雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(121」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/220(2020/12/20/日】かつて日本の食生活は「米の飯が食えれば御の字」という「粗衣粗食」時代がずーっと続いていた。江戸時代は人口の7割を占める農民は「米=納税物資」で、めったに口にできなかった。生産性が低くて万年食糧難、250年間人口は2500万前後と低迷していた。
1957年に小1だった小生は学校から帰ると、残りメシで「味噌おにぎり」を作って食べ、遊びに出かけた。ごくたまにふかしたサツマイモやトウモロコシがあれば御の字。夕食でさえ、ご飯、味噌汁、漬物、佃煮、メインはガンモドキと野菜の煮物とか。メインはたまにライスカレー、焼き魚(鰯、鯵開き、秋刀魚開き)になったが、煮物が定番だった。
卵は1個10円、コロッケと同じで今なら100~150円あたりの高級品で、病気の時には卵と牛乳が登場した。父が公務員の時は給料日前の3日、4日は金欠で煮込みうどんが続き、子供ながら「またか・・・」と思ったものだ。
庶民は大体こんなものだから「貧しい」なんて思わない。友達の家で豚肉入りのカレー(我が家では肉の代わりに鯖缶!)を初めて食べ、びっくりしたのは小3だった。開きではない本物?の秋刀魚を食べたのは小5で、これまたびっくりした。
庶民とは言え当時でもそこそこ格差はあったので、友達から「君んちはいいもんを食ってる」と言われて、またまたびっくりした。1か月くらいご飯と福神漬けだけで暮らしていたお兄さんもいたが、就職したのだろう、「パリッとした背広を着て挨拶に来た」と母がびっくりしていた。
戦争末期や戦後の食糧難の頃の「ひもじさ」「貧しさ」「惨めさ」はなく、明るい未来を信じられる時代になったのだろう。1960年の安保騒動後に池田総理は「所得倍増計画」を唱えていた。1962年頃には学校給食の、あのまずい脱脂粉乳(スキムミルク)を残す生徒が増え、小生は一升瓶に入れて犬にくれてやったものだ。
1964年の東京五輪前後から食生活はかなり変わっていき、それまでは寄生虫を恐れて生では食べない生野菜サラダが登場、焼きそば、スパゲティ、肉野菜炒め、開きではない丸ごとサンマ、すき焼き、おでん、ステーキ・・・食卓革命、三種の神器の生活革命が凄い勢いで進んだものだ。
「衣食足りて礼節を知る」のではなく色キチ〇イ、肥満、貪欲、拝金主義が蔓延した。まるでポンペイ、ソドム&ゴモラの世界、これが人類の初期設定なのだろう、先進国から始まり、今や後進国もその道を辿っている。その過程で、消滅した大国がある・・・“アカの祖国”ソ連だ。
1968年1月、石油輸出国機構 (OPEC) とは別組織として、クウェート・リビア・サウジアラビアの3カ国(現在は10か国)で「アラブ石油輸出国機構」(OAPEC)が結成された。盟主はサウジである。以下「ロシア・ビヨンド」から要約する。
<1973年10月、OAPECは、第4次中東戦争でイスラエルを支援した国、カナダ、日本、オランダ、イギリス、アメリカに対する制裁として石油販売を停止した。同年12月までに、OAPECの生産高は4分の1にまで落ち込んだ。世界を激震させた「オイルショック」である。
(日本の女にとっては“トイレットペーパー騒動”として記憶されているだろう、それはとても健全なこと。女を政争に巻き込まないことで大事な田畑、油田を守っているわけ。種は不足しない)
OAPEC諸国にとり米国その他の先進国は重要な顧客ではあったが、生産コストが低いため、米英などに販売しなくても国際収支を維持できた。だからこそ制裁可能だった。
この決定は世界的な景気後退と経済危機を起こした。1974年の禁輸措置終了までに、石油価格は1バレル3ドルから12ドルへと4倍にハネ上がり、米国ではさらに値上がりした。サウジ王家は瞬く間に莫大な富を得て、繁栄を謳歌した。
この状況はソ連にとっても非常に有利だった。ソ連は石油・天然ガスの採掘量を増やし、すぐに石油とガスの主要生産国の一つになった。石油・ガスによる収入は国民所得の半分以上を占めるにいたったのだ。
1973年のオイルショックは長期的な結果ももたらした。同じガソリンタンクで2倍走れる日本製自動車が市場をリードするようになり、米国その他の西側諸国は、新しい石油鉱床と原油採掘の技術改良を模索し始める。その間もソ連は依然として原油販売で莫大な利益を上げていた。
1980年代の初めまでに、米国その他の「第一世界」による共同の努力は報われ始める。過剰生産のために原油価格が下がり出したからだ。
1986年、チェルノブイリ原発事故が発生すると、米中央情報局(CIA)長官を務めていたケーシーがサウジを訪れ、ファハド国王と交渉した。ケーシーが帰国した後、サウジは価格がまだ低いにもかかわらず、その採掘量を急速に増やし始めたのである!
