いや、何時だって徒然ばかりなので、別段のことは無いが、さしずめ今なら「ひぐらしパソコンに向かいて」となりそう。
今日も今日とて、、、パソコンのキーボードの手を休めて、届く範囲で手を伸ばして手近な本を取っただけのことです。
その本は「囲碁名言集」、書いた人はプロ棋士ではありません。
榊山潤さん・・・何冊か本を書いておられるようですが、勉強不足のためまだ読んだことはありません。
ですから、氏の書いたものは社会思想社のこの小さな文庫本だけです。
まさにズボンの後ろポケットにスッポリト収まってしまうくらい小さいのと、2,3ページで1つの項目が終わるので、出かけるのに持っていくのに便利です。
かなり日焼けしていて表紙カバーも少しスレている
というのも、この本は確か古本屋さんで買ったものです。
それも裏表紙に鉛筆で値段が書いてないところを見ると、100円均一のワゴンセールだったのでしょう。
普通の諺と言うと、言葉のリズムがあって、話す方も聞く方にも調子が好いのですが、この本は「名言集」ですから、特にそういうリズムは重要視していない。
そういう意味では少し、取っ付きにくいというか、愛想が無い感じがしないでもありませんが、逆に世に流布している諺を採取したのでは無くて、著者が自分で気がついた物を集めた感じがする。
ですから、何回か読むほどに味わいが出てくる感じがする。
もっとも、私は真面目な読者ではないしこの本は物語でもないので、最初から最後まで通読しないで、適当にページを開いたところを拾い読みします。
そして、氏の選んだ言葉から、自分の経験から思い出など・・・
「勘定あって銭足らず」
イメージとしては小商いで、別の言い方をすれば”机上の理論と現実とのギャップ”でしょうか。
私はこの言葉からは囲碁ではなくて、若い頃に勤めていた小さな商事会社を思い出します。
会社と言うより「商店」です。
例えば入り口の敷居を踏むと大怒られするのです。
「敷居は商人の頭だ。それを踏むとは何事だ!」となるわけです。
万事その調子で、昔であってもそういう習慣とは無縁な育ち方をしたものにとっては、新しいような古いような経験を積ましてもらいました。
ですから今でも、他所様の家の敷居は踏まない習慣がついています・・・良い悪いではなく習慣なだけですが・・・
さてその商事会社で「余るは、足らないの元」という言葉を刷り込まれた。
銀行の〆と同じことで、余るのなら良いということにはならない・・・
1円余るのはどこかで計算が違うのだから、不足を招く恐れも充分にある。
「勘定あって銭足らず」は何故かその時の「・・・足らぬの元」を思い出させます。
「君死にたもうことなかれ」
勿論元は与謝野晶子ですが、これが碁会所ともなると・・・熱戦の結果一方の石が死に掛かっている場面です。
それは心配をしていうのではなく、、、九分九厘相手の大石を葬った方が、相手が起死回生の手をひねり出そうと考え込んでいる姿を見ながら言う台詞なのです。
言外に、『今更考え込んでもイササカ遅いですよ』というニュアンスがこめられていて、同情と皮肉たっぷりに言われる言葉です。
そうであるだけに、余程親しい間柄で無いと使えませんね。
「消えたものに意味がある」
これはかなり深い意味がありそうです。
著者は「何もしない」という選択肢というような意味で話をしています。
また岩本九段の言葉「先手先手とそんなに先手が取りたければ、何も打たなければ先手ではないか」とか前田九段の「碁を負けない秘訣は、碁を打たないことである」などの例も引いて話が書かれています。
私の連想は・・・「子供の頃には大きくなったら何にでも成れると思っているもの。なりたいと思いさえすればね。でも結局は一人でいくつも選べないわけで、、、何かを選ぶ訳だけれど、実際には選ばなかったものの方が多いものなんだよ」を思い出す。
いや、全くたいした意味の無い言葉です、私が進路に悩む息子に言っただけですから・・・しかも何のアドバイスにも救いにもなっていない。
今日も今日とて、、、パソコンのキーボードの手を休めて、届く範囲で手を伸ばして手近な本を取っただけのことです。
その本は「囲碁名言集」、書いた人はプロ棋士ではありません。
榊山潤さん・・・何冊か本を書いておられるようですが、勉強不足のためまだ読んだことはありません。
ですから、氏の書いたものは社会思想社のこの小さな文庫本だけです。
まさにズボンの後ろポケットにスッポリト収まってしまうくらい小さいのと、2,3ページで1つの項目が終わるので、出かけるのに持っていくのに便利です。
かなり日焼けしていて表紙カバーも少しスレている
というのも、この本は確か古本屋さんで買ったものです。
それも裏表紙に鉛筆で値段が書いてないところを見ると、100円均一のワゴンセールだったのでしょう。
普通の諺と言うと、言葉のリズムがあって、話す方も聞く方にも調子が好いのですが、この本は「名言集」ですから、特にそういうリズムは重要視していない。
そういう意味では少し、取っ付きにくいというか、愛想が無い感じがしないでもありませんが、逆に世に流布している諺を採取したのでは無くて、著者が自分で気がついた物を集めた感じがする。
ですから、何回か読むほどに味わいが出てくる感じがする。
もっとも、私は真面目な読者ではないしこの本は物語でもないので、最初から最後まで通読しないで、適当にページを開いたところを拾い読みします。
そして、氏の選んだ言葉から、自分の経験から思い出など・・・
「勘定あって銭足らず」
イメージとしては小商いで、別の言い方をすれば”机上の理論と現実とのギャップ”でしょうか。
私はこの言葉からは囲碁ではなくて、若い頃に勤めていた小さな商事会社を思い出します。
会社と言うより「商店」です。
例えば入り口の敷居を踏むと大怒られするのです。
「敷居は商人の頭だ。それを踏むとは何事だ!」となるわけです。
万事その調子で、昔であってもそういう習慣とは無縁な育ち方をしたものにとっては、新しいような古いような経験を積ましてもらいました。
ですから今でも、他所様の家の敷居は踏まない習慣がついています・・・良い悪いではなく習慣なだけですが・・・
さてその商事会社で「余るは、足らないの元」という言葉を刷り込まれた。
銀行の〆と同じことで、余るのなら良いということにはならない・・・
1円余るのはどこかで計算が違うのだから、不足を招く恐れも充分にある。
「勘定あって銭足らず」は何故かその時の「・・・足らぬの元」を思い出させます。
「君死にたもうことなかれ」
勿論元は与謝野晶子ですが、これが碁会所ともなると・・・熱戦の結果一方の石が死に掛かっている場面です。
それは心配をしていうのではなく、、、九分九厘相手の大石を葬った方が、相手が起死回生の手をひねり出そうと考え込んでいる姿を見ながら言う台詞なのです。
言外に、『今更考え込んでもイササカ遅いですよ』というニュアンスがこめられていて、同情と皮肉たっぷりに言われる言葉です。
そうであるだけに、余程親しい間柄で無いと使えませんね。
「消えたものに意味がある」
これはかなり深い意味がありそうです。
著者は「何もしない」という選択肢というような意味で話をしています。
また岩本九段の言葉「先手先手とそんなに先手が取りたければ、何も打たなければ先手ではないか」とか前田九段の「碁を負けない秘訣は、碁を打たないことである」などの例も引いて話が書かれています。
私の連想は・・・「子供の頃には大きくなったら何にでも成れると思っているもの。なりたいと思いさえすればね。でも結局は一人でいくつも選べないわけで、、、何かを選ぶ訳だけれど、実際には選ばなかったものの方が多いものなんだよ」を思い出す。
いや、全くたいした意味の無い言葉です、私が進路に悩む息子に言っただけですから・・・しかも何のアドバイスにも救いにもなっていない。