雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(130」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/228(2021/1/3/日】1月2日の午前0時半、習近平の夢で目覚めた。習近平が砂浜を歩いており、ズボンのすそは濡れている。諦観したのか、顔は微笑んでいるように見える。やがて浜辺の大きな“夏の家”に入り、首をくくった・・・
楽しい初夢、吉兆、神様仏様、どうぞ正夢にして下さい、と祈ったね。習は最側近の女房、彭麗媛にも愛想をつかされていたようだが、10か月振りに彭が表舞台に登場した。
<習近平国家主席と彭麗媛夫人は2020年11月6日、北京の人民大会堂でカンボジアのシハモニ国王、モニク前王妃と会見した>(中共大使館)
日本では報道されなかったようだが・・・写真を見ると習は冴えないが、夫人は毅然としている、威厳がある、オーラがある。http://jp.xinhuanet.com/2020-11/07/c_139498098.htm
才色兼備の夫人は歌手としても人気者で、軍所属時代は少将、カッコイイ国民的アイドルで、今でも習よりも支持者が多いとか。夫人は旦那や外交部に頼まれたのではなく、自分の意思と支持者の意向で会場に押し掛けたような風情だ。牝鶏鳴きて国滅ぶ、西太后のような例もあるが、レーガンをビビらせた鉄女サッチャー、パープリンを手なずける乳母メルケルのような例もあるから、彭麗媛をトップにしたいという勢力は増えているのではないか。反共メディア「看中国」から。
<2020年11月7日:2020年に入ってから彭麗媛の活動は著しく低下し、習近平に同行することは稀である。2019年12月に習近平とマカオでの祝賀会に出席して以来“ステルス”状態だった。
2020年の夏、中国共産党が「香港版国安法」を推し進めて論争を巻き起こす中、著名な民衆運動家タン・パクチャオは高官筋情報として、2019年11月から12月にかけて、彭麗媛と娘(習明沢、1992年生、ハーバード大卒)が習近平と別居したと伝えている。
タン氏は「別居は2019年の香港問題に対する中共の取り締まりが世界を怒らせたことと関係があるかもしれない」と分析。 習近平の娘はハーバード大人脈の多くの香港の同級生や友人がいる。彭麗媛と娘は非常に近く、最終的に家族合意で彭麗媛は習近平夫人として公の場に現れなくなったようだ。
彭麗媛は習よりもはるかに知名度が高い。 しかし2007年頃、習が国家主席と党総書記に就任した後、彼女は基本的に歌手としてのキャリアをあきらめていた>
レーガンは俳優としてはパッとしなかったが、大統領としては立派だった。中国は国家主席の座を巡って派閥抗争が激しいようだが、彭麗媛を統合の象徴として戴く10~20程の省からなる「中華連省共和国」にし、一党独裁から徐々に自由化民主化を進めていくという手はある。
今は「党員のための、党員による、党員の専制国家」だが、これを「国民のための、国民による、国民の国家」すなわち「国民国家」に変えていかなければ“世界の孤児”になるばかりではないか。米国やEUの統治体制の「いいとこ取り」をして、国民がそれなりに自由に、気分良く、安心して暮らせる国民国家を目指す、それを共産党が自ら断行できなければ、ソ連末期のように国民はナイナイヅクシで苦しむことになる。30年遅れの赤色帝国崩壊物語・・・
ソ連生まれ、ロシア育ち、日本帰化の井本沙織氏「ロシア人しか知らない本当のロシア」から。
<私は1991年にソ連から日本にやってきた。幼いころから大学を卒業するまでのソ連体験は、私の中で今も生き続けている。しかし、その体験の元となった国の制度、価値観は消滅した。
私はソ連、ロシア、日本という三つの国、冷戦とグローバル化という二つの異なる時代、社会主義と資本主義という全く異なる制度を生きながら、多くの経験をした・・・
ソ連時代の末期、1980年代の末のソ連のスーパーマーケットの光景は散々たるものだった。このまま行ったら餓死する人も出かねない、と心配する声がちらほら聞こえ始めていた。とりわけ地方は深刻だった。
食料品が並ぶはずの棚には、乾パンのようなクッキーとウオツカしかなかった。石鹸やシャンプー、トイレットペーパーはぜいたく品の範疇に入っていた。田舎に住んでいる人々は買い出しのために大きな布袋を抱えて列車に乗り、数百キロ離れたモスクワへ向かった。モスクワの大きな駅はどこも、戦時中でもないのに避難民のような格好の群衆で溢れていた。
