昔囲碁仲間にYさんと言う人がいまして、この方の声が普通の男の人の声より高くて、ヴォリュームも大きめに設定されていましたから、碁会所ではこの方の話声が響く事になります。
本人はいたって普通に話しているつもりでも遠くまで響いてしまう・・・近所迷惑など意識していませんが、彼の普通は周囲からは迷惑な事も有る。
だからM病院の院長先生など、「五月蠅いジイサンが隣にいた」などと遠慮なく言うのですが、本人はなんの事か分かっていないので一向にこたえていない・・・そういう意味では案外結果的にせよ精神力が強いと言えるのかも知れませんね。
強いと言えば彼は良く「先生方は強い」という言い方をする。
ナニ彼には自分の上手は皆「先生」になるので彼の先生はインフレ状態ではあるが。
それで「先生方は強い」の続きはこうなる。
「強い先生方は皆意地の悪い手を打つから強い」、それで彼の論法では「意地が悪くなければ強くなれない」となるわけです。
マア、結果としてYさん自身は意地が悪くないから上手に弱いと言う事になるようです。
これは冗談での会話ではあるが、ただ級位の人の中には同じような気分の人もいるようなので、そういう要素はあるのかも知れない。
私が思うのは普段からの性格、所謂人間性と言う事ではなくて、ゲームの時にそれに適したように切り替えられるかどうかだと思うのです。
例えば囲碁を打つ時
[相手の弱みを徹底的に突く][相手の誤りは決して許さない][相手の傷には塩も唐辛子も擦り込][相手が好調で上手く行っていると考えているような時な、やり過ぎを待つし落とし穴を用意もする][場合によっては小さな過ちをいちいち指摘しないで決定的な場面で追及する]・・・言葉にすると相当嫌な性格。
対局寸前までは「仏の○○」などとおだてられていたとしても、対局が始まると人格をがらっと変えられるかどうかが問題。
ジギル博士とハイド氏が混在して順繰りに現れるのではなくて、囲碁を打つ時・ゲームに臨む時とその他の時では違うと言う事でしょう。
良く冗談で「ハンドルを握ると性格が変わる人」がいますが、良い悪いはともかく本人にとっては精神仕様を運転バージョンにしているのかも知れない・・・。
マア運転は勝負事では無いのでゲーム仕様での運転は怖いけれど。
本人はいたって普通に話しているつもりでも遠くまで響いてしまう・・・近所迷惑など意識していませんが、彼の普通は周囲からは迷惑な事も有る。
だからM病院の院長先生など、「五月蠅いジイサンが隣にいた」などと遠慮なく言うのですが、本人はなんの事か分かっていないので一向にこたえていない・・・そういう意味では案外結果的にせよ精神力が強いと言えるのかも知れませんね。
強いと言えば彼は良く「先生方は強い」という言い方をする。
ナニ彼には自分の上手は皆「先生」になるので彼の先生はインフレ状態ではあるが。
それで「先生方は強い」の続きはこうなる。
「強い先生方は皆意地の悪い手を打つから強い」、それで彼の論法では「意地が悪くなければ強くなれない」となるわけです。
マア、結果としてYさん自身は意地が悪くないから上手に弱いと言う事になるようです。
これは冗談での会話ではあるが、ただ級位の人の中には同じような気分の人もいるようなので、そういう要素はあるのかも知れない。
私が思うのは普段からの性格、所謂人間性と言う事ではなくて、ゲームの時にそれに適したように切り替えられるかどうかだと思うのです。
例えば囲碁を打つ時
[相手の弱みを徹底的に突く][相手の誤りは決して許さない][相手の傷には塩も唐辛子も擦り込][相手が好調で上手く行っていると考えているような時な、やり過ぎを待つし落とし穴を用意もする][場合によっては小さな過ちをいちいち指摘しないで決定的な場面で追及する]・・・言葉にすると相当嫌な性格。
対局寸前までは「仏の○○」などとおだてられていたとしても、対局が始まると人格をがらっと変えられるかどうかが問題。
ジギル博士とハイド氏が混在して順繰りに現れるのではなくて、囲碁を打つ時・ゲームに臨む時とその他の時では違うと言う事でしょう。
良く冗談で「ハンドルを握ると性格が変わる人」がいますが、良い悪いはともかく本人にとっては精神仕様を運転バージョンにしているのかも知れない・・・。
マア運転は勝負事では無いのでゲーム仕様での運転は怖いけれど。