白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ372

2024年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年七月八日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昨夜のこと。

 

古くは「草木も眠る丑三つ時」といった感じか。

 

飼い主は慢性的不眠ゆえ真夜中でもちょっとした物音で目が醒めることが多い。

 

耳を澄ますと廊下でタマが少しばかり騒いでいる。

 

なんだろうと思い廊下へ行こうとしたら廊下へ出るドアが閉まっている。

 

そういうことか。

 

ドアを開けて廊下で遊んでいるうちに何かのはずみでドアを押して閉めてしまったようだ。タマはドアノブを回して押し開けることはできても手前へ引きながら開けることはできない。そこで困ったことになったと廊下をうろうろ鳴き声をあげてアピールすることになった。

 

ドアを開けてやるとたたたとリビングへ戻ってきた。

 

そしてソファに飛び乗ると安心したのかしばらくするとすやすや居眠りはじめたのだった。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。クロノス・クァルテット&フレンズ。サン・ラーへのトリビュートアルバム。ひと癖ふた癖ある多彩な面々が集まった楽しいトリビュートヴァージョン。ひとりひとりの参加アーティストの名を見ればさすがに個性の塊。それがレッド・ホット・オーガニゼーションとクロノス・クァルテットという軸のもとで単なる意外性だけでない考えられたまとまりを聴かせる。


Blog21・「移動民」の経験と学び

2024年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

世界の至るところで発生中の移動民に向けて押し付けられがちな「ラベル」から「脱アイデンティティ化」への動きについて。

 

松村圭一郎はこれまで流通してきたコスモポリット(コスモポリタン)の概念についての批判をミシェル・アジエから引く。

 

「『コスモポリット(コスモポリタン)』という言葉は、一般にはグローバル化した生き方に結びつけられ、国をまたいで活動する専門家やテクノクラート、リーダーやクリエイターたちを指している。社会学者のジグムント・バウマンは、そうした人びとを『グローバル階級』と呼んだ。しかしアジエは、彼らは確かに地球という球体のなかで生きているが、ほとんど、あるいはまったく、会議場やホテルなどから外に出ることがない、という。彼らが本当に住み処を変えることはない」(松村圭一郎「海をこえて(11)」『群像・8・P.511』講談社 二〇二四年)

 

国境地帯は一見するとただ単なるカオスでしかないかのように映って見える。ところがそこには何年間も常に緊迫した国境の経験から新しく生まれる「コスモポリティスム」の萌芽がすでに見られる。そうアジエはいう。暴力的国境地帯を経験した移動民たちは「世界を分有する経験」をこれからのヒントとして手に入れてもいるようだ。

 

「境界的状況では、ときにどれだけ不平等で暴力的であっても世界を分有する経験が生じている。アジエが提起する『コスモポリティスム』は、世界の具体性、その荒々しい試練を受けている人たちの経験、国境を通過する時間と空間のなかに広がりうる経験からくるものだ」(松村圭一郎「海をこえて(11)」『群像・8・P.512』講談社 二〇二四年)

 

多くの野営地や不法占拠地ができたフランスのカレー。二〇一五年、フランス政府による彼ら移動民の強制退去が執行された。しかし肝心なことはそのとき移動民たちの間から表面化してきたスローガンがただ単なる「同情主義的救済」ではなくれっきとした政治性を帯びていた点だろう。

 

「二〇一五年の『危機』のなかで、カレーの移動民は、国民国家の国境を閉鎖するというヨーロッパ的『統治』に反対して行動に出た。町と港のあいだでプラカードを掲げ、スローガンを叫び、フランスとイギリスの政策の非人道性を告発する公開状を配布し、国境の解放と人権の尊重を求めた。その姿は『犠牲者』や『犯罪者』として、同情や恐怖をかきたてるといった表象とは異なる政治的言説を手にすることを示していた。彼らは自分たちにとって不正義や暴力として現れてくるものに対して、みずからを『抗う者』として政治化させる。そこで語られる『人間の諸権利』、『自由』、『敬意』、『人間性』といった言葉が、共通で普遍的な政治の言説となっていく。

 

ーーー国境に堰(せ)き止められた移動民たちが表明する『政治の形態』からは、国境と人間の可動性を位置づけ、コスモポリットな主体の政治とは何か、考えさせられる。この言葉は、来たるべき世界の前兆となる政治性を帯びており、『国境を民主化しなければならない』という哲学者エティエンヌ・バリバールの提案を受けとるよう、私たちを導く」(松村圭一郎「海をこえて(11)」『群像・8・P.512~513』講談社 二〇二四年)

 

さらにグレーバー+ウェングロウはいう。

 

「いっぽう、旧石器時代以降の証拠は、多数のーーーおそらくほとんどのーーー人びとが、一年のさまざまな時期に異なる社会秩序を想像したり上演したりするだけでなく、実際にそうしたさまざまな社会秩序のうちに特定の期間、生活していたことを示唆している。とすれば、わたしたちの現在の状況との対比は、これ以上ないほどはっきりしている。今日、わたしたちのほとんどは、オルタナティヴな経済秩序や社会秩序がどのようなものであるか、想像することさえますます困難になっているのだから。それと対照的に、わたしたちの遠い祖先は、そうした複数の秩序のあいだをたびたび往来していたようにみえるのだ」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.569」光文社 二〇二三年)

 

ごく最近の考古学的成果から先史時代にはもろもろの選択肢がたくさんあったことがわかってきた。

 

(1)「東アフリカのハッザ族やオーストラリアのマルトゥ族などの調査によると、今日の狩猟採集社会は数的には小規模かもしれないが、その構成はおどろくほど国際的(コスモポリタン)だ。狩猟採集民のバンド(集団)がより大きな居住集団としてまとまっても、けっして近しい親族のみで構成されているわけではないのだ。実際、生物学的要素を主因とする関係は平均で10%を構成するにすぎない。ほとんどのメンバーが、よそからの、しかもその多数がかなり遠方からの流入組であり、同一言語を共有していなかったとすら考えられる」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.138」光文社 二〇二三年)

 

(2)「たとえば、オーストラリアのアボリジニは、大陸の半分を旅して、まったく異なる言語を話す人びとのあいだを移動しても、それでもまだ故郷と同種のトーテム半族に分割されたキャンプをみつけることができた。つまり、半分の住民は、かれらを歓待する義務があるが、(性的関係は厳禁である)『兄弟』、『姉妹』とみなされた。いっぽう、もう半分は、潜在的な敵であるが、同時に婚姻のパートナーとみなされた。おなじように五〇〇年前の北アメリカ人は、五大湖畔からルイジアナの湾岸まで移動しても、歓待し食事を与える義務のあるーーーまったく異質の言葉を話すーーーみずからとおなじクマ、ヘラジカ、ビーバーなどのクラン(氏族)のメンバーからなる居住地をみつけることが可能だった」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.138」光文社 二〇二三年)

 

新自由主義が実質的に世界を地球規模の崩壊へ導いている以上、考え直すチャンスやヒントはもっとあるだろうしもっと作ることができるに違いない。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて846

2024年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

まとまって眠れたとはあまり言えない

 

考えないといけないことが山ほどある

 

以前からそうだった

 

これからもしばらくは続きそうで

 

なんとも情けなくだらしのない二週間の都知事選の様子を伺いつつ

 

未来はますます暗いという手応えばかりがけだるく残る朝

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。


Blog21・「馴れ合い」政治の断片としての都知事選結果

2024年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

「群像」発売日を間違えていた。いつもは毎月七日。大型連休や年末年始を挟む場合は変則で、その前日ではなくたいてい後日。八月号もてっきり休日明けの七月八日(月曜日)だろうと思っていたのだがもしやと思いネットで検索すると逆で七月五日(金曜日)発売とある。

 

とっとと昼食の後片付けを済ませてすぐ近くのスーパーに入る書店へ駆けつけて買ってきた。

 

帰宅後ざざっと見渡してようやくコーヒーでひと息入れる。

 

夕食後は東京都知事選報道。

 

見なくてもわかっている結果をわざわざ見るのも気が重い。

 

見ておきたいのは幾つかの放送局で報道にどのような違いが強調されているかというところ。

 

保守系とそれ以外という構図があったかのように見えるのはただ単にそう見えるというだけのことで実質はまるで違う。マス-コミ自身が最もよく承知した上で読者・視聴者にそう思わせている「茶番」に過ぎない。

 

だからといって「選挙に行っても無駄」とか「なるようにしかならない」という選択は有権者の側がしばしば思い込みがちな、これまた間違った有権者の側の自惚れでしかない。

 

それにしても二〇二三年のこと。その九月一日で百年目を迎えた関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文拒否問題を起こして平然たる政治家が都知事を務めている。どんな政治家なのかほぼわかりきっているというのに今回の都知事選でも当選した。

 

都民は今後の世界がどのように動いていくのか、何がどんなふうになろうとしているのか、率直なところ地方都市から見ていて危なっかし過ぎる気がする。いずれ都知事として外交面で幾つもの難題に見舞われることになるだろう。

 

もうひとつ。民主党から離脱して立候補したわけだが結果的に敗北した女性政治家について。関東大震災の朝鮮人犠牲者を実際の歴史から消してしまおうとする当選者とはまた別の問題がある。

 

南葛飾労働組合員が震災のどさくさに紛れて警察関係者ら治安当局者に荒川河川敷で虐殺・斬首・堤防の地下に埋められるといった事件が発生した。「亀戸事件」。

 

ところが今の野党はどうか。

 

ほとんどどこを見てももはや「労使馴れ合い」路線であって保守・反動とどこがどれほど違うのか。さっぱりという有り様。その調子で少子高齢化社会と世界的軍事/商品社会化に向けて何か有効な対抗軸を作っていけると考えるのが現状ではそもそも甘い。

 

安全保障なら幾らでも貨幣が回っていくというのに国民とそのさらなる「難民化」への問いを鋭く射程に入れた肝心の社会保障を後回しにせざるを得ない「労使馴れ合い」に味を締めてしまった現状では、ますます有権者からわけのわからない巨大政党のひとつとして次第に忘れられていくほかないだろう。

 

首都東京の側から疲弊する地方を幾ら見ていても多くの人々が望む細かなケア(教育・医療・生活格差解消)は決してできない。一億人の地方在住者が納得のいく政策にこつこつ取り組み広々とした地平を切り開いていこうと具体的な動きを模索することにともすれば躊躇をおぼえてしまうほど。

 

それにしてもNHKのアナウンサーは揃いも揃って現職知事の再選について、この上ない喜びが抑えきれないかのようなうきうきした表情で報道していたが何か深い意味合いでもあるのだろうか。