とその意味は切り離され、置き換えられるものになった、ということができる。そして近代における精神は、また神々の観念も、「処罰・監視・懲罰・束縛などの手続から生まれ出」されてくるようになった。精神は装置化された。装置化されるやいなや今度は装置としての精神がさらなる精神の加工=変造作業を手掛けるようになる。人間の精神は加工=変造過程を経て再編され得るし実際に再編されるものとなった。まったく何の根拠もないのではなく、人間の手によって「でっち上げ」られるものへと加工=変造されるのである。しかしこの「でっち上げ」は種も仕掛けもある「でっち上げ」である。ところがそれが「でっち上げ」としてなかなか容易に見えてこないのは「でっち上げ」にもかかわらず純然たる「結果《として》受け止められ」てしまうからである。事実上の結果として受け止められるやいなや「でっち上げ」は「結果」として取り扱われる。そして結果は、事実上の結果としてその起源とそこへ至るまでの全過程を覆い隠し、「でっち上げ」などどこにもなかったという社会的文脈の中へ刷り込まれることになる。ありもしない幻想の側が事実としての過程を覆い隠し、一度覆い隠された事実としての過程の側が、今度は、ありもしなかった幻想として取り扱われるという転倒が起こるというわけだ。このように「処罰・監視・懲罰・束縛などの手続」という装置の側が次第に精神を装置化し、装置化された精神をどんどん生産する。知-権力は装置の精神化、精神の装置化、したがって知-権力装置としての「精神の姿」を出現させる。
ただ、装置化される精神といっても常に例外は出てくる。装置化される対象は差し当たり「監視され訓練され矯正される人々に、狂人・幼児・小学生・被植民者に」限られる。としても「幼児」はもう一つの「幼児」と区別して考えないといけない。ニーチェは「精神の三種の変化」として「駱駝(らくだ)から獅子(しし)へ、獅子(しし)から小児へ」という。まず「駱駝(らくだ)から獅子(しし)へ」の生成変化について。
「何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念(ていねん)と畏敬(いけい)の念にみちた駱駝では不十分なのか。新しい諸価値を創造することーーーそれはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目ざして自由をわがものにすることーーーこれは獅子の力でなければできないのだ。自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる『否』をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.38~39」中公文庫)
時々刻々と達成されていく絶え間ない社会的家畜化から解き放たれるためには、なるほど獅子となることが必要だと。しかしもっと遥かに重要な作業が残っている。
「しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫)
この意味での子どもに《なる》こと。それは十分に成熟した大人でなければできないことだ。ニーチェが言ったように、マルクスがやって見せたように、「王様は裸だ」と言えるのは十分に成熟した大人だけなのであり、事情に応じて「王様は裸だ」と言えて始めてその人間は十分に成熟した大人であると承認される資格を持つ。その意味で「監視され訓練され矯正される人々」の一部分としての「幼児」とは区別して考えられねばならない。フーコーから続けよう。知-権力は実にしばしば或る特定の「言説」を世界的規模で流通させる。この流動性が社会的な「知の枠組み」を組み立てる。フーコーが取り上げている近代社会でいえば主にマスコミや教育機関がその役割を果たしている。
「精神のこの実在性-指示関連をもとに、人々は各種の概念をつくりあげ、分析領域を切り取ってきたのだった、つまり、霊魂、主観、人格、意識など。その実在性-指示関連のうえに、〔権力的な〕諸技術と学問的な言説をうち立ててきたのであり、それをもとにして、人間中心主義の道徳的な権利要求を浮かびあがらせてきたのである」(フーコー「監獄の誕生・P.33~34」新潮社)
だから目に見える極めて過酷で暴力的な監禁社会はだんだん目に見えにくいものへと変容していく。一七八九年フランス革命前後に公然と登場してきた「自由・平等・平和」という三つの理念。それは皮肉にも、理念の実現とは裏腹に、ますます人間を家畜化するために機能することになる。フーコーは次のようにいう。
「しかしながら思い違いをしてはならないのである。実は、神学者たちの言う幻影たる精神の代わりに、実在的な人間像が、つまり知や哲学的思索の、あるいは技術本位の参与の客体たる人間像が、導入されたわけではなかったのだから。人々がわれわれに話しているその人間像、そして人々が解放しようと促しているその人間像こそは、すでにそれじたいにおいて、その人間像よりもはるかに深部で営まれる服従〔=臣民〕化の成果なのである。ある一つの《精神》がこの人間像に住みつき、それを実在にまで高める、だが、この実在それじたいは、権力が身体にふるう支配のなかの一つの断片なのだ。ある政治解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神」(フーコー「監獄の誕生・P.34」新潮社)
華々しい身体刑は終わりを告げる。公開処刑が万人のための祝祭だった時代は終焉を迎える。身体が精神を閉じ込めていた時代は幕を降しつつ、今度は、装置化された精神が逆に身体をがんじがらめにする監視装置として起動しだす。としても、しかし「はるかに深部で営まれる服従〔=臣民〕化」とはどのようなことなのか。「服従〔=臣民〕化」が拒絶されたと言われればわかりはするものの、むしろ「服従〔=臣民〕化」が逆に欲望されるなどという事態が全ヨーロッパ規模でどうして起こったのか。
