十三歳のベアス少年が被告として立ち裁判所で述べた言説は、ただちにマスコミによって分析を加えられ紙面上で詳細に発表されるやいなや「野生」の復権という事態として見出された、といえる。しかしただ単に人間が本来的も持っている野生的部分が改めて見出されたというわけではない。野生という言葉は往々にしてあらかじめ特定の印象を与えられた形容詞的な言葉として用いられるためすでに一種の方向性を与えられた言葉として流通してしまう。しかしフーコーがわざわざベアス少年の裁判を取り上げた理由は「野生」の復権あるいは再発見にあるのではない。ポストモダンが知的流行として、思想的意匠として流通したことで、とりわけ日本ではほぼ五年ほどですっかり忘れ去られてしまったという事情があったのだが、フーコーがこの裁判とそれを取材したラ・フランジェ紙の記事を通して見出したのは「野生」という言葉に置き換えられてはいても実質的に認められることは「アナーキー《としての》少年ベアス」にほかならない、という認識である。だからベアスが法廷で述べ立てた言説はその意味で極めてジュネ文学に似るのである。
ジュネがその全生涯を通して常に警察の観察対象であり続けたのはジュネの言動の隅々にまで浸透して見える「非定住性」ということによる。この生活態度はただ単に「無職、犯罪者、性倒錯」といったカテゴリーでひとくくりにできないという理由だけで成り立つものでは全然ない。ジュネは、そして少年ベアスもまた、間違いなく「遊牧民」として出現することで、社会の中で社会に対して不安を掻き立てる役割を担っている。ジュネやベアスといった人々は、まったく何の刺激なしではたちまち弱体化して消滅してしまう市民社会に対して、何度となく刺激を与え、緊張感を張り巡らせ、社会的輪郭を際立たせ、社会規範をいつも明確化しておくよう働きかける。彼らは社会にとって異端者であると同時に社会を再生産し、ときには再編さえさせる社会的起動装置でもある。
もっとも、歴史的に見ればどの古代国家も例外なく、周辺地域で移動を続ける数々の遊牧民によっていつも攻撃を受ける危機にさらされることで始めて樹立されたものだ。チグリス=ユーフラテスという肥沃な土地で農耕を中心として発展したメソポタミア文明は黒海北部を拠点とする北方騎馬民族による度重なる侵入によって打ち固められた。それが交通の要衝だったバルカン地域を経由して始めてヨーロッパ文化が生まれた。また「匈奴、鮮卑、厥、氐、羌、柔然」といった遊牧民族の度重なる攻撃にさらされることで秦の始皇帝は万里の長城を築いた。その瞬間、中国という国家が出現したと同時に皇帝という地位が確立されたのである。だから遊牧民は非定住性と攻撃力の維持によって世界各地で古代諸国家の樹立に貢献したという二重性を帯びている。フーコーが少年ベアスをめぐる裁判過程の中で暗黙の裡に見出したのは、その野生というより、遥かに多様な意味での《アナーキー》であるということを忘れてはならない。
さて、十九世紀前半のフランスに戻ろう。規律・訓練という知-権力装置は一七八九年フランス革命以前にあった刑罰の意味をまったく別のものへ置き換えた。フーコーはその機能を総括的に六種類に分類している。まず第一点から見てみる。
「〔1〕この広大な装置は、緩慢で連続的で知覚できないくらいに漸進的な広がりを定めていて、その結果、人々は無秩序〔=放埒〕から法律違反へ、また反対方向として法律への違反から或る規則、或る平均的なもの、或る要請、或る規格などからの逸脱へいわば当然事でもあるかのように移しかえられてしまう」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
無秩序から法律違反へという一方の流れ。というより、国家にとってアナーキーに見えるすべての動きはただちに違法行為そのものとして取り扱われるようになったことを意味する。同時に他方、法律違反は「或る規則、或る平均的なもの、或る要請、或る規格などからの逸脱」として置き換えられた。しかしこのような変化はベンサムによる<一望監視装置>(パノプティコン)の発明にヒントを与えた事情からすればたいへん長い時間を経てようやく成立してきた事態だ。その意味で「緩慢」に進行したということができる。ベンサムにヒントを与えた事情というのは十七世紀から十八世紀にかけて大都市で何度も繰り返し発生したペストの蔓延とその際の行政側の対応策である。
