雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(125」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/224(2020/12/26/土】「チャリ散歩 夏は汗かき 冬なみだ」という感じだなあ。芭蕉先生は「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」「夏草や 兵どもが 夢の跡」「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」・・・
チャリ散歩は「小さな旅、冒険」。今は目の玉が寒くて涙ぽろぽろ、鼻水たらたら、眼鏡屋に寄って「メガネの上をカバーできるゴーグルはありますか」と尋ねたが「ありません」。店を出たら顔なじみの奥さん、昔はアイドル系、お人形さんみたいだった方が呆然と歩いていた。「お元気?」「もうあちこち痛くて・・・」「お大事に」。資産家に嫁いだが加齢、老化には効かないか。
内に光るものがある人は老いても輝き、オーラがある、それを「品格」というのかもしれない。残念ながら小生には無縁だ。好奇心、感動、創造、憎悪の心は夕焼けのように燃えているが、憎悪や敵視は「偏愛、偏狭」のせいなのだろう。自分の好みの価値観に外れるものは許容しない、駆除して当然、「正義と思えば何でもできる」・・・哀しいかな、それはキチ〇イの小生のみならず、どうも人間、動物の業、初期設定、本能のよう。
原始から縄張り争い、戦争の連続・・・血と涙、敵意と憎悪、「もう、そういうのは止めにしよう」と3000年前あたりから「愛、友好」を説く人が増えていったのかもしれない。同時に「私は正義病」も増えて、聖職者までが「奴らは蛮族、邪教、敵だ、追い払え、殺せ、神に代わって征伐せよ!」となり、今に至っている。まったく残念なことだ、平和への道遠し、平和は逃げ水のよう。
「ウィーン発 『コンフィデンシャル』2020/12/1 仏、過去4年間で7人の神父が自殺」から。
<バチカン・ニュースで衝撃的なニュースが報じられていた。カトリック国のフランスで過去4年間で7人の神父が自殺したというのだ。
バーンアウト(燃え尽き症候群)、デプレッション(憂鬱)、肥満、孤独などがフランスの聖職者が頻繁に直面する課題となっているという。調査では93%の神父は肉体的、精神的に健康だと答えているが、聖職の過労とデプレッションが問題となると述べている。具体的には、2%の神父は自身がバーンアウトと感じ、その40%はアルコール中毒であることを認めている。神父の多くは孤立し、孤独に悩んでいる。インタビューを受けた神父の半分以上は一人暮らしだ。
神父の肉体的、精神的健康度の調査は同国司教会議が要請したもの。目的は神父の心の状態を掌握し、神父の「生活の質」向上に役立つ予防措置を取ることにあるという。調査対象となった神父は75歳以下の6300人。42%はフランス人神父だ。
フランス教会では神父の1日平均労働時間は9.4時間、20%の神父は「仕事時間が長い」と感じている。神父の45%が自分は慢性疾患を抱えていると思っている。喫煙者は少ないが、43%は体重過多であり、20%は慢性疾患の危険が高い肥満という。20%はデプレッションの兆候があり、7%は仕事の酷使に悩み、2%はバーンアウト状況だ。
司教会議は神父の「生活の質」向上のために様々なアドバイスをしている。最も重要な点は孤独対策だ。一人住まいではなく、神父たちの共同生活などだ。また、悩む神父のために社会的健康と交流場所を提供するセンターの設置だ。
いずれにしても、同国教会で過去4年間、7人の神父が自殺したという事実は重い。どのような経路から神父が自殺に追い込まれたか等の説明はない。聖職者にとって神が与えた生命を自ら断つことは罪と分かっていたはずだが、それを防ぐことができなかった。それだけ苦しみが深刻だったわけだ。
神父だけではない。高位聖職者に入る司教にも精神的に悩む聖職者が増えてきている。米ローマ・カトリック教会リンカーン教区のジェームズ・コンリィ司教(64)がうつ病のため休職を申し出たというニュースが報じられていた。司教はうつ病になり、不安恐怖症の症状を呈し、数カ月前から不眠と耳鳴りが続く症状だという。同司教は教区関係者宛てに書簡を送り、「相談した結果、自分はうつ病の精神疾患に罹っていると判断し、治療を受けるべきだと考えた」と説明している。