4か月の間に、サウジの採掘量は日産200万バレルから1000万バレルに増え、価格は1バレル32ドルから10ドルに急落した。
ソ連経済にとっては、石油による大収入はすでに基盤になっていたため、価格暴落は致命的な打撃になった。1986年だけでも、ソ連は200億ドル(ソ連の歳入の7.5%)以上を失い、早くも財政赤字を抱えていた。
しかし、サウジ経済にとっても低価格は打撃だったはず。ならば、なぜ彼らは急激な増産を敢えてしたのか?
レーガン米大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官だったアレンの意見では、ケーシーがその措置と引き換えに、財政的補償を提案したという。この意見は、1986年にサウジ石油の80%が米国のメジャー、エクソン、モービル、テキサコ、シェブロンを通じて販売された事実で裏付けられる。
ソ連は1985~1986年の石油暴落危機後、不況に陥った。すでに不健全だった統制型のソ連経済が崩壊するには十分なインパクトだった。1986年、ソ連の対外債務は約300億ドルだったが、1989年までに500億ドルに達した。
石油危機は、米国がソ連との冷戦に勝つ上でも大いに役立った。経済不況によりゴルバチョフは非常に不人気な政策決定を下すよう強いられたが、資金不足のためにほとんど希望がもてなかった。ゴルバチョフのポピュリズム的レトリックは、窮乏する国民に受けなかった。
国民は、ソ連政府の「近視眼的な行動」に対する責任を問う。またその頃、エリツィン(後のロシア連邦初代大統領)がソビエト・システム全般を厳しく批判し始める。1980年代末までにソ連の崩壊はほとんど不可避となっていた>
ソ連でも貿易制限されていたとはいえ「石油輸出」という稼ぎ頭=ドル箱が、激安商戦で儲けが吹っ飛ぶどころか大赤字、操業を止めるしかない。国民所得の半分が消えてしまえば「衣食足りずば怒り心頭、政府を潰せ」となる。政府を支えるはずの役人、軍人までが共産党に愛想を尽かし、そしてソ連は消えたのだ。凄いドラマだなあ。
小生は「イスラム・スンニ派の盟主サウジはオイルビジネス上、西側にも東側にもつかないようにしている、でも最新兵器は米国製だ、どうなっているんだろう」と思っていたが、実はサウジの“育ての親、乳母”は米国だったのだ!
<1930年代初め、世界の辺境であったアラビア半島に位置する第三世界の国家として、サウジアラビア王国が成立した。これに先立ち、イブン・サウード王はベドウィンの軍隊を率いて、1926年にヒジャーズ王国(イスラム教の聖地、メッカとメディナを有していた)を制圧し、自身の権威の確立を宣言した。
突然、ソ連は他の国に先駆けて、この新王国を承認する。イブン・サウードとその臣下は、イスラム教内の厳格なワッハーブ派を信奉していた。その彼らがどうしてソ連と良好な関係をもてたのか? ソ連はマルクスとレーニンのみを崇拝し、無神論的な国際革命運動を支援していたというのに?
