青空に白い月

ゆったりゆるりと生きましょ~よ

風邪と病院

2008-02-20 23:18:03 | 日記・エッセイ・コラム

雨が降り、太陽が出て、夕方には雪

今日の天気

もう一年以上風邪を引いていない。

こういう安定しないような天気が続くと風邪を引くことが多かったけど、風邪を引かなくなたってことはいいことだ。

前は風邪を引いたような症状が出る度に待ち時間の少ない個人病院に行き、症状を話すと予想通りの

「風邪ですね、お薬出しときましょう」

の声を聞いて、処方箋をもらって帰るのが、年中行事のであるかのように毎年繰り返していたけど、そもそも風邪って何だろう?

あまりにもその範囲が広くて今一ピンと来ない。

咳、鼻水、頭痛、嘔吐、発熱、その他モロモロ

私が行っていた個人の病院では、自分で歩けて意識もしっかりしていると、とりあえず風邪と診断され、それでも治らず酷くなると紹介状で総合病院行きだった。

そう考えると、個人の病院の責任ってどうなんだろう?って今でも時々思う。

大分酷くなってから総合病院の紹介状を書いて、いつも私に検査や病名や治療方法の決断を下すのは総合病院の勤務医であり、個人病院は風邪専門のような印象が私にはある。

どうせ風邪と言われて薬だけもらって帰るのが分かっているのだから、個人病院には行かなくていいやって思っている人は、自分以外にもきっといるんじゃないのかな。

なんとなく薬をもらうための中間業者のイメージがあるのは、私だけか?

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ビミョ~~~、消費期限と賞味期限

2008-02-19 21:12:02 | 日々思うこと

私は意外と消費期限や賞味期限を無視している部類の人間で、多少古くても中身を確認して味が変じゃなきゃ食べちゃう方だ。

賞味期限と消費期限について詳しくはこちらを参照していただくとして、私はどちらにしても最終的にはそれを自分で判断するから、どうせ目安にしかならないのであれば、昔のように製造年月日を表示してくれればいいのにとか思う。

でもそれだと、自分で食べる範囲に関してのことになるんですよね。

だってもし自分で大丈夫だろうって判断して食材を使っていいとなれば、もしも私が食品会社の社長なら、そりゃー今頃新聞に載ってますよ(>_<)

そういうのを防止する為にも、やっぱり製造日よりも期限を重視するということなんでしょうね。

でもこういうのはちょっと面白い

例えば同じ日時に、新しい材料で作った餃子と、消費期限ギリギリの材料ばかりで作った餃子を冷凍食品として加工したとして、それを出荷するときの賞味期限は同じ日。

古いのも、新しいのも、スタートラインは違うのに、ゴールラインで並ぶ

うーーーーん、微妙だ

なまものである時のほうが品質の低下は著しいから、スタート時点で差が付いていてもいい気がするんだけどね。

買った人に当り外れが出ることになっちゃう。

うんうん

やっぱり自分で作りましょ(^_^)

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続・そこに愛はあるか

2008-02-18 20:58:59 | 日々思うこと

ぷろぱさんのブログからハートプラスの事を知り、何気なしに
車椅子 駐車場 ハートプラス
と入力してグーグルで検索したところから、「そこに愛はあるか」という記事が出来ました。

何故かと言えば、私は単に車椅子マークは障害者用という解釈でいいのかと思って調べただけだったのに、意図しない文章がゴロゴロ検索されたからです。

いろいろ遠まわしにオブラートに包んで書かれていたり、率直に書かれていたりもしますが、多くの車椅子の人にとっては、ハートプラスは勝手な行動として捉えられている場合が多いように感じられました。

車椅子マークが付いた駐車場は車椅子専用で、広くなっているのはドアを全開にしないと乗り降り出来ないからであり、そこしか止める場所がないのに、内部障害の人がそこに車を停めるようになると、自分たちは停める場所がなくなるということで、それはそれでごもっともな意見です

つまり、内部障害者は歩けることは歩けるのだし、必ずしも車椅子用のスペースに停める必要はないということです。だからそこに停められるようにする活動は、単に煙たい存在であると見受けられる書き方が結構多いのです。
ですから内部障害の場合、近ければいいので広いスペースは必要ないのだから、停めるならそれはそれで区別するべきとの意見も見られました。

そして一方内部障害を持つ人は、自分だって辛いのだから近くに停めたいし、車椅子のマークは障害者を表すもので、車椅子専用と言う訳ではないという反論ももちろんあります。

お互いに辛さも不便さもあるでしょうが、どうでしょう?

例え健常者であっても、お年よりも、どんなに具合の悪い人も、我慢している場合が多いです。

病院に行く時も、バスを降りて手押し車を押して病院に通う人だっているし、私も吐きながら駐車場の端っこから歩きますが、かといって障害者用のスペースに停めさせて欲しいと思ったこともありませんでした。

だってそれが当たり前だったから、気付くこともなかった。

今でも変わりません

何処に行っても障害者用のスペースを使うという意識すらありません。

誰もが自然に空けるようになればいいとは思いますが、なかなかそうもいかないのは、そこに優しさがないからでしょう。

”人は皆平等”

それは健常者も障害者も、見た目ではわかり辛い障害者も皆平等という事ですが、これを勘違している人だっています。

皆平等なんだったら障害者だけ特別扱いする必要はないだろうと・・・

そこに愛はありません

前に男女平等と言われたときも私は感じましたが、男女共には権利を平等とすればよかったのだと私は思いますが、何を勘違いしたのか女性も平気で残業させられ、遅い時間まで働かされるようになってしまった。

こういうのは馬鹿馬鹿しい

男性と女性はどうしたって違う。

元々体のつくりが違うのだから、女性の方が力だって弱い場合が多いし、男性が女性のように家事をすることだって、習慣の上で難しいことも多いしね。

男女平等としてそう決めた時、そこに愛がなかったのでしょうね。

とても貧しい考えだ。

そして同じように障害の違いでアピール合戦している。

片方が不便だと言えば、もう片方はズルイと言う

そこに愛はあるか

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脈がない?

2008-02-17 23:28:17 | シェーグレン日記

不整脈が連発すると、どうしてこうも胸が気持ち悪くなるんだろ?

大丈夫と言われても、不安になる原因がそこにある。

先日、寝ていて気持ち悪くなり、手首で脈をとろうとしたら、遂に脈がなくなった。

正直、焦る

腕の脈っていうのは、血の通いが悪くなるように腕を曲げたりすると、無くなるもんなんだねぇ~、知らなかった。

焦って起き上がったら普通?に不整脈に戻った。

今度から首にしようかなー

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そこに愛はあるか

2008-02-15 23:59:00 | 日々思うこと

最近、病気や障害を持った人の個人や団体などのホームページを見てみたりする。

最初は興味本位だったけれど、考えさせられる事柄に気が付く。

数年前台風による強風で停電になり、長いところで12時間から丸一日以上の時間復旧しなかったことがある。

そんな地域の一つに、私が時々行く大型ディスカウントストアもあった。

そのお店は停電により、照明はもちろん、レジや防犯カメラも止まってしまった。

そして要約電気が復旧した後には、停電時にいた客達が残していった値札が地面に散らばり、多くの品物が盗難にあい、それは10人20人の仕業でなんとかなる量の盗難数ではなかったという。

一体それが障害や病気となんの関係があるのかと思えるが、私がとても重要なことだと思うのは、

”何故それをしないか”

ということ

停電にさえならなければ、多くの人がお金を払って商品を買っていたはずだ。

それなのに、今ならば気付かれないという心理で、たくさんの人が泥棒に成り変ることがありえるという事実が露呈する。

つまり普段、他人の物を無断で持ち出してはいけないということを理解しているのではなく、それをしたら捕まるからやってはいけないのだという心理でいる人が、相当数いるということがわかる。

”何故それをしないのか”

行動は同じでも、その意味は全く違う

そしてそれは、障害者用や重病者用として掲げられた駐車スペースや専用シートなどにも当てはまるように私は思う。

体が不自由な人の専用スペースに、普通の乗用車が停まっていたりするのを見かけることは多い。

なぜそれを平気でするかといえば、それは捕まらない、罰金も罰則もないからだろう。

まーなんと考えが貧しいことかと思う

ならば車をそこに停めない人、専用シートに座らない人に関してはどうだろう?

単に人目が気になるから停めない人もかなり多いように思う。

いろいろな障害者用のスペースを確保しようと、様々な団体が活動しているが、例えスペースが確保出来ても、それぞれの立場を理解する気をもって理解しなければ、人の意識まではおおよそ変わらないだろう。

例え罰金や罰則が出来ても、人の心が大きく左右するそういった行動を無理強いすることは決して良い結果は生まれない。

そしてそういった気持ちの理解は、障害や病気を持った人自身にも言えることだろう。

理解が得られていると思うなら、理解されていることをまた理解する。

お互いのそういう気持ちが人の心を変えていく

全てが我を中心にしていては、お互いに堂々巡り。

自分がどれほど不自由しているかをアピールしてばかりだと、不快感があって当然だろう。

病院で明らかに具合が悪い健常者に、席を譲る難病患者がいたっていい。

目が見えない、歩けない、話せない、いろいろ不自由はあっても、年寄りの足の重さは分からない。

そこに愛はあるか、今一度考えてみよう。

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