「閉鎖され、細分され、各所で監視されるこの空間、そこでは個々人は固定した場所に組み入れられ、どんな些細な動きも取締られ、あらゆる出来事が記帳され、中断のない書記作業が都市の中枢部と周辺部をつなぎ、権力は、階層秩序的な連続した図柄をもとに一様に行使され、たえず各個人は評定され検査されて、生存者・病者・死者にふりわけられるーーーこうしたすべてが規律・訓練的な装置のまとまりのよいモデルを組立てる」(フーコー「監獄の誕生・P.199」新潮社)
ということがあった。もっとも、社会的規模の感染症というのはペストに限らず大都市でしか発生しないわけだが。ところで古典主義時代の刑罰は華々しい公開処刑をメインとして組み立てられていた。さらに違法行為といっても一元的基準に基づく一貫した刑罰体系があったわけではなく、罪悪は文字通り宗教的な次元であり、不品行はまた別の次元に属し、といったように、多元的区別がなされていた。しかし十九世紀初頭になると種々の違法行為のあいだにあった区別はあいまいになり違法行為の連続性という光景が出現する。「監視と処罰」という装置の一元的管理によって始めて違法行為の連続性という近代的光景が出現したわけである。各所に配置された処罰機構の連続性が、様々に区別されていた違法行為の次元的差異を消去しつつ連続的なものとして組織してしまう。それは次のような機構を通して行なわれる。
「監視と処罰の諸機構をふくむ監禁のほうは相対的な連続性の原則によって機能する。相互に結びつく諸制度〔=施設〕そのものの連続性(救済施設にはじまって孤児院、懲治監獄、感化院、教導部隊(若い罪人から成る囚人部隊)、監獄へいたる。学校から免囚保護団体、授産所、保護院、懲治修道院へいたる。労働者共同住宅地から施療院、監獄へいたる)」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
法律違反の次元的差異は消滅していくが、今度は一元的監視による違法行為の差異は逆にますます緻密にとことん細分化され、新たな差異を見出され、見出された差異はさらに細かく分割されてさらなる差異を発生させ、客体化され研究され、できるかぎり詳細に記録され蓄積され大きな稜線を描き出しつつ延々とした終わりのない観察過程を生じさせる。
「拡散的であれ緊密であれ多様な形式が特徴であり、規則や拘束を、ひそかな監視と執拗な強制を旨とする施設が中心である《監禁的なるもの》は、さまざまな懲罰の質的量的な伝達を確保して、軽微な刑罰と重大な刑罰を、ゆるやかな処罰と厳しい処罰を、ひどい評価と些細な判決を系列化したり、あるいはそれらを精密な区分によって配分したりする」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
だから監禁的な監視装置の社会的全体化はもはや、華々しい公開処刑という「結果」を必要としなくなる。無駄は省かれ廃止される。問題は規律・訓練であり、全国津々浦々まで行き届いた教育機関、医療機関、刑罰機関のすみやかな配備設置である。いつどこにいても匿名の誰かによって必ず見張られているという自覚を個々人の精神に植え付けることが目指されているのであり、規律・訓練を通して個々人自ら絶えず自分で自分自身の内面の動きを監視監督しているという<一望監視装置>(パノプティコン)の内在化こそ重要なのだ。そのぶん経済的(エコノミー)かつ効率的である。また、宗教的な次元で可能だった違法行為の区別撤廃はニーチェのいう「神の死」にともなう新しい神〔資本主義〕の出現とその世界化によって可能となった。だからこそ宗教的な見地から見るかぎりでは次元の異なる違法行為であっても、世界を制覇した資本主義社会では反社会的行為の連続性として一元管理のもとで裁くことができるようになったのである。もはや華々しい公開処刑は必要ない。それよりもっと経済策を、というわけだ。ふだんから娯楽に恵まれない民衆にとってどんでん返し的で見せしめ的で祝祭的でエンターテイメント的な公開処刑よりも、そこへ至るまでの過程こそが遥かに大事な監視対象として最重要課題となった。なぜなら、資本主義の全面的世界制覇によってはっきりしてきたことは、ニーチェが告発したように、ほかならぬ近代社会ではもはや「因果関係」は存在しないというただならぬ事情だったからである。この事情はマルクスが「資本論」で人間を「諸関係の所産」として、経済的諸カテゴリーとしてしか取り扱えないものとして、主体を括弧入れせざるを得なかった事情と同じである。