絶対に一生忘れられない人はだれでもたくさんいるだろう。
自分の場合うらみつらみなどで覚えている人が多いのだが、すごく親しかった友人で二十歳の頃に突然死んでしまった友人Yのことも絶対に忘れられない存在だ。
もちろん家族や親戚などで死んでしまった者も数え上げてゆくと忘れられない人の数は多いし、それぞれの人のことを同じ程度に毎日思って過ごしているわけではもちろんない。
生きている人でも疎遠になったり、決定的に別れてしまった人も数え切れない。
Yが死んでからの数週間はとてもつらくて朝も夜も号泣しているような感じだった。
何かにつけ彼のことを思いだして、今彼が自分のことをどう思っているかなどと勝手に想像しながら、笑ってしずかに見守ってくれているような錯覚に陥ることで自分をはげましたりなぐさめたり、そしてもしかしたら自分を甘やかしてきたのかもしれない。
Yのことはできれば自分の実名で書こうと思っていたのだが、今ここで書いているのはなぜかといえば、彼のことを思いだす頻度が昔に比べればあきらかに減ってきているからであって、もしかしたら自分の中から彼の存在が消えてしまうかもしれないというかすかな予感さえあるからである。
Yのことを思い出す資格など自分にはないとも思うが、そんなことに資格などないはずで、自分は彼のことは絶対に忘れたくはない。
今年も自分にとって大切な人をまた一人なくしてしまった。
生きている限り自分の大切な人をなくしてゆくのは仕方がないにしても、うらみ骨髄の人たちがあいかわらずピンシャンしているらしいことだけはどうにかならないかと思う。
といってもそういう人たちは自分より若い人が多いので逆にこっちもそう思われているかも知れない。
この人間だけは許せないと思っている人間の一人は視力が弱かった。
その人間のことは忘れようとしてもとても忘れられるものではなく最近また思い出すことが多くなった。
自分はとにもかくにも五体満足でこのように視力が衰えることもなく上のような写真を撮ってブログを更新したりしている。
これがばれたらきっと彼女はバカにするだろう。
というより全く相手にされてないわけだから、いつか「目にものを見せてやる」などと思うが、そのためにはとりあえず彼女にも長生きしてもらって目も大事にしてもらわないと困るなどとも思う。
というわけで自分はすごく性格が悪いわけだが、性格が悪くなったのにもそれなりに理由があることだけは分かってほしいなどと誰に言うともなく書いておこう。