デフィシト(不足)という言葉が「おはようございます」「こんにちは」と同じぐらいの頻度で使われていた。日用品をはじめ、愛想、信頼、期待はすべてがデフィシトの時代だった。デフィシトとオートレディ(行列)は、ソ連末期という時代劇のシンボルだった。
毎日の行列は耐え難いものだったが、何かしら食べないわけにはいかない。大学を出て社会人になったばかりの私は、週に数回、食料の調達に出かけたが、スーパーは商品不足で店内はいつも閑散としていた・・・>
中共には優秀な人材はいるが、中共中央に逆らえば“除染、隔離、抹殺”されるから諫言できない。目立たないように逼塞しているしかない。学者が100人1000人いても中共お墨付きの解釈のクチパク以外は許されない。陰では「江沢民時代は良かったなあ」と懐かしんでいるとか。9000万の中共党員も「国政の改革開放」なんて恐ろしくてできない、声を上げたら潰されるのだから。権力者に諫言するものが全くいない、いたとしても速攻で刑務所送りだ。習近平の財界向け新年の辞――
「人々への奉仕、革新と発展、刻苦奮闘の精神を発揚し、終始慎重で、おごりや焦りのない冷静な頭脳を常に保ち、困難や危険を恐れず、鋭意進取する奮闘の粘り強さを永遠に保ち、社会主義現代化国家の全面的建設に向けた新たな征途において勇敢に前進し、優れた業績をもって中国共産党創立100周年を祝わなければならない」
悪夢の100年。上り詰めたら下り坂、ソ連のように転げ落ちるだろう。フセイン、カダフィ・・・賢人になりそこなった独裁者の末路を思えば習近平は自裁するのが上等だ。遺体を残さないように渤海浜辺の“夏の家”に火をつけてから首を括るべし。
前回に続いて伊藤貫著「歴史に残る外交三賢人」から咀嚼、引用する。
<ドゴールの1940~44年の反独闘争に対して最も長期間、恨みを抱き続けたのは、ヴィシーに樹立された親独コラボレーショニスト政権、即ち親ナチスの傀儡政権に参加した体制派のフランスの政治家、官僚、軍人であった。
(コラボレーショニスト:自国を占領した外国軍隊の統治にせっせと協力して、自分たちの利益と安全を確保しようとする人)
1945年(終戦)以降のドゴールの内政と外交に最も執拗に抵抗し続けたのも、米国による欧州支配に拍手喝采したフランスの親米コラボレーショニスト(フランスの拝米保守派)だったのである。
「(WW2で実質的に負けたという)弱い立場のフランスは、戦勝した強国に依存して自国の生存と利益を確保すればよい」と考えた親ナチ派や親米派のコラボレーショニストにとって、「軍事強国のドイツや米国に対してむきになって抵抗し続けた気難しいナショナリスト、ドゴール」は、非常に目障りで不快な存在であった。
しかしドゴールには彼なりの政治哲学があった。「コラボレーショニズム(勝者への依存)を長期間続けると国家と民族のインテグリティ(矜持、精神)、レジティマシー(正統・正当性、基盤)、責任感を喪失してしまう」と確信していた。
コラボレーショニズムとは、自国の軍事政策、外交政策、経済政策の最も基本的な部分を「我々を保護し、指導してくれる覇権国に決めてもらう」体制である。強国が「フランスが実行すべき軍事政策、外交政策、通商政策、金融政策は、あれだこれだ」と一方的に通告してくると、その命令に従って国家を運営していくのがコラボレーショニズムである。
1932年以降の「名目的に独立した満洲国」や、1952年以降の「名目的に独立を回復した日本国」はコラボレーショニスト国家の典型である。ドゴールは「それを長期間続けていると、その国の国民は“自国の運命を自分で決める”という責任感を失ってしまう」と危惧していたのである>(続く)
この期に及んでも日本は「アメリカ様、これまでもこれからもあなた様が頼りです、見捨てないでください。捨てられたら生きていけません、後生だからお願い、どうか、どうか、哀れと思って、これまでのようにお側においてください・・・」、涙、涙、なだそうそう。