唯一絶対的で特定可能な個人の消滅。マルクスもニーチェも近代社会の中に発見し見出したのは、人間というものが早くも多様な諸関係のうちに溶け込んでいくほかなく、実際に無限に延長され拡散する多様性としてしか捉えようがなくなっていく光景だった。絶対王政の時代にはなるほど明晰に残っていた因果関係という繋がりは資本主義という常に脱線していく諸力の運動によって解体された。それまで見た目にも明晰に実在していた因果関係がたちまち溶けてなくなり無効化していくまさにそのとき、ものごとの過程という因果関係を重視し組み立て直し再編しようとする態度が、近代社会という態度が、始めて出現したのである。
「ある種の共通な<シニフィエ>=意味されるもの(つまり逸脱とそれに対する規律・訓練)が、逸脱不正な行為のうちの最初の段階のものと、他方もろもろの犯罪のうちの最終的なものとのあいだを流通している」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
そうフーコーはいう。なるほど文章にすれば短くて済むし単純な事態だ。けれどもそれが単純に思えるのはもはや市民社会がこの事態をほとんどまったく不思議に思わなくなったということの証拠である。不断に行なわれる規律・訓練の過程としては、片田舎の学校の教室から地方都市の警察署の留置場、そして刑務所の独房に至るまで連続するものと化した。そのあいだに位置するどの場に配分されるかはその都度置き換え可能である。だから「逸脱したもの=囚人」の態度次第で刑罰=規律・訓練の場はしょっちゅう変わる。或るときは独房でありまた或るときは社会復帰を許され社会の中の一般的施設で新しい規律・訓練過程に再配分されるという動きを取る。要するに規律・訓練の対象はすべての国民へ一般化されたのであって、その社会的位置は学校生活の現場から監獄の奥底まで行ったり来たりを繰り返すことができるし、日本でも二〇二〇年になると、実際可能になっていることが見て取れる。このような傾向の加速化によって犯罪そのものは重視されなくなる。権力の関心は犯罪の重大さに代わって、監禁的なもの=<一望監視装置>の自己内在化が常に機能しているか、知-権力装置が十分に作動しているか、という個々人の自己点検へと重心を移動させる。したがって「罪」はもはや問題ではなく、問題なのは「逸脱と異常」というカテゴリーに対する敏感さと自己矯正へ移ってくる。だがもし「罪」があるとすれば、それは前に述べたような「形而上学的負い目」の意識である。
教育現場でいえば、たとえば或るクラスで「いじめ」が発生したとしよう。「いじめる側」と「いじめられる側」とのあいだには直接的関係がある。ところが「いじめ」を目撃しているにもかかわらず見てみない態度を取ったり止めようとしても体が動かず止められなかったりした生徒のあいだで起こってくるのが「形而上学的負い目」の意識である。この意識は「いじめ」が解決を見た後も、「いじめる側」と「いじめられる側」との和解が成立した後になってさえも、消えるということがない点に特徴がある。この傾向は教育課程を終えて社会人になる直前、形を置き換えて出現する場合が少なくない。まず職業選択の際に現われる。単純な事例を上げれば政治家を目指す場合。一方は、年少時代に一度ならず「形而上学的負い目」という形で去勢感情を負っているにもかかわらず、それを懸命に否認するための反動として始めから、いきなり政権与党に入りたがる傾向をもつ。他方は逆に、「形而上学的負い目」を否認するのではなく自分で自分自身が選んだ行動として認め、その上で徐々にそれを解消していこうという傾向であり、この種の人々は野党に多いとされる。どちらが良い悪いという狭い問題ではなく、むしろこの傾向は世界中どこにでも見られる一般的現象であって、「形而上学的負い目」の意識が人間の精神のどれほど深い部分まで喰い込み、根を張り、表面に現われる言動を根底から揺り動かしているかを如実に物語るものとして興味深い。
「それはもはや過ち〔=罪〕ではなく、共有的な利害への侵犯でももはやなく、逸脱と異常であり、それらこそが学校や裁判所や保護施設や監獄につきまとう。それらこそは監禁的なるものが戦術の方向へ一般化する機能を、意味の方向へ一般化する」(フーコー「監獄の誕生・P.299~300」新潮社)
