(昨日の話の続きで)その墓は龍華寺の裏手の少し高くなった場所、町と港と駿河湾が眺められる墓地の一番前にありました。
やはり不思議、、自分のご先祖ならアルファベット表記のお墓は作らないと思う・・・年号だけは確認したけれど全体をデジカメで撮ったり、裏面を確認しなかったのが大チョンボでした。
Mr.とするのですから、親族以外の人が建てた可能性も大きいし、もしかしたらお墓ではなくて記念碑の可能性だって無いわけではないでしょう。
(こういう推理と言うか、ナゾナゾ遊びが好きなんです・・・家族から見れば”どうでも良い事”を考えてどうする?と言うことですが、こういう事を楽しむ感覚が無い人は私から見れば可哀そう)
さて、僅かですが手持ちの知識を動員してネットで検索すると、、、『もしかしたら』と言うような記事にぶつかりました。
今年の5月、「第62代全米さくらの女王マーゴ・フェフェリーさんが静岡県を表敬訪問」
あの明治時代にアメリカに渡った、ポトマック河畔のサクラ!、おぼろげな記憶では東京都から贈られたと思いこんでいた。
実際には贈ったのは確かに東京市長の尾崎行雄だが、初めに贈ったサクラが害虫に汚染されアメリカでは全て焼却処分せざるを得なかったと言う失敗から、2度失敗は出来ない為ほぼ当時の総力で用意したサクラだったのです。
台木は伊丹市、苗木は荒川堤、そして継ぎ木して苗を仕上げるのが清水区興津の果樹研究所。
土の消毒とか薫煙消毒とか当時の最先端技術で作ったとか。
その甲斐あって、送られた数千本のサクラの苗木に1本も害虫などいない、完璧な苗木だったのだそうです。
さてそのサクラを送ったのが、1912年の事なのです。
もしかしたら、アルファベット表記のこの墓石はその事と関連があるのかもしれない。
ネットでの検索ではT・Hijikataと言う人は発見できなかったので何とも言えないけれど、推測は出来そう。
それとこの墓石は、高山樗牛の墓とホンの10メートル余りしか離れていません。
樗牛は清水を愛し興津の清見寺で暮らした筈・・・
亡くなって、ここにお墓がある。
興津の果樹研究所という興津繋がりがあるから、ここにその苗木関係者のお墓があっても不思議ではない・・・。
全て僅かな見分を目いっぱい膨らませた想像に過ぎないのですが、空想の世界で遊ばせて頂き、さらに次に故郷に帰った時の宿題を貰い、ポトマックとニューヨークのハドソン川のサクラの勉強まで出来ました。
それに明治45年そういう事があったと言うオサライ。
そう言えば死んだオヤジは明治44年生まれ・・・こういう時代に生まれたと言う感慨がある。
尚、1912年の故郷がらみの出来事としては、
三保にコンクリート製の灯台が出来たのがこの年。
これが日本でのコンクリートの灯台の始まりだそうです・・・マアそっちの関係も否定は出来ませんが、それならアルファベットは無いと思うので先ずは違うでしょうね。
三保の灯台と言いましたが・・・三保の真崎・先端に近いところにある灯台ですが、清水灯台が正しい名前だとか。
子供時代から三保の灯台と呼んでいた事を思い出しました・・・間違っていたらしい。
やはり不思議、、自分のご先祖ならアルファベット表記のお墓は作らないと思う・・・年号だけは確認したけれど全体をデジカメで撮ったり、裏面を確認しなかったのが大チョンボでした。
Mr.とするのですから、親族以外の人が建てた可能性も大きいし、もしかしたらお墓ではなくて記念碑の可能性だって無いわけではないでしょう。
(こういう推理と言うか、ナゾナゾ遊びが好きなんです・・・家族から見れば”どうでも良い事”を考えてどうする?と言うことですが、こういう事を楽しむ感覚が無い人は私から見れば可哀そう)
さて、僅かですが手持ちの知識を動員してネットで検索すると、、、『もしかしたら』と言うような記事にぶつかりました。
今年の5月、「第62代全米さくらの女王マーゴ・フェフェリーさんが静岡県を表敬訪問」
あの明治時代にアメリカに渡った、ポトマック河畔のサクラ!、おぼろげな記憶では東京都から贈られたと思いこんでいた。
実際には贈ったのは確かに東京市長の尾崎行雄だが、初めに贈ったサクラが害虫に汚染されアメリカでは全て焼却処分せざるを得なかったと言う失敗から、2度失敗は出来ない為ほぼ当時の総力で用意したサクラだったのです。
台木は伊丹市、苗木は荒川堤、そして継ぎ木して苗を仕上げるのが清水区興津の果樹研究所。
土の消毒とか薫煙消毒とか当時の最先端技術で作ったとか。
その甲斐あって、送られた数千本のサクラの苗木に1本も害虫などいない、完璧な苗木だったのだそうです。
さてそのサクラを送ったのが、1912年の事なのです。
もしかしたら、アルファベット表記のこの墓石はその事と関連があるのかもしれない。
ネットでの検索ではT・Hijikataと言う人は発見できなかったので何とも言えないけれど、推測は出来そう。
それとこの墓石は、高山樗牛の墓とホンの10メートル余りしか離れていません。
樗牛は清水を愛し興津の清見寺で暮らした筈・・・
亡くなって、ここにお墓がある。
興津の果樹研究所という興津繋がりがあるから、ここにその苗木関係者のお墓があっても不思議ではない・・・。
全て僅かな見分を目いっぱい膨らませた想像に過ぎないのですが、空想の世界で遊ばせて頂き、さらに次に故郷に帰った時の宿題を貰い、ポトマックとニューヨークのハドソン川のサクラの勉強まで出来ました。
それに明治45年そういう事があったと言うオサライ。
そう言えば死んだオヤジは明治44年生まれ・・・こういう時代に生まれたと言う感慨がある。
尚、1912年の故郷がらみの出来事としては、
三保にコンクリート製の灯台が出来たのがこの年。
これが日本でのコンクリートの灯台の始まりだそうです・・・マアそっちの関係も否定は出来ませんが、それならアルファベットは無いと思うので先ずは違うでしょうね。
三保の灯台と言いましたが・・・三保の真崎・先端に近いところにある灯台ですが、清水灯台が正しい名前だとか。
子供時代から三保の灯台と呼んでいた事を思い出しました・・・間違っていたらしい。