「権力についての全く転倒したイメージを抱かない限りは、我々の文明においてあれほど久しい以前から、自分が何者であるのか、自分が何をしたのか、自分が何を覚えているのか、何を忘れたのか、隠しているもの、隠れているもの、考えも及ばないもの、考えなかったと考えるもの、こういうすべてが何かを語れという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ。西洋世界が幾世代もの人間をそれに従事させた、産出するための厖大な工事でありーーーその間に、他の形の作業が資本の蓄積を保証していたわけだがーーーそこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》〔服従=主体-化〕に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として成立させるという意味においてである」(フーコー「知への意志・P.78~79」新潮社)
人間〔ロゴス〕中心主義の中には「主体」として確立された個人という意味が明確化されている。近代的な意味で始めて個人あるいは個性というものが出現したといえる。あるいは個人的人権という概念が。装置としての知-権力は個々人に狙いをつけた。政治的技術としての知-権力が個々人に狙いをつけたのは、人間の身体を絶対主義的王権の監禁から解き放つことで、同時に人間の精神を権力装置として加工=変造し、個々人のレベルでいつでも自分で自分自身を監視するために精神そのものを知-権力へよりいっそう強固に繋ぎ止め、精神そのものを装置化するためだった。服従という動作をただ単に屈辱として受け止めるだけでは理解不可能におちいるかもしれない。けれども、すでに人間は二重化されている。「《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として」。市民社会は遂に自分という「主体」を手に入れた。国家に服従する限りで人間はいつも自由である。とはいえ、この動作は取引ではない。服従する側が用いる一種の「権力への意志」である。どれほど下層階級に組み込まれようと人間にはひとかけらの権力意志が残る。それは人間の尊厳というものとは似て非なるものだ。生涯を通して病気がちだったニーチェは自分の身体と精神とをじっくり観察する機会に恵まれていた。だからこう言うのである。
「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫)
昨今問題視されている「ボランティア」に名を借りた事実上の「やりがい搾取」という状況。それは絶え間なく空虚なものになっていく個々人の精神を国家の側から与え直す政治的操作である。なぜ国家は、わざわざ国家の側から個々人の精神の空虚さを埋めるために考えられうるあらゆる方法を創設し与えるのか。第一に実費が浮く。第二にーーーこの第二の作業が最大の目的なのだがーーー個々人を国家の掟のもとによりいっそう強固に繋ぎとめるからである。だから「与える」のだ。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟を必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。
こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
にもかかわらずなぜもっと「やりがい搾取」を、と市民社会は叫び《欲する》ことまでしているのか。与えられれば差し当たり「不安」は覆い隠される。もっともだ。しかし「不安」は覆い隠されるのであって消滅するわけでは何らない。個々人の出現。それは知-権力装置としての近代国家の出現と同時であり、すなわち両者は同い年であることに着目せねばならない。さらに今では諸国家の上に、諸国家を包括する形で、多国籍企業複合体が接続されている。
「私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)
という事態が起こってきた。ところが二〇二〇年の「感染=パンデミック」はその仮面を暴力的に引き剥がした。何が見えたか。引き剥がされた仮面の下からわずかに覗いた素顔はどのようなものだったか。さらなる仮面であり、素顔はすでに仮面化しているという取り返しのつかない事情だった。が、そのテーマはまだ先のことだ。なぜなら、監視社会から管理社会への転倒がなかったとしたら今のような社会環境は、そして今のような日常生活も、成立することができなかったからである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
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「精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこう言わねばならないだろう、精神は実在する、それは一つの実在性をもっていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々にーーーより一般的には、監視され訓練され矯正される人々に、狂人・幼児・小学生・被植民者に、ある生産装置にしばりつけられて生存中ずっと監督される人々に行使されるのだと。この精神の歴史的実在性がある、と言うのも、この精神は、キリスト教神学によって表象される意味での精神と異なり、生まれつき罪を犯していて罰せられるべきだと言うわけではなく、むしろ、処罰・監視・懲罰・束縛などの手続から生まれ出ているからである。実在的な、だが身体不関与のこの精神はまったく実質的ではない。ある種の型の権力の成果と、ある知の指示関連とが有機的に結びついている構成要素こそが、しかも、権力の諸関連が在りうるべき知をさそい出す場合の、また、知が権力の諸成果を導いて強化する場合の装置こそが、実は精神の姿である」(フーコー「監獄の誕生・P.33」新潮社)