フランス教会だけではない。世界の教会で悩んでいる聖職者が多数いる。小手先の対応ではなく、抜本的な改革が必要な時だろう。以下、当方の考えを少し書いてみたい。
最大の問題は「聖職者の独身制」だ。人は生来、一人で生きていくようにはなっていない。カトリック教会の独身制は「ドグマ」ではなく、「伝統」に過ぎないことはベネディクト16世も認めている。「聖職者の独身制」廃止が急務だ。
キリスト教史を振り返ると、1651年の公会議の報告の中で、当時の多くの聖職者たちは特定の女性と内縁関係を結んでいたことが明らかになっている。カトリック教会の現行の独身制は1139年の公会議に遡る。聖職者に子供が生まれれば、遺産相続問題が生じる。それを回避し、教会の財産を保護する経済的理由があったという。
問題は、教会の独身制は聖職者の未成年者への性的虐待問題にもかかわると読み取れることだ。バチカン・ニュースは昨年12月、「バチカンは2001年以来、6000件の聖職者の性犯罪を調査してきた」と報じた。この数字は実際起きた聖職者の未成年者への性的虐待総数の氷山の一角に過ぎない。実数はその数倍と受け取られている。
当方は、結婚と家庭を捨てて教会や修道院で神を求める信仰生活は本来の神の願いと一致しないと考えている。これからは家庭で神を迎えなければならない。出家して仏の道を模索したり、教会や修道院に入って神を探す時代は過ぎ去った。実際、若い修道僧・修道女の離脱が増えている。2001年から11年の過去10年間で79万2100人だった修道女数は71万3000人と約10%急減した。世界で毎年3000人の修道僧、修道女が離脱している。
もちろん、聖職者が家庭をもてば全てが解決するとは考えていない。家庭を築けばまた新しい問題が出てくるだろう。しかし、一人で悩むことはなくなるはずだ。フランスの司教会議の今回の調査結果は聖職者の独身制がもはや機能しないことをはっきりと示している。
なお、バチカン・ニュースでは、104歳で11月24日亡くなったスペイン人の司教のニュースが報じられていた。その記事には1枚の写真が掲載されていた。当方は司教が如何なる道を歩んできたかは知らないが、写真の司教の後ろ姿から、強烈な孤独を感じた>
神は死んだ、生きているかもしれないが、それは分からない。神ならぬ生身の僧侶は「今」を生きている。この世は天国ではないから僧侶とて万人同様に悲しみ、苦しみ、不安、不幸は多く、それでも僧侶による癒し系の仕事は万人にとって必要なのだ。
今朝の散歩では急勾配の崖の中腹に「津田山弁財天」を発見した。弁財天が小生を呼んだのかもしれない。鳥居をくぐると崖の奥には祠があり地下水がたまっていた。創建年代は不明だが、1913年(大正2年)の旱魃の際、弁財天に祈願したところ、雨が降り草木が蘇ったという。今でもきれいに手入れされており、石碑にはこう刻されていた。
<大正二年八月大旱渇水 穀草果木 殆ンド将ニ枯死セントシ 農家ノ憂慮言語ニ絶ス 菲徳未義 其状ヲ見テ愁惧ニ堪ヘズ 猛然意ヲ決シテ此窟中ニ入リ 断食三晝夜 千巻ノ経文ヲ誦シ 丹悃ヲ傾ケテ至心雨ヲ祈ル・・・>
人事を尽くして天命を待つ、最後は神仏に祈るしかない。それを取り持つのが僧侶であり、少なくとも今の日本人は僧侶が未婚か既婚かなんて気にしない、むしろ独身だと「キモイ」と思われるのではないか。
日本では明治5年(1872)に「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と太政官布告があり、国家が仏教との関わりを解き、明治後期まで仏教界で議論紛糾したが、結局自然の成り行きに順じる方向で収束し、現在に至っている。破戒ではなく無戒の時代なのだ」(「住職のひとりごと」)
日本では僧侶も職能人、生身の人間、喜怒哀楽は避けられない。多くの日本人は多神教で、神社仏閣に求めるのは幸運、平穏、癒し、慰め、智慧であり、それを上手に神仏に祈ってくれる先導者の僧侶や神主に、昔じゃあるまいし童貞や未婚を求めたら、逆に「頭、おかしいんじゃね、医者行った方がいいよ、医者に」となる。
少なくとも3000年間喧嘩してきた一神教より、「人は好き好きケナスは野暮よ」の日本的多神教の方が平和であることは確かだ。日本に宗教問題はまずない、過疎化で神社仏閣が消滅しかねない、どうにかしないと、という人口問題、文化問題ばかりだ。まったく穏やかな国柄である。良き国を守りたい。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/224(2020/12/26/土】「チャリ散歩 夏は汗かき 冬なみだ」という感じだなあ。芭蕉先生は「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」「夏草や 兵どもが 夢の跡」「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」・・・
チャリ散歩は「小さな旅、冒険」。今は目の玉が寒くて涙ぽろぽろ、鼻水たらたら、眼鏡屋に寄って「メガネの上をカバーできるゴーグルはありますか」と尋ねたが「ありません」。店を出たら顔なじみの奥さん、昔はアイドル系、お人形さんみたいだった方が呆然と歩いていた。「お元気?」「もうあちこち痛くて・・・」「お大事に」。資産家に嫁いだが加齢、老化には効かないか。
内に光るものがある人は老いても輝き、オーラがある、それを「品格」というのかもしれない。残念ながら小生には無縁だ。好奇心、感動、創造、憎悪の心は夕焼けのように燃えているが、憎悪や敵視は「偏愛、偏狭」のせいなのだろう。自分の好みの価値観に外れるものは許容しない、駆除して当然、「正義と思えば何でもできる」・・・哀しいかな、それはキチ〇イの小生のみならず、どうも人間、動物の業、初期設定、本能のよう。
原始から縄張り争い、戦争の連続・・・血と涙、敵意と憎悪、「もう、そういうのは止めにしよう」と3000年前あたりから「愛、友好」を説く人が増えていったのかもしれない。同時に「私は正義病」も増えて、聖職者までが「奴らは蛮族、邪教、敵だ、追い払え、殺せ、神に代わって征伐せよ!」となり、今に至っている。まったく残念なことだ、平和への道遠し、平和は逃げ水のよう。
「ウィーン発 『コンフィデンシャル』2020/12/1 仏、過去4年間で7人の神父が自殺」から。
<バチカン・ニュースで衝撃的なニュースが報じられていた。カトリック国のフランスで過去4年間で7人の神父が自殺したというのだ。
バーンアウト(燃え尽き症候群)、デプレッション(憂鬱)、肥満、孤独などがフランスの聖職者が頻繁に直面する課題となっているという。調査では93%の神父は肉体的、精神的に健康だと答えているが、聖職の過労とデプレッションが問題となると述べている。具体的には、2%の神父は自身がバーンアウトと感じ、その40%はアルコール中毒であることを認めている。神父の多くは孤立し、孤独に悩んでいる。インタビューを受けた神父の半分以上は一人暮らしだ。
神父の肉体的、精神的健康度の調査は同国司教会議が要請したもの。目的は神父の心の状態を掌握し、神父の「生活の質」向上に役立つ予防措置を取ることにあるという。調査対象となった神父は75歳以下の6300人。42%はフランス人神父だ。
フランス教会では神父の1日平均労働時間は9.4時間、20%の神父は「仕事時間が長い」と感じている。神父の45%が自分は慢性疾患を抱えていると思っている。喫煙者は少ないが、43%は体重過多であり、20%は慢性疾患の危険が高い肥満という。20%はデプレッションの兆候があり、7%は仕事の酷使に悩み、2%はバーンアウト状況だ。
司教会議は神父の「生活の質」向上のために様々なアドバイスをしている。最も重要な点は孤独対策だ。一人住まいではなく、神父たちの共同生活などだ。また、悩む神父のために社会的健康と交流場所を提供するセンターの設置だ。
いずれにしても、同国教会で過去4年間、7人の神父が自殺したという事実は重い。どのような経路から神父が自殺に追い込まれたか等の説明はない。聖職者にとって神が与えた生命を自ら断つことは罪と分かっていたはずだが、それを防ぐことができなかった。それだけ苦しみが深刻だったわけだ。
神父だけではない。高位聖職者に入る司教にも精神的に悩む聖職者が増えてきている。米ローマ・カトリック教会リンカーン教区のジェームズ・コンリィ司教(64)がうつ病のため休職を申し出たというニュースが報じられていた。司教はうつ病になり、不安恐怖症の症状を呈し、数カ月前から不眠と耳鳴りが続く症状だという。同司教は教区関係者宛てに書簡を送り、「相談した結果、自分はうつ病の精神疾患に罹っていると判断し、治療を受けるべきだと考えた」と説明している。
