なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

猫睨み

2010-07-15 02:49:56 | Weblog
 先日の日曜日、お気に入りの花の美術館奥庭のレストハウス(勝手に命名)の木のテーブル脇の椅子で思いついた・・・
 『ここに来た時は必ず一句作る』
 日陰で風通しの良いゆったりした空間です。
  木と言っても板張りの大きなテーブルで、椅子は同じく木製の長椅子あるいは(おそらく)間伐材で作った椅子ですから、贅沢とは程遠いのですが温かみはある。
 マアそれが味と言えば味ではある。
  私にとって好都合なのはこの花の庭を訪れる人で奥庭まで入って来る人は全体の約半数か。
 更にこのレストハウスに来る人はそのまた3分の1も居ないように思う。
  だから、この空間は穴場と言うか、ここを気に入った人にとってのスポットです。

 さて思いついた事
 まともな俳句など作れる筈は無い・・・しかしNHKの「カシャっと一句」を見ていると自分も作りたくなる。
 幸い先月デジカメを手に入れた事ではあるし・・・
  公共放送の公募レベルには程遠いが、自分だけで楽しむなら出来そうな気がする。
 ”出来そうで”であっても実際にやってみなくては実証できないわけで・・・そういう事で「ここで一句作る」という発案に繋がる。
 元々が「カシャっと一句」が動機なので、俳句の出来がどうと言う事より、常にデジカメ的画像とペアでイメージする。
 家のパソコンのマイフォトに貯めた画像に一句とか、句にピッタリのべスポジを探すとか・・・そういう事で野外活動?の動機付けにもなりそうです。

 初めの一句は猫
  猫は嫌いでは無い・・・むしろ可愛いとは思うのだけれど、公園で野良猫化して増えているのは問題だと思っています。
 公園にキャットフーズ持参で来る人も居れば、そういう事に反対の立場の人もいる。
  公園猫の写真を撮りに来ている人もいる・・・そういう人が撒き餌ではないが猫ヨセに餌を使ったりしているのを見ると流石に邪道のように思います。
 私は・・・今は猫を見ても無視することしかできない・・・無視できないほど増えて来ているので「無視」は本来ナンセンス。
 ともかく意識は猫に向いてはいる。

 猫って家猫であっても犬とは違い、飼い主に飼われていると言う自覚は殆どない生き物だと想像する・・・誇り高い生き物と言うか。
 食べ物をねだるにしてもオモネルわけでなく、必要なものを欲しいと要求しているだけのような。
 従って家で飼われていると言うより、たまたま同居しているに過ぎないと言う感じでしょうから、不意に出て行ったりふらっと戻ったり(私に似ている?)。

 さて公園に猫が住み着いていて、私などがベンチに座るとどこかからかじっと猫の目が光ります。
 「この人間は食べ物を呉れるか?」
 「傍に寄っても危険は無いか?」
 縁起ものの猫の目とは全く違う、生きるための真剣な目なのです。
  食べ物をくれそうな人を見分ける、くれる人を記憶する、危なそうな事もギリギリで避ける(オーバーに逃げたりはしない)、結構したたかに生きている。
 したたかでなくては”ノラ”はやっていけないのでしょう。
  (しかし今の数は”爆発的に増える”直前のような気がする・・・放置して、それなりに餌を入手できるなら増殖するに決まっている・・・この公園で痩せたノラ猫は居ないのだから)
 ともかく愚作「さすがマア公園猫の横睨み」オソマツ。