現代人は「答え」ばかり探すことに日々明け暮れている。
「この一冊で丸わかり!」とかいうキャッチコピーが溢れかえっている世界でなお人々は全力最速で「検索」に打ち込みほいほい上がってくる「答え」らしきものを逐一チェックしないではいられない。
「新作ドラマ、映画のリメイク、アマゾンで一位の小説、制作秘話」等々どれもあらかじめ用意された「答え」がすでにかつ瞬時に出揃う形になるものばかりで埋め尽くされているかのようだ。
今朝はぼんやり新聞をちらほら。
文化面を見やると古川日出男が似たようなことに触れている。
いまや「検索、ドラマ、映画、小説」などは「答え」の洪水。しかし最大の関心は「答え」ではなく逆に「問いかけてくる小説」にあると。
読者としても実際、来る日も来る日も「問い」に満ちた日常を生きているわけだしそう考えるのはごく普通に当たり前におもえる。
例えばすべての予定調和を取っ払ってしまい「疎外とは何か」を問う作品。小説ではAIやネット検索を取っ払った上で「疎外とは何か」を「問いかける」ことができる。あらかじめ大筋で整理要約された「答え」がそこにはない。
また「厄介な仕事」の当事者側に立った人物が増幅する一方の「問いかけ」の中に置かれる。もしAIがより一層高度化すればすぐさま「答え」を出してくれるようになるだろう。ところが動物園あるいは動物と人間との関わりという「問い」の中では、その最新の「答え」がただちにさらなる「問い」へと転化しないわけにはいかない場所でもある。
ほかにも幾つかの作品が紹介されている。豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」は群像六月号で読んで面白かった。なるほど「それぞれの語り手がそのまま多数の声で語りかけている」。そのすべての「声」はそっくりそのまま「問い」の「共有」として成立している。
個人的に十代の頃から「問い」に満ちた小説が好きだった身として思う。
「答え」ばかり満載したハウツー本はもちろんのこと、あらすじを聞かされただけで「答え」が見え見えのベストセラーが売れまくり読まれまくる昨今の全体主義には閉口するほかない。だが小説の読者あるいは小学校高学年、ましてや思春期にもなれば、ありふれた「答え」の洪水それ自体が教科書的にアップデートされるに過ぎない堤防をふいに決壊させ、逆説的に「問い」に満たされた世界を突きつけてこずにはおかないことを知っている。
ゆえに文学は<世間の隅>のほうにぽつんと追いやられていながらも実は「問いかける」ことを忘れることができない。今後とも供給されるほかない「問い」をよろしく。