ややわかりにくいが「戦術の方向へ一般化する」、「意味の方向へ一般化する」、というのはどういうことか。《性的欲望の装置》の分析を参照すると理解が早いかもしれない。次のように。
「その重要さをなすものは、その希少性あるいは一時性であるよりは、その執拗さ、その油断のならぬ現前であり、それが至るところで燃え上がらされていると同時に恐れられているという事実である。権力はそれを描き出し、掻き立て、増殖する意味としてそれを用いるが、しかしこの意味が逃がれ去らないようにと常に統御しておかなければならないのだ。性的欲望は《意味の価値をもつ作用》なのである」(フーコー「知への意志・P.186」新潮社)
またニーチェから二箇所引いておこう。
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)
「人間にその性欲を、子供をもうけるための《義務》としてしか意識させないような、高度に道徳的な虚偽がありうるかもしれない」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・九四四・P.508」ちくま学芸文庫)
さて第一項目の総括の要約は、だからこうなる。
「君主の敵対者(十九世紀はじめ以前の犯罪者像)、のちに社会への敵は、無秩序・犯罪・狂気などの多様な危険をはらむ偏向者へ変貌した」(フーコー「監獄の誕生・P.300」新潮社)
君主がいなくなったから、というわけでは必ずしもない。君主がいたとしてもなお、言語を通して、あるいは商品交換を通して、資本主義の中で人間の社会化が加速すればするほど「無秩序・犯罪・狂気」は以前の意味を失い、新しく「社会への敵」へと置き換えられていくのである。しかしこの傾向はすでに逆説を含んでいる。というのは「無秩序・犯罪・狂気」は資本主義の脱コード化(脱秩序化)の運動と極めて似ている点に注意しなければならないからである。資本主義的脱コード化(脱秩序化)の運動は《アナーキー》なのだ。ところがただひたすらアナーキーに徹するわけではない。資本の運動は資本自身で限界を設けている。たとえば或る種の法律が限界になることがある。それを押しのけるためには憲法改正しなければならない。今ある法律を押しのけ新しい法律に置き換えて、その上でさらなる再生産過程を開始することができる。逆にひたすら《アナーキー》に徹する運動は無限に多様な方向へと、全方向へとどんどん分裂していくばかりで限界というものを持たない。その意味で両者は決定的に異なる。だがこのアナーキー性なしに資本主義もないという点で、資本主義は自分で自分自身の中に逆説を含んでいるのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
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ジュネがその全生涯を通して常に警察の観察対象であり続けたのはジュネの言動の隅々にまで浸透して見える「非定住性」ということによる。この生活態度はただ単に「無職、犯罪者、性倒錯」といったカテゴリーでひとくくりにできないという理由だけで成り立つものでは全然ない。ジュネは、そして少年ベアスもまた、間違いなく「遊牧民」として出現することで、社会の中で社会に対して不安を掻き立てる役割を担っている。ジュネやベアスといった人々は、まったく何の刺激なしではたちまち弱体化して消滅してしまう市民社会に対して、何度となく刺激を与え、緊張感を張り巡らせ、社会的輪郭を際立たせ、社会規範をいつも明確化しておくよう働きかける。彼らは社会にとって異端者であると同時に社会を再生産し、ときには再編さえさせる社会的起動装置でもある。
もっとも、歴史的に見ればどの古代国家も例外なく、周辺地域で移動を続ける数々の遊牧民によっていつも攻撃を受ける危機にさらされることで始めて樹立されたものだ。チグリス=ユーフラテスという肥沃な土地で農耕を中心として発展したメソポタミア文明は黒海北部を拠点とする北方騎馬民族による度重なる侵入によって打ち固められた。それが交通の要衝だったバルカン地域を経由して始めてヨーロッパ文化が生まれた。また「匈奴、鮮卑、厥、氐、羌、柔然」といった遊牧民族の度重なる攻撃にさらされることで秦の始皇帝は万里の長城を築いた。その瞬間、中国という国家が出現したと同時に皇帝という地位が確立されたのである。だから遊牧民は非定住性と攻撃力の維持によって世界各地で古代諸国家の樹立に貢献したという二重性を帯びている。フーコーが少年ベアスをめぐる裁判過程の中で暗黙の裡に見出したのは、その野生というより、遥かに多様な意味での《アナーキー》であるということを忘れてはならない。
さて、十九世紀前半のフランスに戻ろう。規律・訓練という知-権力装置は一七八九年フランス革命以前にあった刑罰の意味をまったく別のものへ置き換えた。フーコーはその機能を総括的に六種類に分類している。まず第一点から見てみる。
「〔1〕この広大な装置は、緩慢で連続的で知覚できないくらいに漸進的な広がりを定めていて、その結果、人々は無秩序〔=放埒〕から法律違反へ、また反対方向として法律への違反から或る規則、或る平均的なもの、或る要請、或る規格などからの逸脱へいわば当然事でもあるかのように移しかえられてしまう」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
無秩序から法律違反へという一方の流れ。というより、国家にとってアナーキーに見えるすべての動きはただちに違法行為そのものとして取り扱われるようになったことを意味する。同時に他方、法律違反は「或る規則、或る平均的なもの、或る要請、或る規格などからの逸脱」として置き換えられた。しかしこのような変化はベンサムによる<一望監視装置>(パノプティコン)の発明にヒントを与えた事情からすればたいへん長い時間を経てようやく成立してきた事態だ。その意味で「緩慢」に進行したということができる。ベンサムにヒントを与えた事情というのは十七世紀から十八世紀にかけて大都市で何度も繰り返し発生したペストの蔓延とその際の行政側の対応策である。
「閉鎖され、細分され、各所で監視されるこの空間、そこでは個々人は固定した場所に組み入れられ、どんな些細な動きも取締られ、あらゆる出来事が記帳され、中断のない書記作業が都市の中枢部と周辺部をつなぎ、権力は、階層秩序的な連続した図柄をもとに一様に行使され、たえず各個人は評定され検査されて、生存者・病者・死者にふりわけられるーーーこうしたすべてが規律・訓練的な装置のまとまりのよいモデルを組立てる」(フーコー「監獄の誕生・P.199」新潮社)
ということがあった。もっとも、社会的規模の感染症というのはペストに限らず大都市でしか発生しないわけだが。ところで古典主義時代の刑罰は華々しい公開処刑をメインとして組み立てられていた。さらに違法行為といっても一元的基準に基づく一貫した刑罰体系があったわけではなく、罪悪は文字通り宗教的な次元であり、不品行はまた別の次元に属し、といったように、多元的区別がなされていた。しかし十九世紀初頭になると種々の違法行為のあいだにあった区別はあいまいになり違法行為の連続性という光景が出現する。「監視と処罰」という装置の一元的管理によって始めて違法行為の連続性という近代的光景が出現したわけである。各所に配置された処罰機構の連続性が、様々に区別されていた違法行為の次元的差異を消去しつつ連続的なものとして組織してしまう。それは次のような機構を通して行なわれる。
「監視と処罰の諸機構をふくむ監禁のほうは相対的な連続性の原則によって機能する。相互に結びつく諸制度〔=施設〕そのものの連続性(救済施設にはじまって孤児院、懲治監獄、感化院、教導部隊(若い罪人から成る囚人部隊)、監獄へいたる。学校から免囚保護団体、授産所、保護院、懲治修道院へいたる。労働者共同住宅地から施療院、監獄へいたる)」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
法律違反の次元的差異は消滅していくが、今度は一元的監視による違法行為の差異は逆にますます緻密にとことん細分化され、新たな差異を見出され、見出された差異はさらに細かく分割されてさらなる差異を発生させ、客体化され研究され、できるかぎり詳細に記録され蓄積され大きな稜線を描き出しつつ延々とした終わりのない観察過程を生じさせる。
「拡散的であれ緊密であれ多様な形式が特徴であり、規則や拘束を、ひそかな監視と執拗な強制を旨とする施設が中心である《監禁的なるもの》は、さまざまな懲罰の質的量的な伝達を確保して、軽微な刑罰と重大な刑罰を、ゆるやかな処罰と厳しい処罰を、ひどい評価と些細な判決を系列化したり、あるいはそれらを精密な区分によって配分したりする」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
だから監禁的な監視装置の社会的全体化はもはや、華々しい公開処刑という「結果」を必要としなくなる。無駄は省かれ廃止される。問題は規律・訓練であり、全国津々浦々まで行き届いた教育機関、医療機関、刑罰機関のすみやかな配備設置である。いつどこにいても匿名の誰かによって必ず見張られているという自覚を個々人の精神に植え付けることが目指されているのであり、規律・訓練を通して個々人自ら絶えず自分で自分自身の内面の動きを監視監督しているという<一望監視装置>(パノプティコン)の内在化こそ重要なのだ。そのぶん経済的(エコノミー)かつ効率的である。また、宗教的な次元で可能だった違法行為の区別撤廃はニーチェのいう「神の死」にともなう新しい神〔資本主義〕の出現とその世界化によって可能となった。だからこそ宗教的な見地から見るかぎりでは次元の異なる違法行為であっても、世界を制覇した資本主義社会では反社会的行為の連続性として一元管理のもとで裁くことができるようになったのである。もはや華々しい公開処刑は必要ない。それよりもっと経済策を、というわけだ。ふだんから娯楽に恵まれない民衆にとってどんでん返し的で見せしめ的で祝祭的でエンターテイメント的な公開処刑よりも、そこへ至るまでの過程こそが遥かに大事な監視対象として最重要課題となった。なぜなら、資本主義の全面的世界制覇によってはっきりしてきたことは、ニーチェが告発したように、ほかならぬ近代社会ではもはや「因果関係」は存在しないというただならぬ事情だったからである。この事情はマルクスが「資本論」で人間を「諸関係の所産」として、経済的諸カテゴリーとしてしか取り扱えないものとして、主体を括弧入れせざるを得なかった事情と同じである。唯一絶対的で特定可能な個人の消滅。マルクスもニーチェも近代社会の中に発見し見出したのは、人間というものが早くも多様な諸関係のうちに溶け込んでいくほかなく、実際に無限に延長され拡散する多様性としてしか捉えようがなくなっていく光景だった。絶対王政の時代にはなるほど明晰に残っていた因果関係という繋がりは資本主義という常に脱線していく諸力の運動によって解体された。それまで見た目にも明晰に実在していた因果関係がたちまち溶けてなくなり無効化していくまさにそのとき、ものごとの過程という因果関係を重視し組み立て直し再編しようとする態度が、近代社会という態度が、始めて出現したのである。
「ある種の共通な<シニフィエ>=意味されるもの(つまり逸脱とそれに対する規律・訓練)が、逸脱不正な行為のうちの最初の段階のものと、他方もろもろの犯罪のうちの最終的なものとのあいだを流通している」(フーコー「監獄の誕生・P.299」新潮社)
そうフーコーはいう。なるほど文章にすれば短くて済むし単純な事態だ。けれどもそれが単純に思えるのはもはや市民社会がこの事態をほとんどまったく不思議に思わなくなったということの証拠である。不断に行なわれる規律・訓練の過程としては、片田舎の学校の教室から地方都市の警察署の留置場、そして刑務所の独房に至るまで連続するものと化した。そのあいだに位置するどの場に配分されるかはその都度置き換え可能である。だから「逸脱したもの=囚人」の態度次第で刑罰=規律・訓練の場はしょっちゅう変わる。或るときは独房でありまた或るときは社会復帰を許され社会の中の一般的施設で新しい規律・訓練過程に再配分されるという動きを取る。要するに規律・訓練の対象はすべての国民へ一般化されたのであって、その社会的位置は学校生活の現場から監獄の奥底まで行ったり来たりを繰り返すことができるし、日本でも二〇二〇年になると、実際可能になっていることが見て取れる。このような傾向の加速化によって犯罪そのものは重視されなくなる。権力の関心は犯罪の重大さに代わって、監禁的なもの=<一望監視装置>の自己内在化が常に機能しているか、知-権力装置が十分に作動しているか、という個々人の自己点検へと重心を移動させる。したがって「罪」はもはや問題ではなく、問題なのは「逸脱と異常」というカテゴリーに対する敏感さと自己矯正へ移ってくる。だがもし「罪」があるとすれば、それは前に述べたような「形而上学的負い目」の意識である。
教育現場でいえば、たとえば或るクラスで「いじめ」が発生したとしよう。「いじめる側」と「いじめられる側」とのあいだには直接的関係がある。ところが「いじめ」を目撃しているにもかかわらず見てみない態度を取ったり止めようとしても体が動かず止められなかったりした生徒のあいだで起こってくるのが「形而上学的負い目」の意識である。この意識は「いじめ」が解決を見た後も、「いじめる側」と「いじめられる側」との和解が成立した後になってさえも、消えるということがない点に特徴がある。この傾向は教育課程を終えて社会人になる直前、形を置き換えて出現する場合が少なくない。まず職業選択の際に現われる。単純な事例を上げれば政治家を目指す場合。一方は、年少時代に一度ならず「形而上学的負い目」という形で去勢感情を負っているにもかかわらず、それを懸命に否認するための反動として始めから、いきなり政権与党に入りたがる傾向をもつ。他方は逆に、「形而上学的負い目」を否認するのではなく自分で自分自身が選んだ行動として認め、その上で徐々にそれを解消していこうという傾向であり、この種の人々は野党に多いとされる。どちらが良い悪いという狭い問題ではなく、むしろこの傾向は世界中どこにでも見られる一般的現象であって、「形而上学的負い目」の意識が人間の精神のどれほど深い部分まで喰い込み、根を張り、表面に現われる言動を根底から揺り動かしているかを如実に物語るものとして興味深い。
「それはもはや過ち〔=罪〕ではなく、共有的な利害への侵犯でももはやなく、逸脱と異常であり、それらこそが学校や裁判所や保護施設や監獄につきまとう。それらこそは監禁的なるものが戦術の方向へ一般化する機能を、意味の方向へ一般化する」(フーコー「監獄の誕生・P.299~300」新潮社)
ややわかりにくいが「戦術の方向へ一般化する」、「意味の方向へ一般化する」、というのはどういうことか。《性的欲望の装置》の分析を参照すると理解が早いかもしれない。次のように。
「その重要さをなすものは、その希少性あるいは一時性であるよりは、その執拗さ、その油断のならぬ現前であり、それが至るところで燃え上がらされていると同時に恐れられているという事実である。権力はそれを描き出し、掻き立て、増殖する意味としてそれを用いるが、しかしこの意味が逃がれ去らないようにと常に統御しておかなければならないのだ。性的欲望は《意味の価値をもつ作用》なのである」(フーコー「知への意志・P.186」新潮社)
またニーチェから二箇所引いておこう。
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)
「人間にその性欲を、子供をもうけるための《義務》としてしか意識させないような、高度に道徳的な虚偽がありうるかもしれない」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・九四四・P.508」ちくま学芸文庫)
さて第一項目の総括の要約は、だからこうなる。
「君主の敵対者(十九世紀はじめ以前の犯罪者像)、のちに社会への敵は、無秩序・犯罪・狂気などの多様な危険をはらむ偏向者へ変貌した」(フーコー「監獄の誕生・P.300」新潮社)
君主がいなくなったから、というわけでは必ずしもない。君主がいたとしてもなお、言語を通して、あるいは商品交換を通して、資本主義の中で人間の社会化が加速すればするほど「無秩序・犯罪・狂気」は以前の意味を失い、新しく「社会への敵」へと置き換えられていくのである。しかしこの傾向はすでに逆説を含んでいる。というのは「無秩序・犯罪・狂気」は資本主義の脱コード化(脱秩序化)の運動と極めて似ている点に注意しなければならないからである。資本主義的脱コード化(脱秩序化)の運動は《アナーキー》なのだ。ところがただひたすらアナーキーに徹するわけではない。資本の運動は資本自身で限界を設けている。たとえば或る種の法律が限界になることがある。それを押しのけるためには憲法改正しなければならない。今ある法律を押しのけ新しい法律に置き換えて、その上でさらなる再生産過程を開始することができる。逆にひたすら《アナーキー》に徹する運動は無限に多様な方向へと、全方向へとどんどん分裂していくばかりで限界というものを持たない。その意味で両者は決定的に異なる。だがこのアナーキー性なしに資本主義もないという点で、資本主義は自分で自分自身の中に逆説を含んでいるのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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