罪の意識。それは始めからあったわけではない。原始的共同体では罪というものがそもそもなかった。共同体の一員が何か理解しがたい自己破壊的行為を行ったような場合、それは神々の失敗として捉えられていた。だから原始的共同体内部で何か失敗が発生するといつも、それぞれの共同体によりけりで形式は異なっていても、或る種の儀式を開催することで失敗を犯した神々を再建すると同時に再建され修理された神々の実在を再確認することにしていた。
「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)
ひるがえって、近代社会は徹底的に合理性を目指す社会である。具体性を追求する社会である。だが、具体的なものという《言葉》は同じでも、具体的なものの《意味》はすでに転倒している。さらに具体的なものの《意味》は同じでも具体的なものを指し示す《言葉》は様々に異なっている場合が大量発生してきた。近代になって始めて言葉とその意味は切り離され、置き換えられるものになった、ということができる。そして近代における精神は、また神々の観念も、「処罰・監視・懲罰・束縛などの手続から生まれ出」されてくるようになった。精神は装置化された。装置化されるやいなや今度は装置としての精神がさらなる精神の加工=変造作業を手掛けるようになる。人間の精神は加工=変造過程を経て再編され得るし実際に再編されるものとなった。まったく何の根拠もないのではなく、人間の手によって「でっち上げ」られるものへと加工=変造されるのである。しかしこの「でっち上げ」は種も仕掛けもある「でっち上げ」である。ところがそれが「でっち上げ」としてなかなか容易に見えてこないのは「でっち上げ」にもかかわらず純然たる「結果《として》受け止められ」てしまうからである。事実上の結果として受け止められるやいなや「でっち上げ」は「結果」として取り扱われる。そして結果は、事実上の結果としてその起源とそこへ至るまでの全過程を覆い隠し、「でっち上げ」などどこにもなかったという社会的文脈の中へ刷り込まれることになる。ありもしない幻想の側が事実としての過程を覆い隠し、一度覆い隠された事実としての過程の側が、今度は、ありもしなかった幻想として取り扱われるという転倒が起こるというわけだ。このように「処罰・監視・懲罰・束縛などの手続」という装置の側が次第に精神を装置化し、装置化された精神をどんどん生産する。知-権力は装置の精神化、精神の装置化、したがって知-権力装置としての「精神の姿」を出現させる。
ただ、装置化される精神といっても常に例外は出てくる。装置化される対象は差し当たり「監視され訓練され矯正される人々に、狂人・幼児・小学生・被植民者に」限られる。としても「幼児」はもう一つの「幼児」と区別して考えないといけない。ニーチェは「精神の三種の変化」として「駱駝(らくだ)から獅子(しし)へ、獅子(しし)から小児へ」という。まず「駱駝(らくだ)から獅子(しし)へ」の生成変化について。
「何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念(ていねん)と畏敬(いけい)の念にみちた駱駝では不十分なのか。新しい諸価値を創造することーーーそれはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目ざして自由をわがものにすることーーーこれは獅子の力でなければできないのだ。自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる『否』をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.38~39」中公文庫)
時々刻々と達成されていく絶え間ない社会的家畜化から解き放たれるためには、なるほど獅子となることが必要だと。しかしもっと遥かに重要な作業が残っている。
「しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫)
この意味での子どもに《なる》こと。それは十分に成熟した大人でなければできないことだ。ニーチェが言ったように、マルクスがやって見せたように、「王様は裸だ」と言えるのは十分に成熟した大人だけなのであり、事情に応じて「王様は裸だ」と言えて始めてその人間は十分に成熟した大人であると承認される資格を持つ。その意味で「監視され訓練され矯正される人々」の一部分としての「幼児」とは区別して考えられねばならない。フーコーから続けよう。知-権力は実にしばしば或る特定の「言説」を世界的規模で流通させる。この流動性が社会的な「知の枠組み」を組み立てる。フーコーが取り上げている近代社会でいえば主にマスコミや教育機関がその役割を果たしている。
「精神のこの実在性-指示関連をもとに、人々は各種の概念をつくりあげ、分析領域を切り取ってきたのだった、つまり、霊魂、主観、人格、意識など。その実在性-指示関連のうえに、〔権力的な〕諸技術と学問的な言説をうち立ててきたのであり、それをもとにして、人間中心主義の道徳的な権利要求を浮かびあがらせてきたのである」(フーコー「監獄の誕生・P.33~34」新潮社)
だから目に見える極めて過酷で暴力的な監禁社会はだんだん目に見えにくいものへと変容していく。一七八九年フランス革命前後に公然と登場してきた「自由・平等・平和」という三つの理念。それは皮肉にも、理念の実現とは裏腹に、ますます人間を家畜化するために機能することになる。フーコーは次のようにいう。