フランス教会だけではない。世界の教会で悩んでいる聖職者が多数いる。小手先の対応ではなく、抜本的な改革が必要な時だろう。以下、当方の考えを少し書いてみたい。
最大の問題は「聖職者の独身制」だ。人は生来、一人で生きていくようにはなっていない。カトリック教会の独身制は「ドグマ」ではなく、「伝統」に過ぎないことはベネディクト16世も認めている。「聖職者の独身制」廃止が急務だ。
キリスト教史を振り返ると、1651年の公会議の報告の中で、当時の多くの聖職者たちは特定の女性と内縁関係を結んでいたことが明らかになっている。カトリック教会の現行の独身制は1139年の公会議に遡る。聖職者に子供が生まれれば、遺産相続問題が生じる。それを回避し、教会の財産を保護する経済的理由があったという。
問題は、教会の独身制は聖職者の未成年者への性的虐待問題にもかかわると読み取れることだ。バチカン・ニュースは昨年12月、「バチカンは2001年以来、6000件の聖職者の性犯罪を調査してきた」と報じた。この数字は実際起きた聖職者の未成年者への性的虐待総数の氷山の一角に過ぎない。実数はその数倍と受け取られている。
当方は、結婚と家庭を捨てて教会や修道院で神を求める信仰生活は本来の神の願いと一致しないと考えている。これからは家庭で神を迎えなければならない。出家して仏の道を模索したり、教会や修道院に入って神を探す時代は過ぎ去った。実際、若い修道僧・修道女の離脱が増えている。2001年から11年の過去10年間で79万2100人だった修道女数は71万3000人と約10%急減した。世界で毎年3000人の修道僧、修道女が離脱している。
もちろん、聖職者が家庭をもてば全てが解決するとは考えていない。家庭を築けばまた新しい問題が出てくるだろう。しかし、一人で悩むことはなくなるはずだ。フランスの司教会議の今回の調査結果は聖職者の独身制がもはや機能しないことをはっきりと示している。
なお、バチカン・ニュースでは、104歳で11月24日亡くなったスペイン人の司教のニュースが報じられていた。その記事には1枚の写真が掲載されていた。当方は司教が如何なる道を歩んできたかは知らないが、写真の司教の後ろ姿から、強烈な孤独を感じた>
神は死んだ、生きているかもしれないが、それは分からない。神ならぬ生身の僧侶は「今」を生きている。この世は天国ではないから僧侶とて万人同様に悲しみ、苦しみ、不安、不幸は多く、それでも僧侶による癒し系の仕事は万人にとって必要なのだ。
今朝の散歩では急勾配の崖の中腹に「津田山弁財天」を発見した。弁財天が小生を呼んだのかもしれない。鳥居をくぐると崖の奥には祠があり地下水がたまっていた。創建年代は不明だが、1913年(大正2年)の旱魃の際、弁財天に祈願したところ、雨が降り草木が蘇ったという。今でもきれいに手入れされており、石碑にはこう刻されていた。
<大正二年八月大旱渇水 穀草果木 殆ンド将ニ枯死セントシ 農家ノ憂慮言語ニ絶ス 菲徳未義 其状ヲ見テ愁惧ニ堪ヘズ 猛然意ヲ決シテ此窟中ニ入リ 断食三晝夜 千巻ノ経文ヲ誦シ 丹悃ヲ傾ケテ至心雨ヲ祈ル・・・>
人事を尽くして天命を待つ、最後は神仏に祈るしかない。それを取り持つのが僧侶であり、少なくとも今の日本人は僧侶が未婚か既婚かなんて気にしない、むしろ独身だと「キモイ」と思われるのではないか。
日本では明治5年(1872)に「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と太政官布告があり、国家が仏教との関わりを解き、明治後期まで仏教界で議論紛糾したが、結局自然の成り行きに順じる方向で収束し、現在に至っている。破戒ではなく無戒の時代なのだ」(「住職のひとりごと」)
日本では僧侶も職能人、生身の人間、喜怒哀楽は避けられない。多くの日本人は多神教で、神社仏閣に求めるのは幸運、平穏、癒し、慰め、智慧であり、それを上手に神仏に祈ってくれる先導者の僧侶や神主に、昔じゃあるまいし童貞や未婚を求めたら、逆に「頭、おかしいんじゃね、医者行った方がいいよ、医者に」となる。
少なくとも3000年間喧嘩してきた一神教より、「人は好き好きケナスは野暮よ」の日本的多神教の方が平和であることは確かだ。日本に宗教問題はまずない、過疎化で神社仏閣が消滅しかねない、どうにかしないと、という人口問題、文化問題ばかりだ。まったく穏やかな国柄である。良き国を守りたい。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp