青空に白い月

ゆったりゆるりと生きましょ~よ

そこに愛はあるか

2008-02-15 23:59:00 | 日々思うこと

最近、病気や障害を持った人の個人や団体などのホームページを見てみたりする。

最初は興味本位だったけれど、考えさせられる事柄に気が付く。

数年前台風による強風で停電になり、長いところで12時間から丸一日以上の時間復旧しなかったことがある。

そんな地域の一つに、私が時々行く大型ディスカウントストアもあった。

そのお店は停電により、照明はもちろん、レジや防犯カメラも止まってしまった。

そして要約電気が復旧した後には、停電時にいた客達が残していった値札が地面に散らばり、多くの品物が盗難にあい、それは10人20人の仕業でなんとかなる量の盗難数ではなかったという。

一体それが障害や病気となんの関係があるのかと思えるが、私がとても重要なことだと思うのは、

”何故それをしないか”

ということ

停電にさえならなければ、多くの人がお金を払って商品を買っていたはずだ。

それなのに、今ならば気付かれないという心理で、たくさんの人が泥棒に成り変ることがありえるという事実が露呈する。

つまり普段、他人の物を無断で持ち出してはいけないということを理解しているのではなく、それをしたら捕まるからやってはいけないのだという心理でいる人が、相当数いるということがわかる。

”何故それをしないのか”

行動は同じでも、その意味は全く違う

そしてそれは、障害者用や重病者用として掲げられた駐車スペースや専用シートなどにも当てはまるように私は思う。

体が不自由な人の専用スペースに、普通の乗用車が停まっていたりするのを見かけることは多い。

なぜそれを平気でするかといえば、それは捕まらない、罰金も罰則もないからだろう。

まーなんと考えが貧しいことかと思う

ならば車をそこに停めない人、専用シートに座らない人に関してはどうだろう?

単に人目が気になるから停めない人もかなり多いように思う。

いろいろな障害者用のスペースを確保しようと、様々な団体が活動しているが、例えスペースが確保出来ても、それぞれの立場を理解する気をもって理解しなければ、人の意識まではおおよそ変わらないだろう。

例え罰金や罰則が出来ても、人の心が大きく左右するそういった行動を無理強いすることは決して良い結果は生まれない。

そしてそういった気持ちの理解は、障害や病気を持った人自身にも言えることだろう。

理解が得られていると思うなら、理解されていることをまた理解する。

お互いのそういう気持ちが人の心を変えていく

全てが我を中心にしていては、お互いに堂々巡り。

自分がどれほど不自由しているかをアピールしてばかりだと、不快感があって当然だろう。

病院で明らかに具合が悪い健常者に、席を譲る難病患者がいたっていい。

目が見えない、歩けない、話せない、いろいろ不自由はあっても、年寄りの足の重さは分からない。

そこに愛はあるか、今一度考えてみよう。

コメント (4)
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