嘗て私が30才台の時代は先輩連の背中を追っていた。
誰しも碁会所などで碁を打っていれば、他人より強くなりたい、あるいは強い人みたいになりたいと思うものです。
但し私がその頃感じた事ですが、碁会所などでは曖昧な表現になりますが「楽しみ中心」で打っている人が多かったと思います・・・当時通っていた碁会所では一番若かった私から見てオジサンたちの多くがそういう風に見えました。
確かに楽しく囲碁を打つのは良い、でもオマケの結果として強くなると言うよりは(訊けばだれだって「強くなりたい」応えるにきまっています)、なるべく強くなるような近道的な接し方もあるのではないかと考えたものです。
その割には自分自身の結果が大したものではありませんが・・・でも仲間と「打つ」=「楽しい」だけでなく、今よりも「強くなりたい」、「強く成れると楽しい」という要素を感じながら接していたということでしょう。
具体的には、「なるべく局後に出来るところまで並べ直して、対局相手から悪い手などを教えて貰う」「強い人に意見を訊く」「強い人に打って貰う」「出来るだけ本などを読んで、囲碁との接触を密にする」・・・特に目新しいものはありません。
でも、碁会所などでは「楽しみ専科」的な初二段の人が多いので、まずそこを乗り越えようと考えたのですが、そう言う叔父さん達からも多少煙たがられたようなところはあります。
もしかしたら、同じ囲碁仲間と言うよりも、やがては自分たちより強くなるに違いない若い奴と言う感じで「みにくいアヒルの子」だったかも知れません(多少仲間はずれと言うか、人種が違うと言うか)。
ハクチョウには未だ成れず終いですが・・・
師匠格の人に初めは5子で教えて貰っていたのが3子になり、いつかは先で打てる日が来ることを夢見ていたものです。
その頃はザルはザルなりに何か自信らしいもの、”以前よりは強くなったかな”というか碁盤が見えるようになったと感じたり・・・錯覚にせよそう思うのは、ますます囲碁に入り込んでいく推進力にはなった筈です。
年を重ねて、アマチュアの世界で、県の代表格のレベルとは程遠いものの、そういう人と面識が出来たり、かなりローカルレベルではあるが小さなサークルでは上の方にランクされるようになると、満足とは言えないけれど、年令的にもこの先の伸びは無いだろうから「こんなところ」かなとも思うようになる。
要するに己の限界点を自覚すると言うか・・・
マア「限界は自分で作る」とも言いますが、それは努力するかなりパワーのあるエンジン搭載の人か、既にアマの領域とは程遠い高みに登った人の言葉のような気がします。
「諦めるのは寂しい」から「諦めるわけではないけれど」しかし「遥かかなたの到達点には着きそうもない」とも思っている・・・マアそんなところ。
こうなると、上ばかり見ていると躓いて転ぶ危険がある。
嘗て私が30代の頃に上の人を追いかけたように、40代の頃師匠の背中が見えたと思ったように、背中をつかめると感じたように・・・きっと若い人に追いつかれて抜かれて行くに違いない。
いや、既に嘗て置かせた若い人に置かなくてはいけないかもしれません。
せめて出来ることは、できるだけ長く並走状態を維持できるか。
おかげさまで囲碁の場合は他のスポーツのように単純な体力比較では無いところで、実年令より自覚する年令感覚の方が大事ですが。
それにしても、いつまで並んでいけるかは分かりませんが、ペーパードライバーでは無い囲碁ファンを続ける以上は続けようとしなければいけないようです。
「現状維持」問題と言うと、個人的には健康問題がある。
二つのクリニックのお世話になっていて、毎月一つで検診、もうひとつで検査・指導、さらに総合病院で3カ月ごとにチェックがあり、ホルター24時間とか心臓超音波撮影とか、首の血管造影とか・・・まさにサイボーグ一歩手前の心境です。
それでいて嘗ての主治医からは
「完治と言うことは無いです」
「出来たら仕事で無理しない方が良いですが・・・」
「将来必ずバイパスが必要となる筈ですから、何かの事故が起こる前に早目にやっておいた方がいいかも知れません。」という診断結果が耳を離れない。
要するに精一杯頑張っても現状維持で、将来はどこかの時点で必ず機能がレベルダウンする筈という御託宣。
気持ちは「頑張る」「現状維持」でも、気持ち通りにはなりませんと言われているが、ともあれ趣味でも健康でも「現状を維持せよ!」と言うのが至上命令と言う事です。
それにしても至上命令とはいってもレベルが低いところなので、そこが悲しい。
誰しも碁会所などで碁を打っていれば、他人より強くなりたい、あるいは強い人みたいになりたいと思うものです。
但し私がその頃感じた事ですが、碁会所などでは曖昧な表現になりますが「楽しみ中心」で打っている人が多かったと思います・・・当時通っていた碁会所では一番若かった私から見てオジサンたちの多くがそういう風に見えました。
確かに楽しく囲碁を打つのは良い、でもオマケの結果として強くなると言うよりは(訊けばだれだって「強くなりたい」応えるにきまっています)、なるべく強くなるような近道的な接し方もあるのではないかと考えたものです。
その割には自分自身の結果が大したものではありませんが・・・でも仲間と「打つ」=「楽しい」だけでなく、今よりも「強くなりたい」、「強く成れると楽しい」という要素を感じながら接していたということでしょう。
具体的には、「なるべく局後に出来るところまで並べ直して、対局相手から悪い手などを教えて貰う」「強い人に意見を訊く」「強い人に打って貰う」「出来るだけ本などを読んで、囲碁との接触を密にする」・・・特に目新しいものはありません。
でも、碁会所などでは「楽しみ専科」的な初二段の人が多いので、まずそこを乗り越えようと考えたのですが、そう言う叔父さん達からも多少煙たがられたようなところはあります。
もしかしたら、同じ囲碁仲間と言うよりも、やがては自分たちより強くなるに違いない若い奴と言う感じで「みにくいアヒルの子」だったかも知れません(多少仲間はずれと言うか、人種が違うと言うか)。
ハクチョウには未だ成れず終いですが・・・
師匠格の人に初めは5子で教えて貰っていたのが3子になり、いつかは先で打てる日が来ることを夢見ていたものです。
その頃はザルはザルなりに何か自信らしいもの、”以前よりは強くなったかな”というか碁盤が見えるようになったと感じたり・・・錯覚にせよそう思うのは、ますます囲碁に入り込んでいく推進力にはなった筈です。
年を重ねて、アマチュアの世界で、県の代表格のレベルとは程遠いものの、そういう人と面識が出来たり、かなりローカルレベルではあるが小さなサークルでは上の方にランクされるようになると、満足とは言えないけれど、年令的にもこの先の伸びは無いだろうから「こんなところ」かなとも思うようになる。
要するに己の限界点を自覚すると言うか・・・
マア「限界は自分で作る」とも言いますが、それは努力するかなりパワーのあるエンジン搭載の人か、既にアマの領域とは程遠い高みに登った人の言葉のような気がします。
「諦めるのは寂しい」から「諦めるわけではないけれど」しかし「遥かかなたの到達点には着きそうもない」とも思っている・・・マアそんなところ。
こうなると、上ばかり見ていると躓いて転ぶ危険がある。
嘗て私が30代の頃に上の人を追いかけたように、40代の頃師匠の背中が見えたと思ったように、背中をつかめると感じたように・・・きっと若い人に追いつかれて抜かれて行くに違いない。
いや、既に嘗て置かせた若い人に置かなくてはいけないかもしれません。
せめて出来ることは、できるだけ長く並走状態を維持できるか。
おかげさまで囲碁の場合は他のスポーツのように単純な体力比較では無いところで、実年令より自覚する年令感覚の方が大事ですが。
それにしても、いつまで並んでいけるかは分かりませんが、ペーパードライバーでは無い囲碁ファンを続ける以上は続けようとしなければいけないようです。
「現状維持」問題と言うと、個人的には健康問題がある。
二つのクリニックのお世話になっていて、毎月一つで検診、もうひとつで検査・指導、さらに総合病院で3カ月ごとにチェックがあり、ホルター24時間とか心臓超音波撮影とか、首の血管造影とか・・・まさにサイボーグ一歩手前の心境です。
それでいて嘗ての主治医からは
「完治と言うことは無いです」
「出来たら仕事で無理しない方が良いですが・・・」
「将来必ずバイパスが必要となる筈ですから、何かの事故が起こる前に早目にやっておいた方がいいかも知れません。」という診断結果が耳を離れない。
要するに精一杯頑張っても現状維持で、将来はどこかの時点で必ず機能がレベルダウンする筈という御託宣。
気持ちは「頑張る」「現状維持」でも、気持ち通りにはなりませんと言われているが、ともあれ趣味でも健康でも「現状を維持せよ!」と言うのが至上命令と言う事です。
それにしても至上命令とはいってもレベルが低いところなので、そこが悲しい。