老いた妾は同情されるかもしれないが、日本はひたすらセコイ、醜い、ズルイ、汚いと、小生が米国民なら思うがなあ。この手の政治家は習近平と一緒に消えてほしいもの。日本人としての矜持がないから自裁は無理か、選挙で駆除するしかないか、民主主義は時間がかかるものだ。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/228(2021/1/3/日】1月2日の午前0時半、習近平の夢で目覚めた。習近平が砂浜を歩いており、ズボンのすそは濡れている。諦観したのか、顔は微笑んでいるように見える。やがて浜辺の大きな“夏の家”に入り、首をくくった・・・
楽しい初夢、吉兆、神様仏様、どうぞ正夢にして下さい、と祈ったね。習は最側近の女房、彭麗媛にも愛想をつかされていたようだが、10か月振りに彭が表舞台に登場した。
<習近平国家主席と彭麗媛夫人は2020年11月6日、北京の人民大会堂でカンボジアのシハモニ国王、モニク前王妃と会見した>(中共大使館)
日本では報道されなかったようだが・・・写真を見ると習は冴えないが、夫人は毅然としている、威厳がある、オーラがある。http://jp.xinhuanet.com/2020-11/07/c_139498098.htm
才色兼備の夫人は歌手としても人気者で、軍所属時代は少将、カッコイイ国民的アイドルで、今でも習よりも支持者が多いとか。夫人は旦那や外交部に頼まれたのではなく、自分の意思と支持者の意向で会場に押し掛けたような風情だ。牝鶏鳴きて国滅ぶ、西太后のような例もあるが、レーガンをビビらせた鉄女サッチャー、パープリンを手なずける乳母メルケルのような例もあるから、彭麗媛をトップにしたいという勢力は増えているのではないか。反共メディア「看中国」から。
<2020年11月7日:2020年に入ってから彭麗媛の活動は著しく低下し、習近平に同行することは稀である。2019年12月に習近平とマカオでの祝賀会に出席して以来“ステルス”状態だった。
2020年の夏、中国共産党が「香港版国安法」を推し進めて論争を巻き起こす中、著名な民衆運動家タン・パクチャオは高官筋情報として、2019年11月から12月にかけて、彭麗媛と娘(習明沢、1992年生、ハーバード大卒)が習近平と別居したと伝えている。
タン氏は「別居は2019年の香港問題に対する中共の取り締まりが世界を怒らせたことと関係があるかもしれない」と分析。 習近平の娘はハーバード大人脈の多くの香港の同級生や友人がいる。彭麗媛と娘は非常に近く、最終的に家族合意で彭麗媛は習近平夫人として公の場に現れなくなったようだ。
彭麗媛は習よりもはるかに知名度が高い。 しかし2007年頃、習が国家主席と党総書記に就任した後、彼女は基本的に歌手としてのキャリアをあきらめていた>
レーガンは俳優としてはパッとしなかったが、大統領としては立派だった。中国は国家主席の座を巡って派閥抗争が激しいようだが、彭麗媛を統合の象徴として戴く10~20程の省からなる「中華連省共和国」にし、一党独裁から徐々に自由化民主化を進めていくという手はある。
今は「党員のための、党員による、党員の専制国家」だが、これを「国民のための、国民による、国民の国家」すなわち「国民国家」に変えていかなければ“世界の孤児”になるばかりではないか。米国やEUの統治体制の「いいとこ取り」をして、国民がそれなりに自由に、気分良く、安心して暮らせる国民国家を目指す、それを共産党が自ら断行できなければ、ソ連末期のように国民はナイナイヅクシで苦しむことになる。30年遅れの赤色帝国崩壊物語・・・
ソ連生まれ、ロシア育ち、日本帰化の井本沙織氏「ロシア人しか知らない本当のロシア」から。
<私は1991年にソ連から日本にやってきた。幼いころから大学を卒業するまでのソ連体験は、私の中で今も生き続けている。しかし、その体験の元となった国の制度、価値観は消滅した。
私はソ連、ロシア、日本という三つの国、冷戦とグローバル化という二つの異なる時代、社会主義と資本主義という全く異なる制度を生きながら、多くの経験をした・・・
ソ連時代の末期、1980年代の末のソ連のスーパーマーケットの光景は散々たるものだった。このまま行ったら餓死する人も出かねない、と心配する声がちらほら聞こえ始めていた。とりわけ地方は深刻だった。
食料品が並ぶはずの棚には、乾パンのようなクッキーとウオツカしかなかった。石鹸やシャンプー、トイレットペーパーはぜいたく品の範疇に入っていた。田舎に住んでいる人々は買い出しのために大きな布袋を抱えて列車に乗り、数百キロ離れたモスクワへ向かった。モスクワの大きな駅はどこも、戦時中でもないのに避難民のような格好の群衆で溢れていた。