「しかしながら思い違いをしてはならないのである。実は、神学者たちの言う幻影たる精神の代わりに、実在的な人間像が、つまり知や哲学的思索の、あるいは技術本位の参与の客体たる人間像が、導入されたわけではなかったのだから。人々がわれわれに話しているその人間像、そして人々が解放しようと促しているその人間像こそは、すでにそれじたいにおいて、その人間像よりもはるかに深部で営まれる服従〔=臣民〕化の成果なのである。ある一つの《精神》がこの人間像に住みつき、それを実在にまで高める、だが、この実在それじたいは、権力が身体にふるう支配のなかの一つの断片なのだ。ある政治解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神」(フーコー「監獄の誕生・P.34」新潮社)
華々しい身体刑は終わりを告げる。公開処刑が万人のための祝祭だった時代は終焉を迎える。身体が精神を閉じ込めていた時代は幕を降しつつ、今度は、装置化された精神が逆に身体をがんじがらめにする監視装置として起動しだす。としても、しかし「はるかに深部で営まれる服従〔=臣民〕化」とはどのようなことなのか。「服従〔=臣民〕化」が拒絶されたと言われればわかりはするものの、むしろ「服従〔=臣民〕化」が逆に欲望されるなどという事態が全ヨーロッパ規模でどうして起こったのか。
「権力についての全く転倒したイメージを抱かない限りは、我々の文明においてあれほど久しい以前から、自分が何者であるのか、自分が何をしたのか、自分が何を覚えているのか、何を忘れたのか、隠しているもの、隠れているもの、考えも及ばないもの、考えなかったと考えるもの、こういうすべてが何かを語れという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ。西洋世界が幾世代もの人間をそれに従事させた、産出するための厖大な工事でありーーーその間に、他の形の作業が資本の蓄積を保証していたわけだがーーーそこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》〔服従=主体-化〕に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として成立させるという意味においてである」(フーコー「知への意志・P.78~79」新潮社)
人間〔ロゴス〕中心主義の中には「主体」として確立された個人という意味が明確化されている。近代的な意味で始めて個人あるいは個性というものが出現したといえる。あるいは個人的人権という概念が。装置としての知-権力は個々人に狙いをつけた。政治的技術としての知-権力が個々人に狙いをつけたのは、人間の身体を絶対主義的王権の監禁から解き放つことで、同時に人間の精神を権力装置として加工=変造し、個々人のレベルでいつでも自分で自分自身を監視するために精神そのものを知-権力へよりいっそう強固に繋ぎ止め、精神そのものを装置化するためだった。服従という動作をただ単に屈辱として受け止めるだけでは理解不可能におちいるかもしれない。けれども、すでに人間は二重化されている。「《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として」。市民社会は遂に自分という「主体」を手に入れた。国家に服従する限りで人間はいつも自由である。とはいえ、この動作は取引ではない。服従する側が用いる一種の「権力への意志」である。どれほど下層階級に組み込まれようと人間にはひとかけらの権力意志が残る。それは人間の尊厳というものとは似て非なるものだ。生涯を通して病気がちだったニーチェは自分の身体と精神とをじっくり観察する機会に恵まれていた。だからこう言うのである。
「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫)
昨今問題視されている「ボランティア」に名を借りた事実上の「やりがい搾取」という状況。それは絶え間なく空虚なものになっていく個々人の精神を国家の側から与え直す政治的操作である。なぜ国家は、わざわざ国家の側から個々人の精神の空虚さを埋めるために考えられうるあらゆる方法を創設し与えるのか。第一に実費が浮く。第二にーーーこの第二の作業が最大の目的なのだがーーー個々人を国家の掟のもとによりいっそう強固に繋ぎとめるからである。だから「与える」のだ。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟を必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。
こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
にもかかわらずなぜもっと「やりがい搾取」を、と市民社会は叫び《欲する》ことまでしているのか。与えられれば差し当たり「不安」は覆い隠される。もっともだ。しかし「不安」は覆い隠されるのであって消滅するわけでは何らない。個々人の出現。それは知-権力装置としての近代国家の出現と同時であり、すなわち両者は同い年であることに着目せねばならない。さらに今では諸国家の上に、諸国家を包括する形で、多国籍企業複合体が接続されている。
「私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)
という事態が起こってきた。ところが二〇二〇年の「感染=パンデミック」はその仮面を暴力的に引き剥がした。何が見えたか。引き剥がされた仮面の下からわずかに覗いた素顔はどのようなものだったか。さらなる仮面であり、素顔はすでに仮面化しているという取り返しのつかない事情だった。が、そのテーマはまだ先のことだ。なぜなら、監視社会から管理社会への転倒がなかったとしたら今のような社会環境は、そして今のような日常生活も、成立することができなかったからである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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