暑苦しい日が続いている。
鬱病者にとっては気持ちの切り換えがとても大事な時期だ。
ここ三ヶ月分の短歌を読み返してみた。
五月号のテーマは「車窓」。
「<ソープランド>のネオンが浮かんですぐ消えて下半身からホームに降りる 弘平谷隆太郎」(木下龍也「群像短歌部(第11回)」『群像・5・P.570』講談社 二〇二四年)
瞬時に出現するともう消えている独特の「ネオン」。風俗に限った話ではないかもしれない。ところが時代は確実に変わっているというのに「<ソープランド>のネオン」というか「建築」は周囲の変化にもかかわらずなぜか変化を感じさせない「不意打ち的」デザインが採用されていて昔から不思議だった。その瞬間を捉えた読み手が「下半身から」あるいは「下半身だけ」を瞬時に二重化している。自己二重化の「瞬」をうまく捉えているように思える。
「べったりと付いた手形が家々にかさなりながら都心に向かう シラソ」(木下龍也「群像短歌部(第11回)」『群像・5・P.573』講談社 二〇二四年)
電窓の風景は目の前のガラスに「べったりと付いた手形が家々にかさなり」合いながら並走しないわけにはいかない。言葉にするといかにも生々しいわけだがそこを敢えて取り上げて面白いと思わせるところが面白い。
「駅名が読めるくらいにゆっくりになって読めたらどうでもいいや 茂呂直人」(木下龍也「群像短歌部(第11回)」『群像・5・P.574』講談社 二〇二四年)
選者のいうように「最初のうちは速くて無理なのだが、電車のスピードが落ちていくと次第に”読める”ようになる。けれど、判読不能な文字列に興味を惹かれていただけだから、”読めた”途端に”どうでもいいや”となる」。読者としてもよくある話で苦笑しながら強く頷いてしまえる。
六月号は休載。で七月号から。
「冷蔵庫上で見つかる隠毛のように私も高く飛びたい 絶対に終電を逃さない女」(木下龍也「群像短歌部(第12回)」『群像・7・P.540』講談社 二〇二四年)
普段なら考えにくい場所でなんの気なしに見つけてしまうことのある「陰毛」。屋外で見かけたことはあまりないが大型ショッピングセンターの家具売り場やコンビニのガレージに止めてある車の屋根とかをたまに浮遊している。それはそれとしてリアルなのは読み手が「飛びたい」と考える場所と「高く飛びたい」と考える場所とが違っているのではと思わせる「意外性」。リアルでは飛べるところまでしかもちろん飛べない。逆に思いも寄らぬ「意外な」場所へと本当のところは「飛びたい」のでは。どこまでも手堅く生きる人々と案外簡単に「飛んでしまえる」人々とのライフスタイルの違いまで考えさせられる。
「フリルって花びら・うろこ・さざなみのレプリカ 淡く世界に触れる 石川真琴」(木下龍也「群像短歌部(第12回)」『群像・7・P.541』講談社 二〇二四年)
昨今の乱暴この上ない社会の中にいるととにかく疲れる。日々これ望んでいない修行のようだ。そこで「花びら・うろこ・さざなみのレプリカ」という言葉の流れは無理なく読み手の心にすとんと入ってくる。大事なセンスに思える。ところがしかしそもそもこの一首が目に行くのはなぜだろう。世間の暴風雨が過剰飽和でところどころ破綻している証拠のひとつに数え上げられるのではとも思える。
「のんびりと浮かぶそぶりで県外へ迷うことなく向かう雲たち 山下ワードレス」(木下龍也「群像短歌部(第12回)」『群像・7・P.542』講談社 二〇二四年)
「そぶりで県外へ」。その通りだろう。地方都市はどこも少子化で大変。デジタル化すればするほど政治政策とは裏腹に人間は大都市集中へ向かうという逆説。
「わたぼこりあつめるしごと(ねんまくとかみのおかねを引きかえにして) 高山准」(木下龍也「群像短歌部(第12回)」『群像・7・P.543』講談社 二〇二四年)
意味深な歌なのだろうか。しかし「意味深」とはどういう意味で言うのだろう。わざわざ「意味深かも」と考えてしまう側がひょっとしておかしいのだろうか。おかしいかもしれないけれども面白い一首。なぜ「ひらがな」なのかというところから読ませる。
八月号。陰りが見え始めてすでに久しいファストフード業界。さらにコンビニでさえ地域差を含めあちこちで迷走しているかのようだ。
「顔全部マックシェイクで吸い寄せるだれも代わりに生きてくれない 把手」(木下龍也「群像短歌部(第13回)」『群像・8・P.498』講談社 二〇二四年)
絵になりそうな一首なのだが「だれも代わりに」というフレーズは生きていく上での「懸命さ」を一段と浮き上がらせるためユーモアと一体化させながら普段は不可視かつ無意識レベルの底深い怖さが彫り込まれていてストレートに思えるも本当はとても切実な話に見えてくる。
「揚げたてのポテトの息が中指の付け根にかかる霧雨の帰路 長尾桃子」(木下龍也「群像短歌部(第13回)」『群像・8・P.498』講談社 二〇二四年)
誰しも一度は経験がありそうな一瞬。たまに見かける歌なのだけれどほんのときたま。ときたまでいい歌かもしれないが万人が万人とも忘れ去ってばかりではいけないだろう。そこは気をつけないと。大切なのは必死で工夫することだけではなく読み手の気持ちにまだ残されているこのようなセンスであり感覚こそ食品でなくて他のものが対象であっても季節とはまた別にあるいは季節に関係なく「あっ」と気づいてくれる人は気づいてくれる、その日常の態度にあると思われるからである。
「イニシャルとおんなじMが空にありわたしなんでも誇らしかった シラソ」(木下龍也「群像短歌部(第13回)」『群像・8・P.499』講談社 二〇二四年)
口うるさい先輩格の話を聞いていると無性にいらいらしてくることが少なくない。年齢に関係なく。しかしこの一首はそのような歌の世界の陰湿な<掟>とは無縁の場所で詠まれた印象を受ける。偉そうで重々しいだけの歌を詠んで人生の酸いも甘いも噛み分けたと周囲から不相応に持ち上げられている「大先生」が見たとしたら、とりわけ「わたしなんでも」というフレーズなどはただ単に「若いね、頑張りなさい」と心にも思っていない言葉で軽くあしらわれてしまいそうな部分。ところがその種の「大先生」の時代はとっくの昔に終わっている。むしろ「わたしなんでも」ときっぱりささっと言葉化できる速度が重々しい大時代を遠く突き放してからっとした解放感を感じさせて頼もしい。