デフィシト(不足)という言葉が「おはようございます」「こんにちは」と同じぐらいの頻度で使われていた。日用品をはじめ、愛想、信頼、期待はすべてがデフィシトの時代だった。デフィシトとオートレディ(行列)は、ソ連末期という時代劇のシンボルだった。
毎日の行列は耐え難いものだったが、何かしら食べないわけにはいかない。大学を出て社会人になったばかりの私は、週に数回、食料の調達に出かけたが、スーパーは商品不足で店内はいつも閑散としていた・・・>
中共には優秀な人材はいるが、中共中央に逆らえば“除染、隔離、抹殺”されるから諫言できない。目立たないように逼塞しているしかない。学者が100人1000人いても中共お墨付きの解釈のクチパク以外は許されない。陰では「江沢民時代は良かったなあ」と懐かしんでいるとか。9000万の中共党員も「国政の改革開放」なんて恐ろしくてできない、声を上げたら潰されるのだから。権力者に諫言するものが全くいない、いたとしても速攻で刑務所送りだ。習近平の財界向け新年の辞――
「人々への奉仕、革新と発展、刻苦奮闘の精神を発揚し、終始慎重で、おごりや焦りのない冷静な頭脳を常に保ち、困難や危険を恐れず、鋭意進取する奮闘の粘り強さを永遠に保ち、社会主義現代化国家の全面的建設に向けた新たな征途において勇敢に前進し、優れた業績をもって中国共産党創立100周年を祝わなければならない」
悪夢の100年。上り詰めたら下り坂、ソ連のように転げ落ちるだろう。フセイン、カダフィ・・・賢人になりそこなった独裁者の末路を思えば習近平は自裁するのが上等だ。遺体を残さないように渤海浜辺の“夏の家”に火をつけてから首を括るべし。
前回に続いて伊藤貫著「歴史に残る外交三賢人」から咀嚼、引用する。
<ドゴールの1940~44年の反独闘争に対して最も長期間、恨みを抱き続けたのは、ヴィシーに樹立された親独コラボレーショニスト政権、即ち親ナチスの傀儡政権に参加した体制派のフランスの政治家、官僚、軍人であった。
(コラボレーショニスト:自国を占領した外国軍隊の統治にせっせと協力して、自分たちの利益と安全を確保しようとする人)
1945年(終戦)以降のドゴールの内政と外交に最も執拗に抵抗し続けたのも、米国による欧州支配に拍手喝采したフランスの親米コラボレーショニスト(フランスの拝米保守派)だったのである。
「(WW2で実質的に負けたという)弱い立場のフランスは、戦勝した強国に依存して自国の生存と利益を確保すればよい」と考えた親ナチ派や親米派のコラボレーショニストにとって、「軍事強国のドイツや米国に対してむきになって抵抗し続けた気難しいナショナリスト、ドゴール」は、非常に目障りで不快な存在であった。
しかしドゴールには彼なりの政治哲学があった。「コラボレーショニズム(勝者への依存)を長期間続けると国家と民族のインテグリティ(矜持、精神)、レジティマシー(正統・正当性、基盤)、責任感を喪失してしまう」と確信していた。
コラボレーショニズムとは、自国の軍事政策、外交政策、経済政策の最も基本的な部分を「我々を保護し、指導してくれる覇権国に決めてもらう」体制である。強国が「フランスが実行すべき軍事政策、外交政策、通商政策、金融政策は、あれだこれだ」と一方的に通告してくると、その命令に従って国家を運営していくのがコラボレーショニズムである。
1932年以降の「名目的に独立した満洲国」や、1952年以降の「名目的に独立を回復した日本国」はコラボレーショニスト国家の典型である。ドゴールは「それを長期間続けていると、その国の国民は“自国の運命を自分で決める”という責任感を失ってしまう」と危惧していたのである>(続く)
この期に及んでも日本は「アメリカ様、これまでもこれからもあなた様が頼りです、見捨てないでください。捨てられたら生きていけません、後生だからお願い、どうか、どうか、哀れと思って、これまでのようにお側においてください・・・」、涙、涙、なだそうそう。
老いた妾は同情されるかもしれないが、日本はひたすらセコイ、醜い、ズルイ、汚いと、小生が米国民なら思うがなあ。この手の政治家は習近平と一緒に消えてほしいもの。日本人としての矜持がないから自裁は無理か、選挙で駆除するしかないか、民主主義は時間がかかるものだ。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp