雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(116」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/215(2020/12/10/木】1984年に自宅を新築した折、親戚からお祝いにシャープ製のオーブンレンジを頂いたが、昨日、ダウンした。実に36年間も働いてくれたから“大往生”、もういいだろう、屋上に置いて作業台にでもしようか。
それにしても Made in Japan 恐るべし。アフリカの女性が子供に自転車を買い与える際に「中国製の新車より日本製の中古にしなさい」と訓示したのもムベなるかな。ロシアでは相変わらず日本製を筆頭に中古自動車が人気だが、さらに近年では日本、欧州、中国、韓国製の「新車!」も需要が高まっているとか。
ベストカーWEB「異国の街を懐かしい日本車が走る!? ロシア国内で流通する右ハンドル車事情」2020/11/10から。
<ロシアでは世界各地から中古車が輸入、販売されている。その様子は新車販売を圧迫しているとも言われており、ロシア政府もたびたび規制をかけようとするのだが、いずれも腰砕け状態となっているのが実状。
事情通は「マフィアが深く絡んでいるようなので、政府も半ばタッチできないという話もまことしやかに聞きます」とのこと。
「ソビエト時代からのロシア車は命の危険もあるので冬眠(冬は使わない)させる」という話を聞いた。ロシア車は故障が多いので、極寒の冬に故障したら凍死する可能性があるかららしい。
ロシアでの日本車の新車販売状況はどうかというと、モスクワ市内に限った話とされているが、レクサスの大ブレイク状態となっている。世界で最もレクサス車が愛されている大都市と言ってもいいぐらい市内を多くのレクサス車が走っている。
その背景には、世界的に不況などが起きると“金=ゴールド”を購入して資産を守ろうとする動きがあるが、ロシアではそのひとつとして「高級車を購入する」という動きが顕在化するのである>
サイト「せかいじゅう」2020/3/9によると、ロシア連邦国家統計局によると、ロシアの平均月収は約78,700円、ボーナス3ヶ月として平均年収は約1,180,300円(2019年11月時点 1ルーブル=1.7円換算)。
「今までの歴史的な背景やそれぞれの経験から、今でも銀行を全く信用していないロシア人が多いことも事実。このような背景からも、目的も無く銀行にコツコツとお金を貯めるよりも、不動産や車などを購入して財産にする人が多い」
ロシア人は政府が捕捉できないアングラ収入源(バイト、自家農園の農産物販売など)があり、実際の年収は2倍あたりとか。中共など独裁国家では「上に政策あれば、下に対策あり」で、しっかり「備えあれば憂いなし」みたい。「政府が何とかしてくれるだろう」というノーズロのどこかの国とは違うなあ。
で、シャープの話だが、1962年に日本の家電企業で初めて電子レンジを発売(当初は業務用)、1966年には世界初のターンテーブル方式の電子レンジを開発した。シャープペンシル(1915年)や、液晶表示の電卓(1973年、世界初)などで時代の先端を切り拓いたものだが、好事魔多しということか、経営難で2016年、台湾の鴻海精密工業が3分の2弱の株式を取得し、日本の大手電機メーカーとしては、これまた「初」の外資傘下の企業となった。
栄枯盛衰は世の習いとは言え、三洋電機/サンヨーも2011年に本家パナソニックの子会社となり、今はインドでネット通販「SANYO」ブランドが残るだけという。子供の頃から馴染んできたブランドが消えていくのは寂しいものである。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」・・・マッカーサーも退任演説で引用していたが、日本では「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」の方がピンとくるなあ。強くなければ生き残れない・・・過酷なものだ。
マッカーサーと言えば「日本を百年は戦争できない国にする」ことを占領政策の柱にしたが、サンヨーもGHQの公職追放で松下電器からスピンアウトした会社だとは知らなかった。WIKIから。
<松下幸之助の義弟(妻の弟)で松下電器産業(パナソニック)の創業にもかかわり、同社の専務取締役だった井植歳男が、GHQによる公職追放指定に伴い1946年(昭和21年)に松下電器を退社。