要するに、それはすべて政治的方便だ。ソ連にとって重要なのは、この地域の「反英的な、独立したアラブ諸国を支援すること」だった。「アラビア半島の重要性は年々高まっている。この地域における独立国家の存在が非常に重要であることは明らかだ」とソ連はサウジに秋波を送ったわけだ。そこで彼らは、無神論と革命については、口を閉ざしておくことにした。
ところがソ連とサウジの関係は、わずか5年後に完全に悪化してしまう。ソ連が自国のイスラム教徒の国民に対し、メッカとメディナへの巡礼を許さないことだった。これは(神マルクス、予言者レーニンというML教の)共産主義国にとっては受け入れがたいことだった。
こうして1938年以来、ソ連とサウジの関係は基本的に存在しなくなった。その同じ年、米国がサウジで主導権を握り(しかも苦労の末に)石油を見つけた。以来、遊牧民に支配されていた砂漠のど真ん中の王国が、戦略的に重要な国に変貌した。(横綱米国の粘り勝ち)
ずっと後の1985年、サウジによる石油増産の決定と価格暴落は石油輸出国であるソ連に大きな損害をもたらした。(横綱露助、本日より休場)
サウジによる石油のダンピングがソ連を終焉に導いたという説は単純化されすぎているが、サウジの政策がソ連経済の状態を悪化させたことは確かだ。スターリンがこんな結末の可能性を知っていたら、彼は多分(サウジとの友好を進めた)自分の外交官を(スパイとして銃殺刑にすることなく)まともに扱っていただろう>
うーん、凄いドラマだなあ、事実は小説より奇なり、「鬼滅の刃」より面白いかも。次は「カネの切れ目が縁の切れ目 中共・習近平 地獄の道行」とか書きたいものだ。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/220(2020/12/20/日】かつて日本の食生活は「米の飯が食えれば御の字」という「粗衣粗食」時代がずーっと続いていた。江戸時代は人口の7割を占める農民は「米=納税物資」で、めったに口にできなかった。生産性が低くて万年食糧難、250年間人口は2500万前後と低迷していた。
1957年に小1だった小生は学校から帰ると、残りメシで「味噌おにぎり」を作って食べ、遊びに出かけた。ごくたまにふかしたサツマイモやトウモロコシがあれば御の字。夕食でさえ、ご飯、味噌汁、漬物、佃煮、メインはガンモドキと野菜の煮物とか。メインはたまにライスカレー、焼き魚(鰯、鯵開き、秋刀魚開き)になったが、煮物が定番だった。
卵は1個10円、コロッケと同じで今なら100~150円あたりの高級品で、病気の時には卵と牛乳が登場した。父が公務員の時は給料日前の3日、4日は金欠で煮込みうどんが続き、子供ながら「またか・・・」と思ったものだ。
庶民は大体こんなものだから「貧しい」なんて思わない。友達の家で豚肉入りのカレー(我が家では肉の代わりに鯖缶!)を初めて食べ、びっくりしたのは小3だった。開きではない本物?の秋刀魚を食べたのは小5で、これまたびっくりした。
庶民とは言え当時でもそこそこ格差はあったので、友達から「君んちはいいもんを食ってる」と言われて、またまたびっくりした。1か月くらいご飯と福神漬けだけで暮らしていたお兄さんもいたが、就職したのだろう、「パリッとした背広を着て挨拶に来た」と母がびっくりしていた。
戦争末期や戦後の食糧難の頃の「ひもじさ」「貧しさ」「惨めさ」はなく、明るい未来を信じられる時代になったのだろう。1960年の安保騒動後に池田総理は「所得倍増計画」を唱えていた。1962年頃には学校給食の、あのまずい脱脂粉乳(スキムミルク)を残す生徒が増え、小生は一升瓶に入れて犬にくれてやったものだ。
1964年の東京五輪前後から食生活はかなり変わっていき、それまでは寄生虫を恐れて生では食べない生野菜サラダが登場、焼きそば、スパゲティ、肉野菜炒め、開きではない丸ごとサンマ、すき焼き、おでん、ステーキ・・・食卓革命、三種の神器の生活革命が凄い勢いで進んだものだ。
「衣食足りて礼節を知る」のではなく色キチ〇イ、肥満、貪欲、拝金主義が蔓延した。まるでポンペイ、ソドム&ゴモラの世界、これが人類の初期設定なのだろう、先進国から始まり、今や後進国もその道を辿っている。その過程で、消滅した大国がある・・・“アカの祖国”ソ連だ。
1968年1月、石油輸出国機構 (OPEC) とは別組織として、クウェート・リビア・サウジアラビアの3カ国(現在は10か国)で「アラブ石油輸出国機構」(OAPEC)が結成された。盟主はサウジである。以下「ロシア・ビヨンド」から要約する。
<1973年10月、OAPECは、第4次中東戦争でイスラエルを支援した国、カナダ、日本、オランダ、イギリス、アメリカに対する制裁として石油販売を停止した。同年12月までに、OAPECの生産高は4分の1にまで落ち込んだ。世界を激震させた「オイルショック」である。
(日本の女にとっては“トイレットペーパー騒動”として記憶されているだろう、それはとても健全なこと。女を政争に巻き込まないことで大事な田畑、油田を守っているわけ。種は不足しない)
OAPEC諸国にとり米国その他の先進国は重要な顧客ではあったが、生産コストが低いため、米英などに販売しなくても国際収支を維持できた。だからこそ制裁可能だった。
この決定は世界的な景気後退と経済危機を起こした。1974年の禁輸措置終了までに、石油価格は1バレル3ドルから12ドルへと4倍にハネ上がり、米国ではさらに値上がりした。サウジ王家は瞬く間に莫大な富を得て、繁栄を謳歌した。
この状況はソ連にとっても非常に有利だった。ソ連は石油・天然ガスの採掘量を増やし、すぐに石油とガスの主要生産国の一つになった。石油・ガスによる収入は国民所得の半分以上を占めるにいたったのだ。
1973年のオイルショックは長期的な結果ももたらした。同じガソリンタンクで2倍走れる日本製自動車が市場をリードするようになり、米国その他の西側諸国は、新しい石油鉱床と原油採掘の技術改良を模索し始める。その間もソ連は依然として原油販売で莫大な利益を上げていた。
1980年代の初めまでに、米国その他の「第一世界」による共同の努力は報われ始める。過剰生産のために原油価格が下がり出したからだ。
1986年、チェルノブイリ原発事故が発生すると、米中央情報局(CIA)長官を務めていたケーシーがサウジを訪れ、ファハド国王と交渉した。ケーシーが帰国した後、サウジは価格がまだ低いにもかかわらず、その採掘量を急速に増やし始めたのである!
4か月の間に、サウジの採掘量は日産200万バレルから1000万バレルに増え、価格は1バレル32ドルから10ドルに急落した。
ソ連経済にとっては、石油による大収入はすでに基盤になっていたため、価格暴落は致命的な打撃になった。1986年だけでも、ソ連は200億ドル(ソ連の歳入の7.5%)以上を失い、早くも財政赤字を抱えていた。
しかし、サウジ経済にとっても低価格は打撃だったはず。ならば、なぜ彼らは急激な増産を敢えてしたのか?
レーガン米大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官だったアレンの意見では、ケーシーがその措置と引き換えに、財政的補償を提案したという。この意見は、1986年にサウジ石油の80%が米国のメジャー、エクソン、モービル、テキサコ、シェブロンを通じて販売された事実で裏付けられる。
ソ連は1985~1986年の石油暴落危機後、不況に陥った。すでに不健全だった統制型のソ連経済が崩壊するには十分なインパクトだった。1986年、ソ連の対外債務は約300億ドルだったが、1989年までに500億ドルに達した。
石油危機は、米国がソ連との冷戦に勝つ上でも大いに役立った。経済不況によりゴルバチョフは非常に不人気な政策決定を下すよう強いられたが、資金不足のためにほとんど希望がもてなかった。ゴルバチョフのポピュリズム的レトリックは、窮乏する国民に受けなかった。
国民は、ソ連政府の「近視眼的な行動」に対する責任を問う。またその頃、エリツィン(後のロシア連邦初代大統領)がソビエト・システム全般を厳しく批判し始める。1980年代末までにソ連の崩壊はほとんど不可避となっていた>
ソ連でも貿易制限されていたとはいえ「石油輸出」という稼ぎ頭=ドル箱が、激安商戦で儲けが吹っ飛ぶどころか大赤字、操業を止めるしかない。国民所得の半分が消えてしまえば「衣食足りずば怒り心頭、政府を潰せ」となる。政府を支えるはずの役人、軍人までが共産党に愛想を尽かし、そしてソ連は消えたのだ。凄いドラマだなあ。
小生は「イスラム・スンニ派の盟主サウジはオイルビジネス上、西側にも東側にもつかないようにしている、でも最新兵器は米国製だ、どうなっているんだろう」と思っていたが、実はサウジの“育ての親、乳母”は米国だったのだ!
<1930年代初め、世界の辺境であったアラビア半島に位置する第三世界の国家として、サウジアラビア王国が成立した。これに先立ち、イブン・サウード王はベドウィンの軍隊を率いて、1926年にヒジャーズ王国(イスラム教の聖地、メッカとメディナを有していた)を制圧し、自身の権威の確立を宣言した。
突然、ソ連は他の国に先駆けて、この新王国を承認する。イブン・サウードとその臣下は、イスラム教内の厳格なワッハーブ派を信奉していた。その彼らがどうしてソ連と良好な関係をもてたのか? ソ連はマルクスとレーニンのみを崇拝し、無神論的な国際革命運動を支援していたというのに?
要するに、それはすべて政治的方便だ。ソ連にとって重要なのは、この地域の「反英的な、独立したアラブ諸国を支援すること」だった。「アラビア半島の重要性は年々高まっている。この地域における独立国家の存在が非常に重要であることは明らかだ」とソ連はサウジに秋波を送ったわけだ。そこで彼らは、無神論と革命については、口を閉ざしておくことにした。
ところがソ連とサウジの関係は、わずか5年後に完全に悪化してしまう。ソ連が自国のイスラム教徒の国民に対し、メッカとメディナへの巡礼を許さないことだった。これは(神マルクス、予言者レーニンというML教の)共産主義国にとっては受け入れがたいことだった。
こうして1938年以来、ソ連とサウジの関係は基本的に存在しなくなった。その同じ年、米国がサウジで主導権を握り(しかも苦労の末に)石油を見つけた。以来、遊牧民に支配されていた砂漠のど真ん中の王国が、戦略的に重要な国に変貌した。(横綱米国の粘り勝ち)
ずっと後の1985年、サウジによる石油増産の決定と価格暴落は石油輸出国であるソ連に大きな損害をもたらした。(横綱露助、本日より休場)
サウジによる石油のダンピングがソ連を終焉に導いたという説は単純化されすぎているが、サウジの政策がソ連経済の状態を悪化させたことは確かだ。スターリンがこんな結末の可能性を知っていたら、彼は多分(サウジとの友好を進めた)自分の外交官を(スパイとして銃殺刑にすることなく)まともに扱っていただろう>
うーん、凄いドラマだなあ、事実は小説より奇なり、「鬼滅の刃」より面白いかも。次は「カネの切れ目が縁の切れ目 中共・習近平 地獄の道行」とか書きたいものだ。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp