なかなか更新できませんですいません。
最近は腰痛などに加え、眼精疲労なども激しくなり、もう老い先も短いのではないかとさえ思えることさえある状況。
このまま朝日に汚染されて日本が滅んでゆくのを目の当たりにしながら何もできず自分が死んでゆくのもつらいものがある。
口で言いたい放題のことを言って自分に都合の悪いことがおきると無視する田原総一朗や古舘 伊知郎などがうらやましい。
アメリカでオバマがブルーカラーの人に対してやや差別的な言葉を吐いたというのでかなり強烈に批判されている。
現実の生活に不満があるので宗教に帰依するというようなことを言ってしまったらしい。
これはたぶんどこの国でもある程度当てはまることではないかという気はするわけであるが、ブロガーについてもそのようなことは言われるわけであるが、有名人のキャスターや政治家というのもそのようなものかも知れない。
しかし、彼らは自分の幸福の基準をどこにおいているのであろうか。
彼らも多かれ少なかれ、現実の生活に不満を抱いていてテレビでしゃべることがはけ口になっているような気がしてならない。
普通のサラリーマンの酔っ払った時の会話以下であると思えることが以前にもまして最近多くなってきた。
鳩山が死刑にゴーサインを出していることに古館はぐじょぐじょ言っていたが、光市殺人事件で死刑に反対するグループが弁護団に加わったことを批判しまくっていたのはあなた方ではなかったか。
めちゃくちゃなのは田原も同じ。
先週のサンデー・プロジェクトでは田原は「靖国YASUKUNI」に関してこの映画に出てる人は正面から撮られているので、許可は得ている、問題ない、と言っていた。
自分はこれを聞いて本当だろうかと思ったのだが、実際、その許可に関するニュースがいろいろ出てきている。
田原はドキュメンタリーの仕事をやっていたはずだからあの映画の一部でも見ればこれはまずい作り方だと、思わないのがおかしい。
本当に正面から写していれば、許可を得ているのか、こういう映画になります、と説明しているのか、あるいはこういうふうにマスコミで話題になる可能性もあります、とあの映画に出ているすべての人に説明して許可を得ているのか、少なくとも自分は疑問が沸いた。
ちなみにテレビのドラマの撮影に関しては、背景が映るような場合であっても紙一枚に大まかな説明を書いたものを近所の家のポストに入れて歩くというようなことはしているようである。
あのドキュメンタリーをほんの一部見ただけでもまずまともに説明してないだろうな、と自分は思った。
問題になっている刀匠や靖国神社だけではなく、あそこで映されている右翼とされる方々なども実際にそのような映画だと説明を受けた上で撮影されたのであろうか。
自分はそういうことはなかったのだと思う。
ここで問題になるのはあの映画が右翼の脅しによって上映中止になったとされている点であるが、はっきり言って右翼にも抗議する権利はあるはずだし、表現の自由はあるはずだ。
たとえばあの映画に出ている人で自分の許可を得ていないという人はもちろん右翼のイメージをいたずらに捻じ曲げていると言う人も抗議する権利はあるだろう。
本当は右翼と言うよりも国家主義者、それもまずければなにか他の表現を用いたほうがいいと言う人もいるが、あえて右翼と呼ぶが、最近、表現の自由が脅かされているとよくいろいろごたまぜにして朝日は叫んでいるが、右翼には表現の自由もなにもないのであろうか。
たとえば自衛隊の官舎でビラをまいた人に不当判決が出たかのように朝日は怒っているが、あれは住居不法侵入が問題だったのではないか?
朝日に言わせれば、なにか政治的ビラを携えればどこでも入っていいということなのだろうか。
野村の事件があったせいなのかなんなのかしらないが、朝日の建物はものすごい警備である。
つまり自分たちは莫大な金を払ってよそ者を一切受け付けないくせに、自衛隊の官舎は誰でも入ってビラを配っていいなどというのはとんでもない話である。
朝日の本社にはものすごくぜいたくなホールがあって、自分も裕福だった頃に何度か行ったことがあるが、最寄の駅からもかなり歩くのでタクシーを拾って地下から入ろうとしたことがあるが、ホールまで行くこともできずに警備員にとめられた。
警備員もそれの繰り返しらしく、説明するのも疲れたと言う感じだったが、朝日の本社に用があるわけでもないのになんであそこで止めるのかまったく納得も行かないがあきらめてしまった。
ちなみにその時かどうか分からないがコンサートの前半を全部聞き逃したことがある。
少しでも遅刻するとそうなることはあるわけである。
話はすごくそれるけれども朝日の敷地はすごく広いので、朝日をつっきってホールまで歩くのもけっこう大変で、そばまでタクシーが行けないんじゃタクシーを拾った意味がないし、そもそも構造上ホールと新聞社を二つくっつけるなんてまったく自分勝手な作り方である。
どうしてもくっつけたいなら王子ホールのようにするのが妥当な作り方であろう。
いい加減、話を戻すが、朝日はようするに官舎でビラをまく者には表現の自由を振りかざし擁護し、右翼の電話や街宣活動はは脅迫であると糾弾するという二刀流であるから、どう考えてもおかしな話である。
しかも電話や街宣活動の実態はあまりはっきりしていないし、街宣と言っても敷地内に入るかどうかなど分からないのに、その可能性があると言うだけで、どんどん中止してしまい、さらにはネット右翼の人からも電話がきたなどと言うわけである。
それがそれほど脅威を与えるものであるならば、「威力業務妨害」などで告訴して警察に捜査するなりさせればいいのだが、よううするにそこまでは配給会社などもできないのである。
表現の自由が脅かされていると言ったって、実はそんなに脅かされているわけでもないのではないか。
総合的に判断してとりやめたというような映画館のコメントを田原は怒っていたけれど、非常に人気の高いもので毎回満員になるようなものであれば、どんな脅迫があろうと上映するということも選択肢に入る可能性も無いとは言えないのではないか。
ようするに朝日新聞が度重なる事件にもかかわらずつぶれないのは朝日に勇気があると言うよりも、朝日が警備を雇う金があるからであろう。
あのドキュメンタリーはほんの一部見ただけでもう駄目である。
まったく金も智恵も使っていない。
盗み撮りして映る人の存在性にのみ依存して監督の能力はまったくどこにも見られない。はっきり言って撮影、というか盗撮から編集まで全部安いビデオやPCで一人でやったんだろう。
それで税金の助成も受けたわけだから、それだけで「異色」のドキュメンタリーとしては膨大な黒字である。
それがドキュメンタリーだと言うのは馬鹿である。
ほんの一部だけ見て判断するなというのも馬鹿げた話で、われわれの人生の時間はそう長くはない。
トレーラーを見て映画を見るかどうか判断し、ぱらぱらと立ち読みして本を買うかどうか決め、ブログのエントリーのタイトルなどを見てクリックして本文を読むかどうか決めわけである。
ここまで書いてきて気づいたと言うよりも、ようするに最近つくづく思うわけであるが、これも靖国YASUKUNIの宣伝である。
週刊新潮もそのことを言っているようだが、そもそもあの雑誌がこの映画の「宣伝」をしだしたのではないか。
黙殺すればよいものを話題にすればするほどこの映画の人気は高まり、上映するところも出てきたようだ。
朝日の今までの社説にしても、ああいうことを書くことで、ますます右翼は抗議する、上映はますます中止されるというようなことで話題沸騰になったところで映画自体にも矛盾が現れ、朝日がとん面するという筋書きだったのではないか。
その筋書きが果たして朝日の作った筋書きだったかということは分からない。
しかし、このことは靖国YASUKUNIに限ったことではなく、最近報道されたアントニオ・ネグリという人の来日中止にかんしても当てはまることのようである。
自分はこの人はまったく知らないし、あまりニュースも追いかけていないのであるが、どうやら朝日がこの人の政治活動などについて書いてから急に在外公館が書類などをネグりに要請して来日中止なったようだ。
まず、有名であるらしい外人を呼んで話をさせるということ自体が、自分たちが有名になれない、あるいは有名になっても聞く人を呼べない無能な日本の学者の恥知らずな失態とも言うべきであるが、ネグりに関しては、来日はさせない、というようなことを命令したというようなことではなく、書類を出せ、というようなことだったはずだ。
ネグリの側はそれに腹を立てて来日をあきらめてしまったようだが、ぎりぎりまで努力して書類がそろわなくてもせめて空港に行くとかなんかしら努力すべきだったはずだが、途中ですべて放棄してしまったわけである。
日本はスパイ天国とまで言われている国だから、こういう騒ぎがあれば政府の側として損することは決してない。
招聘した側の人間たちも自分たちがニュースになったということである。いずれにせよこのイベントには助成金が払われたのかなど自分には不明な点が多い。
だいたい、最近のニュースはニュースとも呼べないことが多すぎるのである。
ようするにニュースが少ないということであろうが、読売新聞なども活字が異様に大きくなってしまったが、そういったこともニュースがない、あるいは海外のニュースなどを報道する能力がないからであろう。
そうもいえないものだから、苅部 直を小泉今日子と本社に呼んで見学というか雑談させたりしている。
しかも苅部は対談での自分の発言がブログで批判されたことについて最後まで読んでくれればそういう批判はありえなかったなどといっているが、そこまで言うなら一体どのブログでどのように批判されたのか、など具体的なことをきちんと示すべきではないのか。
話はまたそれるが朝日などは大江を訴えた人に対して「著名な大江さんを訴えることで。。。」などとまるでノーベル賞作家を訴えることが不当であるかのように社説で主張していたが、憲法で裁判を起こす権利は認められているはずである。
有名な人は訴えてはいけない、批判してはいけないと言ってる馬鹿なマスコミこそ表現の自由を抑圧しているのは明らかだ。
ようするに自分たちの都合のいいことばかり書いたり言っているくせに、読者には全部読んだら批判はありえないなどとして読者を馬鹿にしているわけである。
だいたい読売に限らず国会の審議だけでなく党首討論や裁判の判決など一体どれだけ事実を伝えているというのか。
ようするに自分たちの都合のよいところだけつないで「報道」しているだけではないか。
報道機関としてこういうことも報道しなければ、などと報道ステーションで偉そうに言っているのは完璧な茶番である。
自衛隊が一体いくらあたごの事件で行方不明になった家族に支払っているのか報道ステーションはまったく報道していないだろう。
またどこの局か忘れたが、チベットに関連してブログの一部が削除されてプロバイダに問い合わせても知らないと言っていたなどとして中国当局の直接の介入をほのめかしていたが、そんなことは物理可能なのか、ITに詳しい人にコメントを求めるようなことも流していたのもおかしな話しである。
ようするに自分には全部茶番に見えてしまうのである。
だから最近はブログを書くのもその茶番にのせられているようでしゃくなのである。