お兄ちゃん日記

2017年9月14日、今日からこのブログでやってみることにします。

自分の内面と向き合うことは辛い作業である

2023-01-26 05:10:59 | 日記

自分の内面と向き合うことは辛い作業である

 

人は生きて行くうえで、あらゆる場面で目的が必要となる。

あらゆる場面で目的を考えると聞くと、難しそうに聞こえるが、常に目的を考えてから行動している。

例えば、目的もなく電車に乗る人はいない、目的地が先にあってこそ、行き先がわかり乗る電車が決まる。

しかし、人生では目的もなく行動して生きている人がたくさんいる。

人生も、目的が先にあって向かう方向、必要な仕事が見えてくる。

真剣に人生と向き合うためには、まず目的を考える作業は必要である。

仕事をする目的について考えると「お金が欲しいから」という理由になっている場合が多い。

そういう人ほど、週末だけが生きがいになってしまう。

やりたい仕事ではなく、とりあえず稼ぎのいい仕事を基準にアルバイトをしている自分に気づく。

そこで「こんな人生でいいのか」と考える、これが自分と向き合うことである。

なぜ、やりたい仕事が見つからないのか、その原因は何かを考えると心の内面に空虚感があることに気づく。

更に「心の空虚感ができた原因は何か」を考える。

それこそが、自分の内面と向き合っているということである。

本来、自分を真剣に見つめることは辛い作業で、思っても見なかった本当の自分が見えてくることもある。

目的を考える時に、自分にとって納得できる目的を考える作業が、自分の内面と向き合うということである。


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高齢になると「教える姿勢」より「教わる姿勢」が必要

2023-01-25 04:24:27 | 日記

高齢になると「教える姿勢」より「教わる姿勢」が必要

 

高齢者にとって年齢が高くなるということは、年下が増えるということです。

そして、知っていることが増えて知識が豊富になる。

しかし、現代社会では知識を教える必要性は少なく、体験や知恵を教えることで役割を果たす程度です。

昔のように、高齢者は知識も経験も豊富がたら教える機会も多かったが、現代は、逆に教わる機会の方が多い

ような気がする。

勿論、知っていることを聞かれれば快く教える姿勢は大切である。

高齢になったからといって、何も新しいことにチャレンジしない訳ではない。

そんなときは、わからないことは勇気をだして素直に「教わる姿勢」が必要です。

多少の羞恥心とプレッシャーはあるがそれらを嫌がっていると、いつまでも新たな行動がしづらくなる。

興味をもって行動しようとした時は、「教えて貰いに行こう」という気持ちでいれば、新しい行動がしやすく

なる。

高齢になっても「教える姿勢」より「教わる姿勢」を心掛けることが必要だと私は思っている。


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人生は今この瞬間の連続

2023-01-24 04:21:16 | 日記

人生は今この瞬間の連続

 

我々は今という単位の連続で生きている、つまり「今」という一瞬の集まりが人生ということです。

この瞬間でさえ「今」が連続で過ぎ去って、やってきた瞬間に終わる。

「いつか人生を変えたい」と願う人がいる。

そうした考えを持つこと自体は素晴らしいことです。

しかし、「いつか」という言葉は、漠然としていて行動するキッカケが、なかなか定っていない。

以前に流行った「いつしますか?」「今でしょう!」というフレーズを思い出す。

人生を変えようと思ったら、今しかないのです。

「今しかない」という言い方は、差し迫った様子を表すが、そもそも人生は今しかないのです。

人生は、今という一瞬の集まりであるという、意識に変えるということである。

変えようとするエネルギーの矛先は常に今です。

人生を変えたいと思った時が絶好のチャンスでキッカケを掴む行動に出るのも今です。

我々の人生は、今この瞬間の連続で生きているという意識を持つことで、人生を変えるチャンスを掴むことが

ことができるのです。


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延命治療と臓器提供について

2023-01-23 05:05:27 | 日記

延命治療と臓器提供について

 

人生は、いつ何が起きるかわからない。

自分はまだまだ長生きすると思っても、ある日突然不幸が襲うこともある。

その時になって考えることができればいいが、意識がなかったり、既に死んでいたりする場合もある。

その可能性は未知だがゼロではない。

そんな突然の状況に陥る前に、家族と話し合っておくことが2つある。

延命治療と臓器提供である。

延命治療について

例えば、急な事故によって、脳死状態になったとする。

脳死とは、脳幹を含めた脳全体の機能が完全に失われ、回復ができなくなった状態のことである。

医療機器によって、何とか命を取り留めている状態で、医療機器を外せば死んでしまう。

脳は一度死んでしまうと、現在の医学では、生き返らせることは不可能である。

脳死になると医師から延命治療について相談された時、家族は生死を判断しなければならない。

そんな時のために、延命治療を望むのか、望まないのかを、生前に決めておけば、家族の負担も小さくなる。

臓器提供について

臓器移植とは、病気や事故によって救われた臓器や組織を手術によって、他の患者へ移植することをいう。

自分が死んだ時に、治療を待つ他の患者に臓器を提供して、命の手助けになりたいと思うことである。

当然に、臓器を提供するのも、しないのも、本人の自由である。

臓器提供カードで意志を持つこともいいが、まず家族と話し合っておくことが大切である。

延命治療にせよ、臓器提供にせよ、不謹慎な話題と捉えがちだが、可能性はゼロではない。

万が一を考えると、この2つについては、事前に家族と話し合っておくことで、残った家族の負担が小さく

なることは間違いないと思う。


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本当の絶望とは命を失ったとき

2023-01-22 05:31:19 | 日記

本当の絶望とは命を失ったとき


絶望とは、「希望や期待がまったく失われること」と辞書にはある。

果たして、私のここまでの人生において、生きるための全てにおいて希望や期待をまったく失ったことがある

だろうか?

お金が全てなくなった、家が火災や災害でなくなった、職を失った、事故で手足を失ったなど。

もしも、これらを同時に見舞われても、本当の絶望ではない。

なぜなら、本気になれば、やり直しができることばかりである。

お金がなければまた稼げばいいし、職を失っても再就職すればいい、手足を失ったとしても、義手や義足があ

る。

では、本当の絶望とは、命を失ったときである。

失われた命だけは、どんなに大金や時間があっても、やり直せないし取り戻せない。

命を失ったとき、完全にすべての可能性が失われる。

つまり、生きているうちに、本当の絶望は体験できないのである。

絶望して落ち込んでいるのは、勘違いで全ての希望や期待が失われた訳ではない。

命という素晴らしい宝物が、最後に残っている限り、人生は何度でもやり直せる可能性はある。

生きている限り、本当の絶望ではないことに気づくことが大切だと思う。


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