翌年2月、幸之助より、自転車用発電ランプの製造権と加西市にある松下電工北条工場を譲り受け、個人事業「三洋電機製作所」を創業し、自転車用ランプを製造。当初は松下電器が三洋電機の名前を併記して「ナショナル」ブランドで販売していた>
「三洋」は太平洋・大西洋・インド洋のこと。「負けるもんか、世界を制覇する!」という井植の意気込みがうかがわれる。
<井植歳男(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)は三洋電機の創業者。松下電気器具製作所(パナソニック)の創業メンバーで、元専務取締役。
父・清太郎は「清光丸」という千石船をもち大阪、九州、朝鮮あたりまででかけて自家貿易をしていた。歳男が13歳の時、清太郎が急死し、後を継いで叔父の船で船乗りになったものの、東京倉庫の爆発に巻き込まれて炎上沈没、歳男らは命からがら逃げ帰る。そんな時、幸之助に嫁いでいた姉のむめのから手紙が届き、創業したばかりの松下電器製作所で働くこととなる(1917年)。
1923年に関東大震災に遭遇し、仕事先の東京から大阪に一時帰るが、10日後に再び東京へ引き返した。兵役期間を除いて1932年頃まで、たびたび東京に赴いたり、事業拡大への参画、またその頃病気がちだった義兄、幸之助の代理で会社を預かったりした。1933年には役員待遇、1935年には専務取締役となった。
戦時体制の1943年には、船に精通していることもあり、海軍の要請で設立された松下造船の社長に就任し、木造船建造の指揮を執った。
1946年、松下電器に対するGHQからの公職追放令(財閥や軍需会社の幹部1人を除いて全員が追放)を受け、幸之助を庇う形で30年間勤めた松下電器を退く。翌1947年、43歳の時、守口市に三洋電機製作所を設立し、社長に就任。
1963年には自身の音頭とりで淡路フェリーボートを就航させ、次いで本四架橋の実現運動を始めた。1968年1月、社長の座をすぐ下の弟・祐郎に譲って会長に就任し、1969年7月16日に死去>
敗戦から10年の1955年頃に登場した冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビは「三種の神器」と呼ばれて戦後復興の象徴となったが、井植は洗濯機に着目し、国内市場シェアのトップに育てたという。1961年からテレビ等を“宿敵”アメリカに売り込み始めたが、井植は感慨無量だったろう。
小生は韓国を代表するサムスン(三星)について知りたいなあ、書きたいなあと思っていたのだが、「韓国企業というより、国際企業が韓国に本社を置いているだけらしい」くらいしか分からなかった。ところがサンヨー/三洋に似ている「三星」は李恵美著『三星の成長と日本』によると――
<1969年:サムスン電機は三洋電機との技術移転協定によって白黒テレビの組み立てを開始。
電子産業に進出する時は、技術を保有していた日本の企業と合弁投資を通じて業界に参入し、日本の企業の資本と技術を利用して急成長を遂げた。サムスン電子のはじめての合弁会社は「サムスン三洋電機」であった。三洋電機が、サムスン三洋電機に特許の使用権、技術支援、原材料、技術情報、ノウハウを提供することを合意していた(サムスン秘書室1988.196)。新製品の多くの核心技術が合弁している日本の電子企業から受け入れたものである>
背景は1965年に国交樹立のため結ばれた日韓条約だ。日本は韓国に無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を約束。請求権問題に関しては「完全かつ最終的に解決された」と記した条約である。
朴正煕(日本名は高木正雄、帝国陸軍将校、朴槿恵の父)が佐藤栄作と署名し、それまで最貧国だった韓国は30年間にわたる「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げることになる。「何もない、どうしようもない、クズのような韓国が生き返った」と朴正煕が言うように、日韓条約、それに基づく日韓企業の協力が今のGDP世界10位をもたらした。
韓国は外資導入のために三洋電機など日本や世界の一流企業に税制優遇など魅力的な誘致策を提示したろう。『三星の成長と日本』の「電子産業における日本からの技術導入事例(1969~1994年)」から。
<1969年:サムスン電機、三洋電機との技術移転協定によって白黒テレビの組み立てを開始。1969年:サムスンNEC、CRTの電子部品生産。1978年:韓国エンジニアリング、東洋エンジニアリングの技術支援で産業プラント輸出工場を建設。以下はすべてサムスン電子による。
1981年:東芝からマイクロウエーブ・オーブン技術のライセンスを導入。1983年:東芝からエアコン技術ライセンス導入。JVC(日本ビクター)とソニーからVCR技術のライセンス導入。三洋電機から自動販売機技術のライセンスを導入。
1984年:東芝からワープロ・FAX・洗濯機技術のライセンスを導入。池上通信機から放送カメラ技術のライセンスを導入。三洋電機からマイクロウエーブ技術のライセンスを導入。松下電器からマグネトロン技術のライセンスを導入。
1993年:東芝と8年間、フラッシュメモリーの共同研究。1994年:NECと256MB DRAMの研究データの交流に合意。
このように、サムスンの電子産業への進出と技術の習得に、優れた技術力をもっていた日本の電子企業との企業間協力が決定的な役割を果たしていたのは明らかである>
長くなったので次回に続報。それにしても朴槿恵が訪独した際、メルケルはこう言った、「サムソン、素晴らしい企業ですわ。どうしたらこういう企業を創れるか、ぜひ教えてください」。
クネは返答に窮したそうだが、それにしても嫌味だなあ。貧しい頃の韓国は外貨を得るためにドイツにも出稼ぎ労働者を派遣し、朴正煕は労働者の手を握りながら「苦労を掛けて済まない」と共に泣いたという。女帝同士で遠慮がないのか、メルケルは「韓国が成長できたのは多くの国の協力があったからでしょ、まず感謝の言葉があってもいいはずよ」と言いたかったわけだ。
朴正煕の苦労を知っていたろうクネは「貴国を始め国際社会からの支援と協力でどうにか一人前になれました、ダンケシェーン」、そう言いたかったかもしれないが、韓国人の国民性を考えれば「土下座外交!」と非難轟々必至だから返答に窮したのだろう。ま、日本も色々ありますが、日本に生まれて良かったなあ、同志諸君!クネは間もなく独房4年目を迎える。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/215(2020/12/10/木】1984年に自宅を新築した折、親戚からお祝いにシャープ製のオーブンレンジを頂いたが、昨日、ダウンした。実に36年間も働いてくれたから“大往生”、もういいだろう、屋上に置いて作業台にでもしようか。
それにしても Made in Japan 恐るべし。アフリカの女性が子供に自転車を買い与える際に「中国製の新車より日本製の中古にしなさい」と訓示したのもムベなるかな。ロシアでは相変わらず日本製を筆頭に中古自動車が人気だが、さらに近年では日本、欧州、中国、韓国製の「新車!」も需要が高まっているとか。
ベストカーWEB「異国の街を懐かしい日本車が走る!? ロシア国内で流通する右ハンドル車事情」2020/11/10から。
<ロシアでは世界各地から中古車が輸入、販売されている。その様子は新車販売を圧迫しているとも言われており、ロシア政府もたびたび規制をかけようとするのだが、いずれも腰砕け状態となっているのが実状。
事情通は「マフィアが深く絡んでいるようなので、政府も半ばタッチできないという話もまことしやかに聞きます」とのこと。
「ソビエト時代からのロシア車は命の危険もあるので冬眠(冬は使わない)させる」という話を聞いた。ロシア車は故障が多いので、極寒の冬に故障したら凍死する可能性があるかららしい。
ロシアでの日本車の新車販売状況はどうかというと、モスクワ市内に限った話とされているが、レクサスの大ブレイク状態となっている。世界で最もレクサス車が愛されている大都市と言ってもいいぐらい市内を多くのレクサス車が走っている。
その背景には、世界的に不況などが起きると“金=ゴールド”を購入して資産を守ろうとする動きがあるが、ロシアではそのひとつとして「高級車を購入する」という動きが顕在化するのである>
サイト「せかいじゅう」2020/3/9によると、ロシア連邦国家統計局によると、ロシアの平均月収は約78,700円、ボーナス3ヶ月として平均年収は約1,180,300円(2019年11月時点 1ルーブル=1.7円換算)。
「今までの歴史的な背景やそれぞれの経験から、今でも銀行を全く信用していないロシア人が多いことも事実。このような背景からも、目的も無く銀行にコツコツとお金を貯めるよりも、不動産や車などを購入して財産にする人が多い」
ロシア人は政府が捕捉できないアングラ収入源(バイト、自家農園の農産物販売など)があり、実際の年収は2倍あたりとか。中共など独裁国家では「上に政策あれば、下に対策あり」で、しっかり「備えあれば憂いなし」みたい。「政府が何とかしてくれるだろう」というノーズロのどこかの国とは違うなあ。
で、シャープの話だが、1962年に日本の家電企業で初めて電子レンジを発売(当初は業務用)、1966年には世界初のターンテーブル方式の電子レンジを開発した。シャープペンシル(1915年)や、液晶表示の電卓(1973年、世界初)などで時代の先端を切り拓いたものだが、好事魔多しということか、経営難で2016年、台湾の鴻海精密工業が3分の2弱の株式を取得し、日本の大手電機メーカーとしては、これまた「初」の外資傘下の企業となった。
栄枯盛衰は世の習いとは言え、三洋電機/サンヨーも2011年に本家パナソニックの子会社となり、今はインドでネット通販「SANYO」ブランドが残るだけという。子供の頃から馴染んできたブランドが消えていくのは寂しいものである。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」・・・マッカーサーも退任演説で引用していたが、日本では「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」の方がピンとくるなあ。強くなければ生き残れない・・・過酷なものだ。
マッカーサーと言えば「日本を百年は戦争できない国にする」ことを占領政策の柱にしたが、サンヨーもGHQの公職追放で松下電器からスピンアウトした会社だとは知らなかった。WIKIから。
<松下幸之助の義弟(妻の弟)で松下電器産業(パナソニック)の創業にもかかわり、同社の専務取締役だった井植歳男が、GHQによる公職追放指定に伴い1946年(昭和21年)に松下電器を退社。
翌年2月、幸之助より、自転車用発電ランプの製造権と加西市にある松下電工北条工場を譲り受け、個人事業「三洋電機製作所」を創業し、自転車用ランプを製造。当初は松下電器が三洋電機の名前を併記して「ナショナル」ブランドで販売していた>
「三洋」は太平洋・大西洋・インド洋のこと。「負けるもんか、世界を制覇する!」という井植の意気込みがうかがわれる。
<井植歳男(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)は三洋電機の創業者。松下電気器具製作所(パナソニック)の創業メンバーで、元専務取締役。
父・清太郎は「清光丸」という千石船をもち大阪、九州、朝鮮あたりまででかけて自家貿易をしていた。歳男が13歳の時、清太郎が急死し、後を継いで叔父の船で船乗りになったものの、東京倉庫の爆発に巻き込まれて炎上沈没、歳男らは命からがら逃げ帰る。そんな時、幸之助に嫁いでいた姉のむめのから手紙が届き、創業したばかりの松下電器製作所で働くこととなる(1917年)。
1923年に関東大震災に遭遇し、仕事先の東京から大阪に一時帰るが、10日後に再び東京へ引き返した。兵役期間を除いて1932年頃まで、たびたび東京に赴いたり、事業拡大への参画、またその頃病気がちだった義兄、幸之助の代理で会社を預かったりした。1933年には役員待遇、1935年には専務取締役となった。
戦時体制の1943年には、船に精通していることもあり、海軍の要請で設立された松下造船の社長に就任し、木造船建造の指揮を執った。
1946年、松下電器に対するGHQからの公職追放令(財閥や軍需会社の幹部1人を除いて全員が追放)を受け、幸之助を庇う形で30年間勤めた松下電器を退く。翌1947年、43歳の時、守口市に三洋電機製作所を設立し、社長に就任。
1963年には自身の音頭とりで淡路フェリーボートを就航させ、次いで本四架橋の実現運動を始めた。1968年1月、社長の座をすぐ下の弟・祐郎に譲って会長に就任し、1969年7月16日に死去>
敗戦から10年の1955年頃に登場した冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビは「三種の神器」と呼ばれて戦後復興の象徴となったが、井植は洗濯機に着目し、国内市場シェアのトップに育てたという。1961年からテレビ等を“宿敵”アメリカに売り込み始めたが、井植は感慨無量だったろう。
小生は韓国を代表するサムスン(三星)について知りたいなあ、書きたいなあと思っていたのだが、「韓国企業というより、国際企業が韓国に本社を置いているだけらしい」くらいしか分からなかった。ところがサンヨー/三洋に似ている「三星」は李恵美著『三星の成長と日本』によると――
<1969年:サムスン電機は三洋電機との技術移転協定によって白黒テレビの組み立てを開始。
電子産業に進出する時は、技術を保有していた日本の企業と合弁投資を通じて業界に参入し、日本の企業の資本と技術を利用して急成長を遂げた。サムスン電子のはじめての合弁会社は「サムスン三洋電機」であった。三洋電機が、サムスン三洋電機に特許の使用権、技術支援、原材料、技術情報、ノウハウを提供することを合意していた(サムスン秘書室1988.196)。新製品の多くの核心技術が合弁している日本の電子企業から受け入れたものである>
背景は1965年に国交樹立のため結ばれた日韓条約だ。日本は韓国に無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を約束。請求権問題に関しては「完全かつ最終的に解決された」と記した条約である。
朴正煕(日本名は高木正雄、帝国陸軍将校、朴槿恵の父)が佐藤栄作と署名し、それまで最貧国だった韓国は30年間にわたる「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げることになる。「何もない、どうしようもない、クズのような韓国が生き返った」と朴正煕が言うように、日韓条約、それに基づく日韓企業の協力が今のGDP世界10位をもたらした。
韓国は外資導入のために三洋電機など日本や世界の一流企業に税制優遇など魅力的な誘致策を提示したろう。『三星の成長と日本』の「電子産業における日本からの技術導入事例(1969~1994年)」から。
<1969年:サムスン電機、三洋電機との技術移転協定によって白黒テレビの組み立てを開始。1969年:サムスンNEC、CRTの電子部品生産。1978年:韓国エンジニアリング、東洋エンジニアリングの技術支援で産業プラント輸出工場を建設。以下はすべてサムスン電子による。
1981年:東芝からマイクロウエーブ・オーブン技術のライセンスを導入。1983年:東芝からエアコン技術ライセンス導入。JVC(日本ビクター)とソニーからVCR技術のライセンス導入。三洋電機から自動販売機技術のライセンスを導入。
1984年:東芝からワープロ・FAX・洗濯機技術のライセンスを導入。池上通信機から放送カメラ技術のライセンスを導入。三洋電機からマイクロウエーブ技術のライセンスを導入。松下電器からマグネトロン技術のライセンスを導入。
1993年:東芝と8年間、フラッシュメモリーの共同研究。1994年:NECと256MB DRAMの研究データの交流に合意。
このように、サムスンの電子産業への進出と技術の習得に、優れた技術力をもっていた日本の電子企業との企業間協力が決定的な役割を果たしていたのは明らかである>
長くなったので次回に続報。それにしても朴槿恵が訪独した際、メルケルはこう言った、「サムソン、素晴らしい企業ですわ。どうしたらこういう企業を創れるか、ぜひ教えてください」。
クネは返答に窮したそうだが、それにしても嫌味だなあ。貧しい頃の韓国は外貨を得るためにドイツにも出稼ぎ労働者を派遣し、朴正煕は労働者の手を握りながら「苦労を掛けて済まない」と共に泣いたという。女帝同士で遠慮がないのか、メルケルは「韓国が成長できたのは多くの国の協力があったからでしょ、まず感謝の言葉があってもいいはずよ」と言いたかったわけだ。
朴正煕の苦労を知っていたろうクネは「貴国を始め国際社会からの支援と協力でどうにか一人前になれました、ダンケシェーン」、そう言いたかったかもしれないが、韓国人の国民性を考えれば「土下座外交!」と非難轟々必至だから返答に窮したのだろう。ま、日本も色々ありますが、日本に生まれて良かったなあ、同志諸君!クネは間もなく独房4年目を迎える。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp